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「内側に向かう」とはどういうことか?

瞑想とは「内側に向かうこと」だと、一般には考えられている。
瞑想をすることによって、人は外側のあれやこれや(社会とか、他人とか、地位とか、名誉とか)に心動かされることがなくなり、自分の内側に落ち着くことができるのだと。

だが、「必ずしもそうとは限らない」ということが最近わかった。
今回はそのことを説明してみる。


◎瞑想によって人は内側に向かえるのか?

まず大前提として、基本的に私たちは外側のいろいろな物事によって、日々翻弄されている。
テレビで災害のニュースを見て心を痛めたり、職場で同僚とうまくいかなくてイライラしたり、知人から褒められて舞い上がったりする。
私たちの心は、外側の刺激によって、あっちに行ったりこっちに行ったりするわけだ。

これに対して、瞑想は「今ここへの集中」を促す。
今ここで起こっていること、今ここで自分がしていることなどに集中することによって、心があっちこっちに行かないように固定するわけだ。

そうすることで、無自覚な思考に巻き込まれて前後不覚になることは少なくなり、外側の刺激によって心乱されることも多少は減っていく。
要するに、瞑想によって人は静かに落ち着いていることができるようになっていくのだ。

◎「集中」には「意識的な努力」が伴う

こう書くと、「なーんだ、だったらやっぱり瞑想は外側から内側に向かうことにつながるんじゃないの?」と思うかもしれない。
しかし、必ずしもそうとは言い切れない。

問題は「集中すること」にある。
そもそも、「集中」とは何だろうか?
簡単に言ってしまえば、「何かに意図的に注意を集めること」だ。
それは決して「無意識的な行為」ではなく、「意識的な行為」と言っていい。

そう、人は「集中」を無意識にすることはできない。
「集中」には常に「意識的な努力」が伴うのだ。

そして、本当の意味で内側に向かう際、この「意識的な努力」が問題になる。

たとえば、静かに坐って呼吸に集中する瞑想をしているとする。
集中力が増してくるにしたがって、瞑想中に思考に巻き込まれることは減っていくだろう。
時には思考が全く無くなって、無心の状態を経験するかもしれない。

だが、その時、本人は安らかに落ち着いているだろうか?
そこには「集中力を維持しよう」とする意志が存在してはいないだろうか?

もし何かに集中しようとするなら、この意志は消えることができない。
そして、意志がどこかに残っている限り、「外側に彷徨い出ている感覚」も消えることがないのだ。

◎集中している時、人は内側から彷徨い出している

実は、このことは、私にとって割と最近になってからわかったことだ。
前までは、集中力を行使することにそれほど問題を感じていなかった。
坐っての瞑想だけでなく、日常生活の中で瞑想をする場合にも、集中力を維持して「今ここ」に気づいていることが大事だと思っていたのだ。

だが、「今ここに気づいていよう」という意志がある限り、人は真に安らぐことはできない。
どうしても、「内側から彷徨い出ている感覚」が残るのだ。

それは、「本当に落ち着くべき場所」に落ち着いていない状態と言ってもいい。
「帰るべき場所」が内側にあるにもかかわらず、フラフラと彷徨い出てしまっているわけだ。

多くの場合、「今ここに集中すること」は、「内側に留まること」だと人は思うかもしれない。
しかし、実際にはそうではない。
たとえ無自覚な思考が静まっていても、感情的な反応が沈静化していても、身体はジッとして坐っていても、集中している限り、人は内側に真に落ち着いてはいない。

このことは、瞑想的な日常生活を試み始めると嫌というほど経験する。
思考も感情も静まっていて、身体も動かしていないのに、意志が集中しようとする波みたいなものが残り、全然くつろげないのだ。

修行として坐って瞑想することだけに集中していた時には、一回が短時間(30分~せいぜい1時間くらい)でもあったし、「そもそも瞑想ってそういうものだ」と思っていたので、特に気にしていなかった。
だが、いざ日常生活の中に瞑想を持ち込むようになると、「俺って集中しっぱなしで一時も安らいでなくない?」ということが気にかかるようになる。
「常に気づいていよう」と思うあまり、安らかに落ち着くことができなくなってしまうのだ。

◎「気づき」に「集中」は必要なのか?

だが、そもそも気づいているために集中は必ずしも必要だろうか?

多くの場合、人は「集中を止めたら気づきも消えてしまう」という風に思うものだ。
確かに、集中しているからこそ、思考に巻き込まれて無自覚になることも避けられているのだし、そのおかげで気づきも保てているという部分はあるだろう。

だが、瞑想修行がある程度進んでくると、別にそれほど必死になって集中していなくても、思考に巻き込まれて我を失うことはなくなってくる。
ゆくゆくは、わざわざ集中しなくても無思考=無心でいられる時間は増えてくるし、結果として、「今ここ」に気づいているために必ずしも集中することが必要ではなくなってしまう。
たとえ集中していようがいまいが、気づきは「今ここ」に常に在るということが、段々とわかるようになっていくのだ。

ただ、瞑想で集中することに必死になっているうちには、このことに気づきにくい。
どうしても、集中を止めたら気づきも消えるかのように感じられてしまう。
それゆえ、集中することに固執し、「どこまでも集中力を高めることで、気づきを強化しなければ」という風に考えてしまいがちだ。

実際、「集中状態を日常生活の中で常に維持できるようになること」を瞑想のゴールだと思っている人は多いし、中にはそのように教えている指導者もいることだろう。
だが、前にもどこかで書いたと思うが、永遠に集中し続けられる人はどこにもいない。
誰だって集中力には限界があるし、そもそもそんな「休みのない人生」を送って何になるのだろうか?

集中し続ける限り、確かに思考に巻き込まれることはないだろうし、気づいてもいられるだろうが、休むこともできなくなる。
一見すると内側が静かなように思えても、本当の意味で安らぐことや落ち着くことは、できなくなってしまうのだ。

◎瞑想と集中は分離できる

さっきも上で書いたように、集中する限り、「外側に彷徨い出している感覚」は消えることがない。
真に内側に落ち着くためには、集中に固執することは止めなければならないのだ。

瞑想すること(集中すること)をずっと実践してきた人にとって、それは「瞑想を放棄すること」に思えるだろう。
だが、必ずしもそうではない。
なぜなら、「瞑想状態」とは必ずしも「集中状態」のことではないからだ。

「瞑想とは集中することだ」と思っている限り、集中を捨てることは瞑想の放棄に思える。
だが、そもそも「瞑想状態」とは、「無自覚な思考が収まって内側が静かになっている状態」のことだ。
もしも集中することなく内側を静かに保てるなら、瞑想と集中は分離できることになる。

もちろん、それができるようになるまでには、いくらか瞑想修行で集中力を鍛えて無心になれるよう訓練を積む必要はあるが、一度そこまで行ったら、それ以上、集中力を鍛え続ける必要はないと思う。
なぜなら、集中力を鍛え続けることには終わり(終点)がないし、集中しようとし続ける限り「安らぎのない人生」になってしまうからだ。

◎私たちの本質は「安らぎ」である

私はこの記事の一番最初で、「瞑想は内側に向かうこととは限らない」と書いたが、それは「瞑想」を「集中」と同じ意味で考えている場合の話だ。

実際、「瞑想すること」を「集中すること」だと思っている限り、人はいくら瞑想を実践しても真に内側に向かうことはできない。
むしろそれは、常に微妙に外側に向かうことになってしまうだろうと思う。

だが、もしも「瞑想」と「集中」を切り離すことができるなら、つまり、集中することなく瞑想状態(思考のない静かな状態)に入れるなら、それは「内側へ向かう道」になりうる。
もし思考することなく、かつ、集中することに意志を使うこともせずにいられるなら、「外側に彷徨い出ている感覚」は消えていくだろう。

それは「何か特別な状態」と言うより、「何でもない状態」だ。
思考はなく、感情もなく、快でも不快でもなく、集中しようとさえしていない。
「ニュートラルな状態」と言ってもいい。

だが、そこには確かに「安らぎ」と「落ち着き」の感覚がある。
それは「特別なもの」では決してなく、「常にここに在るもの」だ。
ただ、思考することや感情的になること、快を求め不快を避けること、集中力に固執することなどによって、見失っているに過ぎないのだ。
そして、それがつまりは、「外側に彷徨い出ている」ということでもある。

おそらく、私たちの本質は、本来的に「安らぎ」に満ちている。
もしも「外側に彷徨い出ること」を止めさえすれば、「安らぎ」はいつでも「今ここ」に在るわけだ。

だが、普通、私たちはその「安らぎ」を求めてあちこちを彷徨い歩く。
なぜなら、どこかで誰かから与えてもらわなければ「安らぎ」は手に入らないと思い込んでいるからだ。

しかし、実際には人が安らぐのに時間も手間も必要ない。
今ここで静かに在ればいいだけだ。

その「何でもない状態」の中にこそ、「安らぎ」は在るのだ。