見出し画像

「人生の意味」は「何を得たか」では決まらない

3連休が終わった。
人によっては、連休と言うと「有意義な時間を過ごそう」と思うことも多いのではないかと思う。

だが、ちょっと立ち止まって考えてみよう。
「意義」とはそもそもなんだろうか?

今回は「意義」について考えてみたい。

「有意義」に過ごすことは本当に大事なことなのか?
「もっと大事なこと」が人生にはあるのではないか?

そういったことを考えていってみようと思う。


◎「意義」と「意味」の違いについて

そもそも「この休みは有意義に過ごそう」と思う時、私たちはなんとなく肩に力が入る。
そこには「せっかくの休みなのだから、有意義に過ごさなければ」という力みがあるのだ。

人によっては資格のための勉強をするかもしれないし、また別の人はどこかに旅行に行こうとするかもしれない。
そして、勉強が十分にはかどるように、旅行をたっぷり楽しめるように、事前に綿密な計画を立てるのだ。

私たちが「休日を有意義なものにしよう」と思う時、そこには休みを有効に活用して何かを得ようとする「野心」めいたものがある。
そして、私たちは休日を予定でいっぱいにし、「意義」を詰め込もうと躍起になる。
それが「意味のあること」だと思っているからだ。

だが、「意義」と「意味」には違いがある。

「意義」を求める時、人は目の前の事象を思い通りにコントロールしようとする。
そうすることで十分な「成果」を得ようとし、「リターン」が見込めないことはそもそもしようともしない。

それに対して、「意味」は私たちの人生の一回性と深くかかわっている。
決して繰り返されることのない人生において、唯一無二の「自分自身の選択」をすることが「意味」を形成するのだ。

何を言っているのかよくわからないかもしれないので、もう少し説明してみる。

「意義」を求める時に人が人生から何かを得ようとしてあれこれ計算するのに対して、「意味」を求める時、人は人生に対して「自分なりの仕方」で応えようとする。

極端な例を挙げるなら、殉教者の人生には「意義」では計れない「意味」がある。
自分の信仰に殉じることは「その人自身の選択」であり、深い「意味」が宿っている。
そしてそれは、「人生から何かを得ようとした結果」ではなく、「自分自身を貫こうとした結果」なのだ。

もっと身近な例で考えてみよう。
たとえば、転職する時、「どの業界に入ると最も年収が高くなり尊敬されるか?」ということを考えるのは、「意義」に照準を合わせた考え方だ。
それに対して、「何の仕事をするにせよ、『自分に納得のできる生き方』はどうすれば可能だろうか?」ということを考えるのが、「意味」に照準を合わせた考え方と言えるだろう。

◎人生に何かを求めるのではなく、「人生から何を求められているか」を考える

このように、人生に「意義」を求める時、私たちは「人生からもっとたくさんのものを得よう」と考え、自分の人生をコントロールしようとし始める。
人生を「意義」で満たし、少ないコストでより多くのリターンを得ようとし、デメリットを避けてメリットだけを享受しようとするのだ。

だが、「意味のある人生を生きよう」と思った時、人は頭であれこれ計算することをやめる。
自分の頭ではなく、他でもない自分の心が何を求めているのかを知ろうとし、もっと言えば、人生が自分に何を求めているのかをこそ知ろうとするのだ。

ヴィクトール・E・フランクルは名著『夜と霧』の中でこう書いている。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすらに、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ(…)

『夜と霧』 ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

私たちは「人生に対して期待すること」に慣れている。
「あれを得たい、これを得たい」と思い、「それを得るためにはどうしたらいいか」と考える。

だが、フランクルは「そうではなくて、人生が私たちに何を期待しているかをこそ問うべきだ」と言った。
「人生からあれを得よう、これを得よう」と求めるのではなく、「人生に対していかに応えるべきか」をこそ考える必要があると言ったのだ。

◎「意義」ばかり求める人は、「お客様思考」になっている

普通、私たちは「これをすれば何が得られるか?」ということを考える。
対して、そういった損得を考えることなく、「人生のこの状況において、自分はいかに応えるべきか?」と考える人は少ないだろう。

前者は人生から「何か良いもの」をもらおうとし、後者は人生に「自分の答え」を与えようとする。
そういう意味で、「人生から何かを得よう」と考えている人は、「お客様思考」をしているとも言える。
自分は「招待された賓客(ひんきゃく)」で、人生から何かを受け取るのが当たり前だと思っているのだ。

こういった場合、「自分はもらうのが当たり前で、そのための代価(努力なりお金なり)は払っている。自分は受け取ってしかるべきだ。」と当人は考える。
それは典型的な「お客様思考」であり、「奪い続ける人の論理」だ。

しかし、当たり前だが私たちの人生は「遊園地」ではない。
人生は私たちを楽しませるためだけに存在しているわけではなく、私たちが望むものを次々与えてくれるとは限らない。

だから、「お客様思考」で生きていると、人は必ずや欲求不満に陥る。
なぜなら、人生は決して私たちの思い通りには進まないからだ。
その結果、「なぜ人生は自分にもっと与えてくれないのか!」と、人は自分の人生に対してクレームを入れたくなってしまうわけだ。

生きていると苦しいことはたくさんある。
そういう時、人は人生に悲観し、何の希望もないように思えてくる。

だが、そんな時にこそ、「意義」ではなくて「意味」をこそ問うべきなのだ。
「苦しみではなく、もっと『良いもの』を与えてくれ!」と人生に懇願してみたところで、苦しみはなくなってはくれない。
私たちにできることは、ただ苦しむことだけだ。

そして、そうやって毎日毎日苦しみと直面しながら、それでも生きることを投げ出さずに一歩一歩進み続けることの中にこそ、「意味」はあるのだ。

◎「自分に与えられた人生」を味わうことの中に「意味」は宿る

もちろん、「あの苦しみがあったおかげで、私はこんなことが学べました」と、苦しみに「意義」を見出すこともできる。
だが、それは物事の側面の一つに過ぎず、最も重要な部分ではない。
本当に重要なことは、その人が自分に与えられた苦しみを、とことん苦しみ抜いたということなのだ。

たとえば、私はかつて自殺願望に取り憑かれ、苦しみの中で生きていた。
常に死にたくて仕方がなく、人生に何の希望も持てなかった。

だが、私はそこから一歩一歩立ち直り、今ではもう「死にたい」と思うこともなくなった。
私は苦しみを通り抜けたのだ。

その苦しかった時期から私が何かを学んだかと言うと、よくわからない。
ただ、私はその苦しみの中を懸命に生きた。
それは私の人生に与えられた苦しみであり、私はとことん苦しむことによってそれを生きたのだ。

私は生きることを最後まで投げ出さなかった。
それが私の「人生に対する応え方」だった。
私は他の誰も代わることのできない「私自身の苦しみ」を苦しみ、「私なりの応え方」を人生に向かって返したのだ。

どんな苦しみにも「意義」があるかどうかはわからない。
だが、どんな苦しみにも「意味」はありうる。

私たちは必ずしも苦しみから何かを得るというわけではない。
ただ、私たちは「苦しみの中で何を得たか」ということにではなく、「苦しみの中でどのような人間として生きたか」ということにおいて、かけがえのない「意味」を見出すのだ。

「意義」は「何を得たか」によって計られ、「意味」は「どう在ったか」によって決まる。
だから、たとえ何の成果も生み出せなかったとしても、まったく社会に名を残せなかったとしても、私たちの人生には「意味」がある。

私たちの生きた軌跡そのものが「意味」を形成する。
そこにあった喜びや悲しみ、楽しさや悔しさなどが、当人によって味わわれ、生きられたことの中に「意味」は宿るのだ。

◎「何を得たか」によってではなく、「どう生きたか」によって人は自分の人生に納得する

「意義」だけを求め続ける限り、人は「人生のお客様思考」から抜け出すことができない。
そして、きっとどこかで躓(つまづ)いてしまう。
なぜなら、人生は私たちに「良いもの」ばかり与えてくれるわけではないからだ。

人生はコントロールできない。
私たちは苦しみを経験し、悲しみを経験する。
喪失感に打ちひしがれ、絶望の中を通り抜ける。

それでも私たちは生きていく。
唯一無二の一回限りの「自分の人生」を生きていくのだ。

「もっと欲しい、もっとよこせ」と人生に要求し続け、「意義」に満ちた人生を送っても、死ぬ時には全てなくなってしまう。
死の間際で「意義のある人生だった」と言ってみたところで、その「意義」をいったい次はどこに活かしたらいいのか?
もう全ては失われてしまうというのに。

「意義深い人生」よりも、「意味深い人生」に人は自分自身で納得する。
「意味深い人生」とは、「自分自身で確かに味わわれた人生」のことだ。

そこには苦しみの味があり、悲しみの味があった。
幸福の美味さがあり、不幸の苦味もあっただろう。

そして、それら様々な「人生の味」を味わう中で、自分は「どんな人間」として生きたのかが「最後の瞬間」に問われるのだ。

喜びの中で、誰かにそれを分かち与えたか?
苦しみの中で、どれだけ懸命に耐え忍んだか?

自分の人生に対する誇りと納得は、そこにしかない。
たとえ「意義に満ちた人生」を送ったとしても、人は「得をした」とは思うかもしれないが、自分の人生に納得もしなければ誇りも持てないだろう。

私たちは常々「もっと得をしたい」と思って生きている。
でも、それってなんだか寂しくないだろうか?

「意義」だけでは決して計れないものが人生にはある。
「意味」は「意義」では決して計ることができない。

「意味」は私たち自身が創り出すもの、私たちが自分の人生を生きることを通して創造するものだ。

「意味のある人生だった」と思って死ぬためには、「意義」ばかり追いかける生き方は止めねばならない。
心から納得して死ぬためには、「人生から何が得られるか」ではなく、「人生にどう応えるか」をこそ、私たちは考える必要があるのだ。

noteの更新を応援してくださる人はサポートをお願いします! 誰もが、ありのままの自分を生きられるように、勇気を届ける文章を書きます!