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〔ショートストーリー〕桜風

桜色の風が吹く夜は、外に出てはならない。妖しい世界に誘い込まれて、帰って来られなくなる。

私が子どもの頃から、この村ではそう言われていた。幼い私は意味も分からないまま、桜の咲く夜に怯えていたものだ。何か怖いものが来る、何か良くないことが起こるのだと。特に、村を見下ろす小高い丘の枝垂れ桜は、息を呑むほどに大きく美しく、その分夜になるとゾッとするほど怖かった。
大人になっても、子どもの頃にすり込まれた恐怖心は薄らと残っている。ただ、実体のある怖いもの、醜いものを見てきたため、昔ほど怯えることは無くなった。今一番怖いのは…人間だ。

「何をボーッとしているんだ。掃除が終わったら、さっさとこっちを手伝え!このクズが!」
十歳年上の夫の怒鳴り声に、思わずビクッとしてしまう。親に言われるまま村はずれの農家に嫁いだ私に、夫は常にイライラしている。毎日のことだが、二年経っても慣れることはない。
村では未だに「結婚こそが女の幸せ」とか「結婚してこそ一人前」という価値観が蔓延っている。私の両親も、
「いつまでも家にいられたら体裁が悪いから、早く嫁に行け。この村の中で、この家から一番離れた家が良い」
と、強引に見合いをさせて私を家から追い出した。進学先を決める時も就職する時も、家を出ることを決して許さなかったのに、いつまでも居座るなとは。あまりにも思いやりのない言いように、私は思い知った。両親には1歳下の弟さえいれば良かったのだと。私は、どんなに勉強やお手伝いを頑張っても、弟が生まれてからは最後まで「要らない子ども」だったのだ。私を慕ってくれる弟が、何かにつけて私を庇い、親に苦言を呈するようになったのも面白くなかったのだろう。

「…初めまして」
「よろしくお願いします」
あの桜の下で初めて顔を合わせた夫は、寡黙で物静かな印象だった。饒舌な仲人だけが、ちょうど今日は桜も満開で幸先が良いとか、新たな門出には相応しいとか、何の根拠もないことをペラペラと喋っていた。
桜の下でのお見合いは、私には1円を使うのも躊躇う両親の希望だったらしい。そしてそれは、妻を「タダで使える労働力」と思っている夫も同じだったようだ。店と違って、席を予約する必要も、お金を払う必要もないのだから。

もともと私には拒否権など無かったので、物静かな人ならまだ良いとさえその時は思った。だが違った。口を開けば破談になると仲人から助言され、何も言わなかっただけだったのだ。結婚した途端に暴君の本性をさらけ出し、私は朝から晩まで理不尽に罵詈雑言を浴びせられることになった。
一日中、奴隷のように怒鳴られ、働かされ、反論も意見も許されない毎日。熱があっても、怪我をしても、仕事を休ませてはもらえなかった。結婚して二年、あの枝垂れ桜をゆっくりと見た記憶すらない。日が出ている間はロボットのように働いて、夜中になってやっと泥のように眠るだけ。
「帰って来られなくなる、か…」
私は段々と、桜色の風が吹く夜を夢みるようになっていった。

そして今日、やっと枝垂れ桜が満開になった。真夜中、夫が眠るのを待ち、そっとカーディガンを羽織って外に出る。柔らかな夜風が心地よい。暗闇の中で丘の上に目を凝らすと、枝垂れ桜がぼんやりと光って見えた。
「誰か…いるのかも」
誰かの懐中電灯で、桜が光って見えるのかも知れない。こっそり桜の下まで行こうとしていた私は、一瞬戸惑った。だが、この夜を心の支えにして来たのに、今さら止めることなど出来るはずが無い。明日になれば、桜色の風はもう吹かないかも知れないのだ。私は小さな懐中電灯をぎゅっと握りしめ、丘への道を急いだ。

夜露に濡れる草を踏みしめながら、緩やかな坂を登る。足元からひんやりとした青い匂いが立ち上ってくる。もう少し、もう少しで桜の丘だ。一心に足元を見ながら歩いて、やっと桜の下に辿り着いた。顔を上げ、先客がいないか確かめたが、やはり誰もいなかった。それでも桜はぼんやりと光って見える。
「ああ、満月…」
桜の向こう側、低い空に満月が昇っていた。枝垂れ桜が風に揺れると、その隙間からチラチラと月の光が差し込んで美しい。私は目の前の桜の圧倒的な存在感に気圧され、石のように動けなくなってしまった。
『あら、いらっしゃい』
突然、桜の幹の陰から着物姿の女性が現れた。桜色の着物の美しい女性は、鈴を転がすような心地良い声で話しかけてくれたが、その口は動いてはいない。少し口角の上がった薄い唇は閉じたまま、声だけが頭に直接響いてくる。きっと彼女はこの世の者ではない。だが、不思議と怖さは感じなかった。
「こ、こんばんは」
我ながら、間抜けな挨拶を返してしまう。だが、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。鳥肌が立つような、ゾッとするほどの美しさで。

『今夜は桜風よ。この村の言い伝えは知っているわね?』
頭に心地良い声が響いてくる。私は声に出して答えた。
「ええ、だから来たんです。ここから連れ出して欲しくて」
彼女は微笑んだまま、小首をかしげる。
『そう…もう戻れなくなるけど、それでいいの?』
「戻りたくなんてありません。もう…限界なんです」
言いながら、涙が溢れてきた。まだ自分の中に涙が残っていたことに少し驚く。彼女は柔らかく微笑んだまま、そんな私をしばらく見つめていたが、やがてそっと手を差し伸べる。
『分かったわ。じゃあ、一緒に行きましょう』
私は躊躇わず彼女の手を取った。その途端、強い風が吹き、桜の花びらが月明かりに舞い上がる。
「綺麗…」
繋いだ手から温かいものが流れ込んできて、私の心に満ちていく。優しく私たちを照らす満月も、静かに微笑む彼女も、舞い上がる桜の花びらも、なんて美しいんだろう。気付くと私も彼女に微笑みかけながら、桜の向こう側へと歩き出していた。


翌朝。丘の枝垂れ桜にもたれかかるように座ったまま、冷たくなっている女性が見付かった。髪はボサボサ、頬はこけており、まだ夜は寒いというのに薄手のカーディガンを羽織っただけの姿。ただ、その顔は微笑んでいるように見える。
事情を知る近所の人たちは、そんな彼女を憐れに思い、みな沈痛な面持ちで俯いていた。そこへ、知らせを受けた夫と、実家の家族がやって来た。
「ね、姉ちゃん…!こんなに痩せて、なんて酷い…」
姉は嫁ぎ先で幸せに暮らしているから会いに行くと邪魔になる、と言われていた弟は、二年ぶりに見た姉の姿に泣き崩れた。だが、両親と夫は口々に、
「また恥さらしなことを」
「最後まで役立たずな娘だ」
「こんな当てつけみたいな死に方をして、根性がひん曲がっている」
と、言いたい放題。弟も近所の人たちも、彼らのあまりの言いように黙っておられず声を荒らげそうになったその時、不意に強い風が吹いた。大量の桜の花びらが、一気に舞い上がる。皆、思わず目も口も慌てて閉じた。顔に体に、柔らかな桜の花びらが降り注ぐ。その時。
ヒュッ。
何かが風を切る音がしたかと思うと、両親と夫から悲鳴が上がった。
「痛い!痛い!」
「や、やめてくれ!」
「ああ!顔が切られた!痛いー!」
目を開けると、何故か彼らに降る花びらだけ剃刀の刃のように硬く鋭くなり、顔も体も見る見る血だらけになっていく。降り注ぐ桜色の刃は、まるで生き物のように、2度、3度と切りつけるまで地面に落ちない。
「た、助けてくれ!」
何人かが反射的に助けに行こうとするが、その足元に強風が纏わり付き、動くことが出来ない。しばらくして風がおさまると、ほとんど花を落としてしまった枝垂れ桜と、その幹にもたれて動かないままの女性、呆然とする村人たちと弟、そして痛い痛いと泣き喚く三人の姿があった。

その後。怪我をした三人は、傷の数こそ多いもののそう深くはない傷だったので、いずれは治ると思われた。だが、夫は喉の傷が酷く化膿し、何とか命は取り留めたが声を出すことが出来なくなった。また、両親は顔や体の傷痕が消えずに残り、その付近を動かす度に激痛が走るようになった。そのためか、彼らは急速に弱っていき、やがてみんな死んでしまった。

独りになった弟は、静かに村を出て行った。村人たちも、その方が良いだろうと黙って見送ったので、その後のことは知らない。ただ、時には村に帰っているのか、両親と姉の墓にはたまに真新しい花が供えられているし、丘の桜の下でじっと佇む男を見たという人もいる。
慕っていた優しい姉を死なせた報いのように、両親があのような亡くなり方をしたことは、彼の心に大きな影を落としているに違いない。だから誰も深く詮索することはしなかったし、これからもそうだろう。
ただ。どうか彼が平穏な暮らしをしているようにと、村人たちは口に出さずに心の奥で願っているそうだ。
(完)


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小牧さん、お手数かけますがよろしくお願いします。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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