子どもの頃は。
私がまだ、小さな小さな子どもだった頃は、
二十五歳といえば、とてもとても立派な大人だった。
綺麗な仕事着に身を包み、
結婚間近の大切な人がいて、
友達と一緒に仕事のグチなんかこぼしながら、
なんだかんだ生き生きと瞳を輝かせて、
私なんかよりずっとずっと強く、自由に生きている。
そんなふうに思っていたけれど、
まさか、こんな二十五歳になっているなんて、
子どもの頃の私は思いもしなかった。
定職に就かずすっぴんにジャージ姿でうろうろして、
結婚間近でもなんでもなく、
友達とは相変わらずバカな話をしている。
子どもの頃の私よりは、
はるかに自由に生きているけれど、
あの頃より強いかどうかはわからない。
できることもたくさん増えたけれど、
できなくなったこともたくさんある。
注射で泣かないことを強さと言うなら、子どもの頃の私はとても強かった。
傷ついたときにボロボロ泣きながら傷ついたと表明できることを強さと言うなら、今の私もそれなりに強い。
瞳が輝いているかと問われれば、
キラキラのときもあるけれど、
死にきっているときもある。
希望があるかと問われれば、
自分の人生には希望があるけれど、
この世界の未来には年々絶望が深まっていく。
強くなったかはわからないが、
間違いなく君より自由ではある。
強くなったかはわからないが、
君より柔らかく、広くはなったかと思う。
まさか綺麗な仕事着ではなく、
だる着のジャージを身にまとい、
まだまだ人生に迷っているなんて、
そんなことは思っていなかった。
でも、三十歳や四十歳のお兄様、お姉様がたを見て思う。
「人生の深みが違うよねえ」と。
結婚している人は、「この人」と心に決め、人生の一大決心を下した人だ。立派だ。
結婚していない人は、途中で外野がガヤガヤいったかもしれないのに、結婚しないという決断を今までずっと下し続けている人だ。立派だ。
結婚歴がある人は、「この人」という一大決心のあと、その人とお別れをするという決断まで、大きな決断を二つも下した人だ。立派だ。
結婚ひとつとってもこうである。
仕事だって、
正社員の人も、
フリーランスの人も、
フリーターの人も、
専業主婦・主夫の人も、
無職の人も、
さまざまな決断を下してきたのである。立派である。
友達だって、趣味だって、他のどんなことだってそうだ。
やはり、三十歳や四十歳のお兄様、お姉様がたは、面構えが違う。佇まいが違う。私なんてピヨピヨのピヨちゃんだ。
そう思うと、私はまだまだ「自分って若いな」と思う。良くも悪くも。
二十五歳になって、まだ、まだまだ人生に迷っているなんて、
小さな小さな子どもだった頃には、思ってもみなかった。
でも、それってもしかすると、とても素晴らしいことなんじゃないか?なんて、今さっき、ふと思った。
私はまだ、まだまだ若い。
二十五歳で、完成なんかしてたまるかい。
二十五歳で、大人になんかなりきってたまるかい。
君よりは大人だ。
君のような小さな小さな子どもを、きちんと守りたいと思っているから、私は立派な大人だ。
だけど、三十歳や四十歳の方々よりは、子どもだ。
私はまだ、まだまだ何も決めていない。
まだまだ何も決めなくていい。
まだまだ迷っていいのだ。
まだまだ迷えるのだ。
それが若さだ。
三十歳になっても、四十歳になっても、
「あの頃の私よりは大人だなあ」
「でも、まだまだ若いなっ。まだ迷おう」
なんて、思っているかもしれない。
それはそれで、よい人生だ。
素晴らしき人生だ。
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