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瞑想とは何か?


◎瞑想とは「集中すること」なのか?

いったい瞑想とは何だろうか?
世の中には何百種類もの瞑想法が存在するが、いったい私たちは瞑想に何を求め、何を実践し続けているのだろうか?

多くの人は、瞑想を習い始めると、まず呼吸に集中することを教えられるのではないかと思う。

「自分の呼吸に意識を向け続けなさい」
「もし呼吸への集中が途切れて、無自覚に考え事をしてしまっていることに気づいたら、そのたびに呼吸に意識を向け直しなさい」

そんな風に指導されるのではないだろうか?

もちろん、呼吸だけが集中する対象(瞑想対象)として選ばれるわけではない。
眉間(第三の目)に集中する瞑想もあるし、揺らめく炎を見つめて集中する瞑想もある。
ヨガのように身体を動かしながら集中する方法もあるし、スポーツ選手が試合への集中が深まりフローという状態に入るのも、一種の瞑想と言えるかもしれない。

このように、「瞑想に集中はつきものだ」と思われている。
むしろ、「集中することこそが瞑想だ」とさえ考えられているかもしれない。

でも、なぜ集中することがこれほど重要視されるのか?

それは、多くの人の頭の中が、あちこちへ走りまわる思考によっていっぱいになっているからだ。

呼吸に意識を集中しようとするとすぐわかることだが、私たちはほんのわずかな時間さえも集中していられない。
すぐに無自覚な考え事に陥ってしまい、我を失ってしまう。

これは瞑想の初心者が必ず通る道だ。
自分があまりにも考え事に支配されていることに気づき、ほとんどの人が驚くことだろうと思う。

初めは、「呼吸に集中するくらい訳はない」と思うのだが、次の瞬間にはもう呼吸から気が逸れている自分を発見することになるわけだから、人によっては「自分って集中力なさ過ぎ…」と落ち込むこともあるかもしれない。

だが、人間の脳というのはそもそもそういうものだ。
生物の生存戦略として、様々な状況に備え、いろいろなことを考えておかなければならないので、脳は最初から種々雑多な思考をするようにできているのだ。

◎思考を上書きするために集中は使われる

ただ、そうして無自覚に考え事をし続けていると、静かに落ち着いていることができないので、「まずはそれをなんとかしよう」というのが、瞑想の最初の目標になる。
無自覚な思考が暴れまわらないように、おとなしくさせようというわけだ。

そのための方便として、集中が使われる。
実際、呼吸なり眉間なりに集中している間は、無自覚な思考を抑制することができる。
呼吸や眉間などの瞑想対象への集中にエネルギーを使うことで、それ以外の思考が閉め出されるのだ。

瞑想の初心者に集中が教えられるのは、このためだ。
最初からいきなり「静かに何も考えずくつろぎなさい」と言ったって、できるわけがない。
頭の中は無数の思考が超特急で走り回っているだろうし、どんなに自分では「考えまい」と思っていても、いともたやすく思考は浮かんでくるだろう。

なので、最初は「考えることを止める」というマイナスの方向の努力ではなく、「集中することに専心する」というプラスの方向へ努力することになる。
既にしていること(思考)を止めるのではなく、別にすること(集中)を持ってくるわけだ。

これは、無自覚な思考を集中によって上書きしてしまうようなイメージかもしれない。
「既にあるもの(思考)」を「新しいもの(集中)」に置き換えて、消してしまおうというわけだ。

そうして、瞑想法の実践を続けることで、集中力が徐々に鍛えられ、集中していられる時間も長くなり、思考が湧いてくる量も減ってくる。
最終的には、さして集中しようと思わなくても、思考が湧いてこない静かな状態を保てるようになっていくだろう。

◎「集中すること」は「思考すること」と同じ

ただ、ここで転換点が訪れる。
思考そのものがあまり湧いてこなくなると、集中する必要が無くなってくるのだ。

そもそも、なぜ集中する訓練をし始めたのかと言えば、思考が次々に湧いて止まらなかったからだ。
だからこそ、思考を集中で上書きするということをしてきたわけだ。

でも、思考自体がなくなってしまったら、それを集中で上書きする必要はもはやない。
むしろ、集中しないほうが、「余計なノイズ」がなくなって落ち着くことができるだろう。

実際、この段階まで来ると、「集中するのは微弱に思考し続けることだ」と感じられるようになってくる。
集中する時、私たちは「集中しよう」という意志を使うわけだが、これが思考することと感覚的に非常に似通っていることに気づくようになる。
そう、「意志を使うこと」は、「思考すること」とほぼ同じなのだ。

だから、集中しようとし続ける限り、「なんとなく思考し続けている感覚」を抱くことは避けられない。
もし本当に思考のない状態(無心)に留まろうと思うなら、集中そのものをどこかで手放さなければならないだろう。

◎「本当の瞑想」とは何か?

ここで最初の問いに戻ってくる。
そもそも瞑想とは何だろうか?

初心者は(時には指導者でさえ)、「瞑想とは集中することだ」と思っている。
でも、さっきも書いたように、集中は思考を何か別のもので上書きするための方便に過ぎない。
集中は決して瞑想の本質ではなく、「本当の瞑想」を知るために一時的に利用する補助道具みたいなものだ。

「本当の瞑想」とは、「集中するまでもなく思考が静まっている状態」のことだ。
思考はなく、集中もない。
だから、そこには何もない。
「無」だ。

「無」であるはずにもかかわらず、そこには確かに「気づき(意識)」があり、なぜか「安らかな解放感」が伴っている。
これが「本当の瞑想状態」だ。

だが、いきなり最初からこの状態を目指せる人はほとんどいない。
これまで繰り返し書いてきたように、多くの人の頭の中は思考でいっぱいだからだ。

だから、仕方がないので、集中という「余分なもの」をあえて「無」に付け加えて、それ以外のものを全て内側から閉め出すことになる。
だが、内側が十分に静かになったなら、集中もまた「余分なもの」だったのだから、最終的には取り除けばいい。
そうすれば、本当の意味で「無」の中に入って行くことができるようになる。

「瞑想とは何か?」と問われれば、「『無』に入ることが瞑想だ」と私は言う。
でも、それは最初からはほとんど誰にもできないので、「ひとまず集中することを練習して、最終的にそれを捨てる」という「回り道」が必要になるのだ。

ただ、このことは世の中であまり理解されていないように感じる。
どこまでも集中力を高め続けるのが瞑想の道であるかのように考えられているように思うし、そういう実践をする人を聖者や覚者として見る傾向もある。

だが、「本当の瞑想」というのは、集中さえも捨てた、もっと地味なものだ。
瞑想対象(集中する対象)は必ずしも要らないし、特別な坐り方や手の組み方が必須というわけでもない。

今ここでただ沈黙することが瞑想だ。
そして、それは「当たり前の何でもない状態」に落ち着くことであり、「ありのままの自分」にリラックスするということでもあるのだ。