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〔短編〕カフェオレの朝

布団からそっと起き上がる。まだ真っ暗な部屋で、枕元の時計を見ると午前4時。こんな時刻に目覚めてしまった自分にため息を付きながら、カーディガンを羽織って布団を出る。もう眠れそうにない。
一人きりの寝室は静かすぎるので、スリッパをはいてキッチンに向かった。冷蔵庫の微かなモーター音に何故かホッとしながら、牛乳をカップに注いで電子レンジに入れる。温まったミルクにインスタントコーヒーを足して、即席カフェオレの出来上がり。一人ならこれで充分だ。

このカフェオレを教えてくれたのは母だった。父の浮気が原因で離婚したのは、私がまだ幼稚園に通っていた頃。それから二人でアパートに引っ越し、母は働き始めた。慰謝料と養育費を一括で貰っていたので、私が小学生の間は仕事をセーブしつつ、出来るだけ学校の行事にも参加してくれた。
「お母さん、今度の参観日は絶対に来てね!私、発表するから」
「大丈夫よ。ちゃんとお休み、もらっているよ」
その頃、何度も交わした会話だ。そして、この約束は破られたことはなかった。
また、しっかり者の母は、仕事に役立つ資格もその間に取得していたようだ。小学生の間は宿題も見てくれたし、夕食もちゃんと用意してくれて、母から愛されていることは子どもながらに感じていた。カフェオレを飲みながら、私の一日の出来事を聞いてくれる母の笑顔が好きだった。振り返っても幸せな小学生時代だったと思う。

それが変わっていったのは中学の頃。私の成績が良く、学年でもトップクラスだと分かると、母は無自覚にそれを自慢するようになった。別れた父を見返す気持ちも、どこかにあったのかも知れない。私を有名な学習塾に通わせ、もっと上を目指せと言うようになり、同時に、その費用を稼ぐため仕事中心の生活になっていった。頭では私のためだと理解していたが、心はそんなに簡単ではない。
「私はお母さんの見栄のために勉強してるんじゃない!」
何度もそんな言葉を飲み込み、生活も心もすれ違っていった。

思えばその頃から、夜は一人でこのカフェオレを飲む癖が付いた気がする。温かく優しく、でも砂糖を入れないのでほろ苦い。私はすれ違いながらも、どこかで母と繋がっていたかったのかも知れない。口の中に広がるカフェオレの香りに、ふとそう気が付いた。

名門と言われる高校に入学すると、母はますます私の成績を誇るようになった。私にはそんな優越感など全くなかったが、難関大を目指すクラスには入れた。つまり、成績は相変わらず良かったのだ。けれど、仲の良い友達もできず、「頭は良いけどクラスで浮きがちな人」というポジションは孤独だった。
ところがそのクラスには、私と同じようなポジションの男子がいて…いつしか、付き合うようになった。同類相憐れむ、という感じだったのかも知れない。お互いに親が煩いので、誰にも秘密にしていたのだが、やがて隠せない事態になった。妊娠したのだ。いよいよ大学入試に向けてスパートをかけるはずの、高校3年の春だった。

私は浅く息を吐くと、少し冷めたカフェオレを流し込む。あの頃のことを思い出すのは苦痛だが、そろそろ自分の中で片付けなければいけない過去だ。思い出せない振りも、もう終わりにしたい。

妊娠が発覚すると、両家の親は激怒し、嘆き、
「おたくの子どもが誘ったに違いない!うちの子の将来に傷を付けるなんて許せない!」
と罵り合った。親たちが口を揃えたのは「子どもは諦めろ」ということだけ。私たちはそんな親たちに嫌気が差し、とうとう二人で逃げ出した。そう、世間で言うところの「駆け落ち」だ。
二人で安いホテルを転々としながら、飯事のように暮らしていた。手洗い出来る服は私がホテルで洗い、コインランドリーの乾燥機を使って乾かした。スーパーの安い惣菜を買って夕食を済ませると、次はどこへ行くかを相談する日々だった。だが、どんなに節約しても段々と所持金は減っていく。当然だ。収入がないのだから。その上、彼には家事能力も無かった。洗濯はいつも私だし、安いお惣菜に平気で「飽きた」などと言う癖に、パックご飯でお握りすら作れない。
それでも私は行けるところまで行くつもりだったが、そんな暮らしは二週間で唐突に終わった。彼が勝手に自分の親に連絡したのだ。「俺、もう無理だ」と。言うことを聞かなくてごめんなさい、とママに謝りつつ。

連れ戻されてからは、お互いに顔も見たくなかったが、仕方なく高校には戻った。クラスメイトが遠巻きに私たちを見ながら、コソコソと陰で面白おかしく言っていたことは知っている。そして、私は裏切られたのだから当然だと思うが、何故か彼も私をあからさまに避けるようになった。それも、申し訳ないと言うよりも「お前のせいで俺の人生に傷がついた」とでも言いたげな態度で。全く、自分の見る目の無さに笑ってしまう。それでも私は子どもは産みたかった。が、ある朝突然倒れて病院に運ばれ、流産を告げられた。もう妊娠することは望めない、とも。

冷めたカフェオレを飲み終わり、もう一杯作ろうか迷う。だが、ここまで思い返したのだから、もうこの勢いで片付けてしまいたい。下手に動くと、また嫌になるかも。私はカフェオレを諦め、空っぽになったマグカップを両手で包んだまま静かに記憶を辿った。

彼はその後、第二志望の大学に受かり街を出た。その後は知らない。私は費用のことも考えて資格の取れる専門学校に進路変更し、家を離れ一人暮らしを始めた。母は、私に強く言うことは無くなっていたし、仕事も私の家出をきっかけに減らしていたので、揉めることはなかった。二週間ぶりに家出から帰ったとき、「生きていてくれたらそれで良い」と泣きながら言った母の言葉は本音だったのだろう。ただそうは言っても、お互いにどこか気まずいまま、たまに連絡を取り合う関係が続いた。卒業後は専門学校の推薦で事務職が決まり、母の元へ帰ることなくそのままそこで落ち着いた。

働き始めると、そこで声をかけてくる男性も何人かはいた。大抵は適当な理由を付けてあしらっていたが、たまに真剣に交際を求めてくる男性には、高校の頃のことを正直に話した。ほとんどの場合、これで男性は引き下がってくれたのだが、一人、猛烈に怒りだした男性がいた。
「ゆ、許せないです、その男!僕なら、絶対にそんな裏切りはしません!だって、あなたと暮らすためには、年齢を偽ってでも働けないかとか、日雇いでなら働けないかとか、もっと努力すべきでしょう!」
本人は真剣だったが、どこかズレている。思わず吹き出した私に、彼はハッとしたようで、ふざけた訳じゃ無いとか、何か変なことを言ってしまったかもと、汗をかきながら謝り続ける。それがおかしくて、私は泣きながら笑った。その男性が、二歳年上の今の夫だ。

彼の父親はずっと前に他界しており、私と同じく母子家庭で育ったそうだ。就職を機に家を出て、それから一人暮らしをしていた。あの告白から三年ほど付き合った後、彼はまた汗だくになりながらプロポーズしてくれた。だが、こんな私で良いのか、彼の母親は反対しているのではないか、不安で返事が出来ない。それでも彼は、
「君以外に結婚したい人なんていない。今までも、これからも」
と根気よく説得するものだから、とうとう根負けするように私も承諾した。そして初めて義母に挨拶に行く日。どんなに厳しいことを言われても仕方がないと、覚悟を決めていた。ところが挨拶もそこそこに、私が自分の過去を話そうとすると、やんわりと遮られた。
「辛い過去のひとつやふたつ、誰でもあるわよ。そんなの、私に無理に言わなくていいの。息子が納得しているのなら、私がとやかく言うことなんて無いわ。二人が幸せならそれで充分」
そのストレートな優しさに驚き、気が付くと涙がこぼれていた。

私の母はと言うと、最初は私が騙されているのではと心配していた。そんな男性が本当にいるのかと、にわかには信じられなかったようだ。それはそうだろう、私も信じられなかったのだから。その後、直接彼に会い、その心配は杞憂だったと理解してくれたが、「彼の母親はきっと内心では反対しているだろう」と新たな心配をしていた。
それぞれの母親を伴い、四人で顔合わせをすることになった日、私の母の顔は少し強張っていた。緊張と不安と、まだ少し疑いも残っていたのかも知れない。一通り挨拶が終わると、意を決したように母が口を開いた。
「あの、本当にうちの娘で良いんでしょうか…」
「はい?」
彼も義母も、ちょっと驚いた顔でこちらを見た。
「いえ、息子さんはとても素敵な方ですし、他にも良い女性が…」
そこで義母が大声で笑い出した。
「いえいえ、うちの子には娘さんしかいませんよ!娘さんが入社して以来、電話すればその話ばかりで」
「ちょ、ちょっと!母さん!」
真っ赤になって慌てる彼に構わず、話し続ける。
「とても素敵な人が入社してきたって、まあ弾んだ声で。可愛いだけでなく仕事が速くて正確で、みんなが頼ってしまうけど、涼しい顔でこなしてる。それでも偉そうにもせず控え目で、とにかくカッコいい。こんな人に初めて会ったって」
彼はますます真っ赤になっていく。初めて聞く話に、思わず私も顔が熱くなってきた。
「いや、それは母さんが聞くから答えただけで…」
「違うわよ。私は『仕事はどう?』って聞いただけでしょ。それなのにもう、彼女の話ばっかり。もしこれで振られたら、この子は一生独身だろうって、覚悟してたんですよ。結婚してくれるって聞いて、思わずバンザイしたんですから。私こそ、本当にこの子で良いのかって聞きたかったけれど、それで『やっぱり嫌です』って言われると困るから黙ってたんです」
明るく話す彼の母親と、真っ赤になって俯く私たちを見ながら、フッと母の緊張が解けるのを感じた。そして深々と頭を下げると
「うちの娘を、どうかよろしくお願いいたします」
と、少し震える声で言った。

あれから十年。私は結婚を機に在宅ワークに切り替えたが、彼は仕事も含め、本当に何も変わらなかった。昨年、私の母が病で倒れたとき、病院に駆けつけた私たちを見て、母は弱々しく微笑むと、私ではなく彼の手を握って言った。
「この子を幸せにしてくれてありがとう。どうかこれからもよろしくお願いします」
「お、お礼を言うのは僕の方です。僕、本当に幸せなので、これからもずっと彼女といたいです。頑張ります!」
相変わらず少しズレた彼の言葉に、母と私は少し笑った。母は私を見て「本当にいい人に出会えて良かったわね。もう何も心配することはないわ。あなたは親孝行な娘よ」
と微笑んだ。その一週間後、母は穏やかな顔で旅立った。涙を堪えようとする私を抱きしめ、
「泣きたいときは泣いていいんだよ」
と彼は言ってくれた。私の何倍も号泣しながら。

今日のような遠くても車で向かう出張は、彼はいつも日帰りで済ませようとする。けれど疲れた状態で夜道の運転は危ないので、私は泊まってくるように強く言っていた。
「ホテルじゃ眠れないんだよ」
とブツブツ言うので、
「じゃあ、枕でも持って行ったら?」
と言うと、
「違うよ。君がいないとぐっすり眠れないんだよ」
とのたまう。子どものようにだだをこねる彼を軽くあしらい、ホテルを予約させたので、今ごろはまだ眠っているだろう。
そしていつからか、私も彼がいないとよく眠れなくなった。こんな風に誰かを心から信頼することなんて、もう無いと思っていたのに。

その時突然、車の停まる音がした。続いて玄関の鍵を開ける音。まだ夜明け前だ。思わず身構えたが、聞き覚えのある足音に気付く。彼だ。
「あれ…?起きてたの?」
キッチンの私を見て、おずおずと彼が言う。
「あ、うん。なんか目が覚めちゃって。それよりどうしたの?ホテルに泊まらなかったの?」
彼は目を逸らして何か迷っているようだったが、やがて真っ直ぐに私を見た。
「僕、君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
ドキン、とした。どんな顔をすれば良いのか分からないが、出来るだけ何気ない風を装う。
「何?そんな改まって」
「じ、実は、僕、その…こ、子猫を飼いたいんだ!」
…は?子猫…?拍子抜けして固まる私に、彼は必死でたたみかける。
「もちろん君のアレルギーは覚えているし、出来るだけ迷惑をかけないようにする。いや、もう迷惑かも知れないし、次に車に乗ったらくしゃみが出るかも知れないし、それはほんとに悪いと思うんだけど、でも、放っておくと死にそうな子猫なんだ!」
話を聞くと、どうやら出張先で捨て猫を見付けたとのこと。まだ片手に乗るサイズのカフェオレ色で、駐車場の隅で震えていたそうだ。思わず拾ってしまったが、ホテルには連れて入ることを断られたため、迷った挙げ句、子猫を連れて泊まらずに帰ってきたと言う。
「勝手なことをしてゴメン!でもどうしても放っておけなくて…」
段々と彼の声が小さくなる。私に申し訳なく思っているのが伝わってくる。

結婚して間もなく、彼が、
「犬か猫、飼うならどっちがいいかな」
と聞いてきたことがある。けれど私は結婚しても、まだこの幸せが続くとは信じ切れないでいた。いつか彼は私が嫌になるかも知れない。その時に、可愛がっていた犬や猫を取り合うのも、押し付け合うのも辛い。だから私は嘘をついた。「ごめん、アレルギーがあるの」と。その一言で彼は飼うのを諦めていたのだ。十年間もずっと。
私はゆっくりと言った。
「アレルギーね、勘違いだったみたいなの」
「えっ?」
「この間、耳鼻科に行ったときにね、いろいろ調べてもらったの。そしたら、花粉症はあるけど、犬や猫は大丈夫だって。多分、たまたま症状が出たときに近くに犬や猫がいたから、そう思い込んだんだろうって…」
花粉症で耳鼻科に行ったことも、犬や猫のアレルギーが無かったことも本当だ。私が勘違いしていた、ということ以外は全て。そんな私の言葉に、彼の顔が輝いた。
「ほんと?本当に?」
「うん。だから私も飼ってみたいな、子猫」
「ちょ、ちょっと待ってて!すぐ連れてくるから!」
バタバタと出て行くと、すぐに車から子猫を連れてきた。淡いカフェオレ色の小さな子猫は、彼の手の中で小さな声で「ミー」と鳴いている。
「可愛いね」
微笑む私に、彼は嬉しそうに言う。
「そうだろう?じゃあ今日は僕も休みだから、まずは病院で診てもらって、それからミルクとかおもちゃとか買いに行こうよ。あ、先に名前を考えなきゃ!」
「名前…見たままカフェオレとか?ミーちゃんとかコハルちゃんとかも、『ちゃん』付けで呼ぶと可愛いよね…」
「僕はカフェオレがいいと思う!」
珍しく、彼がキッパリと言い切る。
「初めて見たときに思ったんだ。君が入れてくれるカフェオレの色だって」
こうして子猫の名前はカフェオレに決まった。そうだ、今度義母にも会ってもらおう。犬も猫も大好きだと言っていたから、きっと喜んでくれるだろう。私がそう言うと、彼も大賛成してくれた。
「めでたく名前も決まったところで、私たちも飲まない、カフェオレ?その後は少し休んでよ。ほとんど寝ていないんでしょう」
「うん、サービスエリアで少しは仮眠を取ったんだけどね」
「いつもより薄めに入れるわ。待ってて」
コーヒーメーカーをセットし、牛乳をミルクパンに入れて温める。二人分ならこの方が美味しい。
「お砂糖、どうする?」
振り向くと、彼は座ったままうつらうつらしている。よれよれになったシャツに、ボサボサの髪。そんな全てが愛おしい。
昇ったばかりの朝日が、柔らかくキッチンを照らしている。広がるカフェオレの香りはどこまでも優しい。子猫のカフェオレが、微笑む私を見て「ミー」と鳴いた。
(完)


わああ、長くなりました!こちらに参加いたします。

こんなに長いストーリーを読んで下さった方、どうも有難うございます。
小牧さん、いつもお手数かけますが、どうぞよろしくお願いいたします!

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