愛情では命を救えない
愛猫はっちが突然死んでしまって、いまだに気持ちの整理がつかない。
それでも彼と別れたばかりの計り知れない悲しみはいくらか和らいで、と言ってももちろん今も悲しいのだけれど、急にワッと泣き出すようなことはなくなった。
うまく文章にできないのだけれど、とりあえずいま書けることを書いておこうと思う。
亡くなるときにその身を包んでいたブランケットに体液がついたままで、洗ってしまったらはっちを感じられるものが何もなくなってしまう気がして寂しくて洗えずにいた。
他の猫たちもそれを嗅いでは不思議そうにしたり、はっちの残り香を感じていたようだった。
と言っても放置していたのはおそらく五日ほどで、思い切って洗濯し、今は家族みんなのラグとして使っている。
こういう悲しみや寂しさがあることを私は知らなかった。
それから、はっちを夜間救急動物病院に連れて行った、命日の夜。
手を尽くしてそれでも別れるしかないとなったあの夜、はっちを自宅へ連れ帰った。
そのときに通った道路は主要な道で、車で出かけたら必ず通るような道だったのだけれど、休日にそこを通ったらあの夜の気持ちが鮮明に思い出されて泣いてしまった。
苦しみながらでも一分一秒でも長く生きるか、モルヒネを投与し眠るように楽に息を引き取るか。
異変を感じて病院に駆け込み、集中治療室で手を尽くしてもらい、その結果はっちに与えられた二択だった。
私たち夫婦は話し合いの末に後者を選び、そうして自宅で看取ろうという帰り道だった。
私は後部座席に座ってぐったりとしたはっちを撫でながら、何度も何度も「帰ろうね」「みんなはっちを待ってるよ」「はっちちゃん、大好き。可愛いね」と言った。まだ体はあたたかく、しかし呼吸は弱くなる一方だった。
どうか車内で息を引き取りませんように。この子たちのために建てた家に帰れますように。他の子たちと一緒にお見送りができますように。運転してくれている夫もきちんとお別れができるよう、家に帰れますように。
必死に祈りを込めて声をかけ続けていた。
あの寂しくて長い夜を思い出して、泣いてしまったのだった。
私は愛情というものを信じている人間だ。
だって今までも、猫たちに愛情をかけ世話をすればするほど、彼らは野良時代の面影はどこへやら健康になり、私たちに信頼を向けてくれるようになったから。
愛情が命を救うのだとバカみたいに信じていた。
けれどはっちが急に体調を崩し、たった一日で亡くなってしまった今、荒野に呆然と立ち尽くしているような気持ちでいる。
私の愛ははっちを救えなかった。愛情では生き物の命は救えないのだ。
そんな当たり前のことさえ知らずにいた、なんて愚かで浅ましい生き方をしていたのだろう。
命を救うのは医療でしかなく、医療を受けるには時間とお金があればよく、最悪、そこに愛情はなくても構わないのだ。
むなしかった。
信じていたものが手からこぼれ落ち砕けてしまった。
それでもまだ私がどうにか膝をつかずにいられるのは、他に猫が三匹いるからだ。
愛情で命は救えないし、あと三度はお別れが待っている。途方もない悲しみが待っている、そのことが確約されている。
それでも私に体をこすりつけ、こちらを見上げて鳴き、私の手から何の疑いもなくごはんを食べる猫たちを見ていると、腹をくくるしかないと思うのだ。
どうしたって愛情を抱かずにいられないし、彼らが安らかに眠るまできちんとそばにいてお世話をしたい。
別れは言葉にできないほどつらいのに、やっぱり愛さずにいられない。
こんなにむなしい生き方があるなんて、本当に知らなかった。だってなにかを愛したことがなかったから。
はっちにはいろんなことを教えてもらった。
そのなかでも、自分がここまでなにかを愛し、別れに慟哭し、激しく心を動かせる人間なのだと教えてもらえたことは大きかった。
でもまだまだ、教えてほしいことがたくさんあった。
老猫の介護のしかたを知らないままだし、おじいちゃんになったはっちの姿も知らないままだ。
子猫が大好きで、野良時代にも育児に精を出していたはっちのためにも、いつか子猫を迎えて一緒に子育てをするつもりだったのに、子猫の育てかたも知らないまま終わりそうだ。
(今の猫たちを看取ったら、猫と暮らすのはそれで最後になるかもしれないので)
はっちは本当に立派な猫だった。
今日は書けそうにないから、またこんど、どう立派だったのか書けるといいな。
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