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「スピノザの診察室」 夏川草介


 「神様のカルテ」を読んで好きだなと思った。漱石の草枕を愛読する医師の栗原一止の物語。松本の本庄病院の勤務医として、古びた御嶽荘に住まい、妻の山岳カメラマン ハルさんと紡ぐ心温まる話。シリーズを含めてすべて読んだ。
 縁あって松本に住まうなか、「始まりの木」の柊の木を伊那谷まで見に行ったりも。

伊那谷の大柊

 コロナと闘う「臨床の砦」「レッドゾーン」の2作品はタイムリーで、医師の矜持に頭が下がった。
 夏川作品は、信州の自然豊かな情景に抱かれ、草花の息吹きが医療現場の喧騒に清涼感で和ませてくれる。今回は、舞台が京都の町並みで、甘味が登場して一息つかせてくれる。

第一話 半夏生
 雄町哲郎(マチ先生)は、京都の下町の医師4人の病院に務める。闘病の末に亡くなった妹の子を引き取り育てるために大学病院を去り、患者と向き合い甥を育てる日々。
 哲学をたしなみ、甘いもの好き。哲学者スピノザの名は初めて耳にした。白い半夏生はスマホで調べたが、スピノザは次に読んでみるつもり。
 阿闍梨餅と聞いて嬉しくなった。母方の祖父母が生前京都におり、子どもの頃から盆暮れを過ごした記憶は鮮明で、しっとりした薄皮に上品な餡の味が頭に浮かぶ。
 病院は、完治して退院できる人ばかりではない。緩和医療は、患者と家族に寄り添う医師がそこにいる。命と向き合う方法は一つではない。正解もない。
 高齢の胃癌患者 坂崎さんが自宅て息を引き取る。痛みが増し、薬を増やす医師。病と闘う者と支える家族と向き合い、悩み決断する医師。
 向かいに住まう老人が深々と医師に頭を下げる姿に、瞳を閉じて一つ深く息を吐いた。

第二話 五山
 大学病院の先輩医師の花垣准教授の依頼で南研修医が、週1日雄町の勤める原田病院に。訪問看護の2件は対照的。華道の家元一族の今川陶子さん。膵癌を患うが、髪が抜けることを嫌い抗癌治療を断る。骨董屋の黒川勘蔵は、脳硬塞で倒れ認知症が重なる。無頓着な発言をする息子が献身的に介護を続けている。 
 突然亡くなった黒川勘蔵の息子にかけるマチ先生の言葉が沁みる。在宅介護は支える家族を蝕んでいくもの。一言で人は救われる。
 南の車中でマチ先生が「たとえ病が治らなくても、仮に残された時間が短くても、人は幸せに過ごすことができる。」と呟く。北野天満宮の長五郎餅が心の重しを甘く滲ませてくれる。

第三話 境界線
 花垣准教授は、医者は、科学者と哲学者の二種類の人格を抱えると語る。マチ先生を第一助手としてボストンの学会へ誘うが叶わない。考え方は共感できても、生き方は同じ道を歩めない。
 原田病院の秋鹿医師は、精精神科医から現在は内科医として勤務している。患者と悩み向き合う心の葛藤を、ゲームとショトバーで紛らわしている。
 医師も人。理想と良心を抱えて悩んでいる。

第四話 秋
 花垣准教授が、ボストンで不在の中で起きた大学病院の緊急オペを、マチ先生が影のように支える。少年の内視鏡手術のピンチを助手として支え、そっと退出する姿に憧れる。後日、原田病院にマチ先生宛にオペの現場にいた人達から思いの詰まったお菓子が山のように届く。理不尽な白い巨塔も心温かい人が少なくないと嬉しくなる。真摯な行為は誰かが見ている。自分も気持ちを伝えられる人間でいたいと思う。
 ラストで、第一話で吐血して病院に運び込まれた辻さんが亡くなる。家族を亡くして酒に救いを求めた自業自得を受け入れて、生活保護を断り最後の行き方全うした人生。「おおきに 先生」の走り書きを残して。正解のない医療はどうあるべきか。自分は今何ができるのだろうか。
 心が疲れたら、京都へ出かけ、長五郎餅を食べて、金平糖を買って、賀茂川を歩こうと思った。

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