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神経過敏な人が苦しみから自由になる方法

私はけっこう神経過敏なところがあって、周りの目を気にし過ぎる傾向がある。

「自分はいったいどう思われているのだろうか?」
「ひょっとして嫌われているのではないか?」
「あ、さっきの一言で怒らせちゃったかな?」

こういったことが気にかかって、苦しむことがよくある。
何でもない時に突然、過去の自分の言動などを不意に思い出し、「あー、あれ絶対嫌われたわー!やっちゃったわー!」とか思って、落ち着きを失ってしまったりするのだ。

今回は、そういう苦しみの乗り越え方について書いてみたい。
神経過敏でいろいろ想像し過ぎて苦しくなってしまう人は、参考にしてみてほしい。


◎気にしているのは自分だけ?

まず大前提だが、「自分は嫌われているに違いない」という考えは、基本的にはただの思い込みである。

神経過敏な人は、自分のちょっとした失敗などを思い出しては、「あぁ、きっと嫌われてしまった」「怒らせたに違いない」「失望させてしまったかも」とかいろいろ考えては落ち込む。
だが、「本当にそうなのか」と言うと、必ずしもそうではない。

実際、私は気になるあまり、相手に確認してみたことが何度かある。
「さっきはあんなことしてすみませんでした」と言って謝りに行ったのだ。

だが、たいていの場合、相手はきょとんとしている。
そんなことがあったこと自体を忘れているのだ。
そして、少し間があってから、「あぁ、そんなの全然気にしなくていいよ」と言ってくれることがほとんどだった。
つまり、相手からすれば、それくらい「どうでもいいこと」なわけだ。

そうなると、そのことを気にしているのは自分のほうだけで、言ってみれば、「自分一人で勝手に苦しんでいるだけ」とも言える。
相手は特に気にもしておらず、自分だけが気にして苦しんでいるわけなのだから。

◎「単なる想像」に心は反応する

となると、自分を真に苦しめているのは、「相手の想い」ではなく、「自分の想像」なのだ、ということになる。
相手が実際にどう思っているかに関係なく、「こんな風に思われているかも」と自分で想像することで苦しくなっているわけだ。

これは、言い換えれば、「自分の想像」に心が反応している状態だ。
相手に実際に何かを言われて(たとえば、「あなたなんか嫌いだ」とか、「お前は無能だ」とか)、それで傷ついているわけではなく、自分の中にしかないイメージによって傷ついている状態と言える。

そう、そのイメージは自分の中にしかない。
それを見ているのは当人だけで、他の誰にもそれは見えないのだ。

この「自分にしか見えないイメージ」によって、私たちは時に落ち込んだり、傷ついたりする。
心は騒ぎ、落ち着きを失う。
なぜなら、そこには強いリアリティがあるからだ。

そして、リアリティがあるがゆえに、あたかも「本当にそうである」かのように感じられてくる。
その結果、それが「単なる自分の思い込みに過ぎない」ということを忘れてしまうのだ。

◎想像力は自分でコントロールすることができない

と、こんなことを書くと、「そんなのわかってるよ!」という声が聞こえてきそうだ。
「これが自分だけの思い込みに過ぎないなんて、そんなのとっくにわかっている」と、「それにもかかわらず、どうしても苦しくなってしまうのだ」と、そう思う人は多いだろう。

確かに、「これは単なる思い込みだ(相手はきっと気にしてなんかいない)」と思おうとしても、苦しみはなくなってはくれない。
あいもかわらず、「いや、ひょっとしたらこう思われてるかも」とか、「こんな風に思われたかも」とかとか、悪いほうに想像してしまい、苦悩することは続くのではないかと思う。

要するに、自分の想像力は自分でコントロールできないということだ。
たとえ、頭で「こんなこと考えているのは自分のほうだけで、相手はきっと気にしていない」と思おうとしたとしても、私たちは「悪い想像」を量産し続けるだろう。
つまり、頭で考えるだけでは何も変わらないのだ。

思考やイメージというものは、基本的に勝手に湧いてくる。
それをコントロールすることは私たちにはできない。
「考えることをなくそう」と考えること自体、頭の思考の一部だし、いくらそう決意したところで、思考やイメージは浮かび続けるだろうと思う。

だからこそ、私たちは自分の思考やイメージによって振り回されてしまうことになる。
実際には、「嫌われているかも」というのは自分の思い込みに過ぎないのに、そればかり考えてしまうことにもなるわけだ。

◎苦しみを「避ける」のではなく「乗り越える」

なら、どうすればいいのか?

ポイントは、「悪い想像」に心が反応しているということだ。
だったら、心が反応しなくなればいい。
つまり、心が「これはただの想像だ」と理解すればいいのだ。

そのためにどうすればいいのかというと、ここまで書いてきたことをよく理解したうえで、実際に苦しむことだ。
ここまで書いてきたことを頭ではなく心が理解するまで、苦しむしかないと私は思う。

「えー、苦しみたくないからこの記事をここまで読んだのに、結局苦しむしかないのかよ!」という声がまたまた聞こえてきそうだ。
だが、私の経験上、苦しみを何かで誤魔化したり、そこから逃げたりしたとしても、結局は後でそれは返ってくるものだと思う。

苦しみを逃れる術はない。
遅かれ早かれ、苦しまねばならない。
だったら、どこかで思い切って苦しみと向き合ってみるのも一つの手だと私は思う。

そもそも、この記事の最初でも、「苦しみの乗り越え方を伝える」と私は書いた。
「苦しみの避け方」を伝える気は元からなかったのだ。
今だって、あくまでも、「避け方」ではなく「乗り越え方」を書いているつもりだ。

だから、最終的には苦しみと向き合うことを私は推奨する。
避けようとしてジタバタすることを止め、勇気を出して苦しみと正面から向き合うことを勧めたいわけだ。

◎苦しみの生滅を観察する

「でも、それって結局ただ苦しむだけのことで、何も変わらないんじゃないの?」と思うかもしれない。
だが、ここまで書いたことを心が理解するまで、よくよく苦しみを観察してみてほしい。

もちろん、最初は「観察する」なんて悠長なことを言っていられないほど、苦しい想いをすると思う。
意識の中は「苦しい」という感情でいっぱいになり、他には何も感じられなくなるかもしれない。

しかし、それでいいのだ。
苦しさを感じているその時には、その苦しみが永遠に続くかのように思えるものだが、どんな苦しみも必ず終わる。
苦しみ続けられる人というのは、存在しない。

実際に試してみればわかるが、絶え間なく何時間も同じ苦しみを苦悩し続けることはできないはずだ。
どこかでそれは終わって、苦しみは消えていく。
ただ、それを見届ければいい。

もちろん、時間が経てばまた同じ苦しみが蘇ってきて、再び苦しむことになるかもしれない。
そうしたら、また同じように苦しむのだ。
苦しむ中で、それが強まり、やがて弱まり、そして消えていくのを感じるだけでいい。

そうやって苦しみを感じ続け、観察し続けることが大事なのだ。

◎「苦しみの構図」を心が理解する

そうやって苦しみを感じながら観察を続けていると、徐々に変化が現れてくる。
仮に「悪い想像」が浮かんだとしても、心がそれに反応しなくなってくるのだ。

想像はあいかわらず浮かんでくるのだが、それに対する心の反応が無くなり、苦しくならなくなる。
「あぁ、またいつもみたいに『嫌われたかも』って思ってるんだなぁ」とだけ気づいて、何も感じないでいられるようになるのだ。

これは、「『悪い想像』というのは、しょせん自分の中のイメージでしかない」ということを、心が理解している状態だ。
頭でだけでなく、心が理解するところまで行くことで、この状態になる。

「悪い想像」というのはしょせんただのイメージなのだが、そこにリアリティがあれば、心は反応する。
だが、リアリティがなくなってしまえば、もうそのようなことは起こらなくなる。
まるでテレビのディスプレイに映る「何でもない映像」を眺めているみたいに、自分の想像したイメージを眺められるようになるのだ。

大事なことは、理屈を頭で理解することではない。
そうではなくて、心のほうが理解するまで実際に苦しみ抜くことだ。

苦しみの中で、心は徐々に理解していく。
「これはしょせん『ただのイメージ』に過ぎず、なんのリアリティもない『単なる想像』だ」と。

それがわかるようになれば、自分のしていることのバカバカしさを笑えるようにさえなるかもしれない。
実際、「自分のイメージ」というものは、この世界のどこにも存在していない。
それは自分自身の頭の中にしか存在せず、自分で勝手に作り出しているものなのだ。

「自分で勝手に作り出したイメージを見て、そこにリアリティを感じ、一人で苦しんでいる」という構図がここにはある。
いつもいつもその同じパターンを繰り返しているということに、やがては気づくかもしれない。
もし苦しみを既に乗り越えていれば、そのバカバカしさを自分できっと笑いたくなるだろう。
「苦しみを作り出していたのは、他でもない自分自身だったのだ」と気づくからだ。

もちろん、そのことに気づくまでは、ある程度苦しむ必要がある。
さっきも書いたが、こういったことを頭で理解しても意味がないからだ。
他でもない心が理解するまで、苦しみを味わうしかないのだ。

◎苦しみから自由になること

苦しみの味は苦い。
それを好む人はどこにもいない。
だからこそ、だれもが苦しみを避けようとする。

だが、心の反応を滅するためには、苦しみを深く味わう必要がある。
そして、もし苦しみを味わい続けるならば、やがてその苦味は消えていき、後には「無反応な心」だけが残る。

そこには解放感がある。
それは「苦しみからの解放」であり、「反応することからの解放」だ。

その時、心は自由になる。
「苦しみを作り出すこと」から自由になるのだ。