「悩むこと」によって「問題」は作り出され、「苦しむこと」で「問題」は溶け去っていく
「悩むこと」と「考えること」は違うとよく言われる。
だが、具体的にはどう違うのか?
今回はそれについて考えてみる。
◎「悩むこと」によって「問題」が作り出される
「悩むこと」と「考えること」の一番の違いは、「悩むこと」には「苦しみ」が伴っているが、「考えること」には「苦しみ」が伴っていない点だ。
何かを思い悩む時、私たちは「苦しみ」の中にいる。
苦しまずに悩むことのできる人はいない。
「悩んでいる」ということと、「苦しんでいる」ということはほとんど同義なのだ。
逆に、考える時には、私たちは別に苦しんだりしない。
何か「問題」があれば、その解決策について考えるだろうし、「問題」がなければ何も考えない。
非常にシンプルだ。
このように、私たちは「考えること」によって「問題」を解決するのだが、「悩むこと」によって「問題」を逆に増やしてしまう。
というのも、「悩む」というのは、往々にして「問題」のないところに「新たな問題」を作り出すことだからだ。
たとえば、私は思春期の頃、ニキビが多いことを気にして思い悩んでいた。
私は他人から顔を見られるのが恥ずかしく、「みっともない」と思いながら学校に通っていたものだ。
ここにおいて、ニキビは「問題」になる。
ニキビがあることで私は悩み、苦しんでいたのだ。
だが、1年か2年経つうちに、ニキビのことが気にならなくなった。
ニキビそのものが完全になくなったわけではないのだが、それを「問題」だと感じなくなったのだ。
そうして、私はもうニキビについて悩んだりしなくなった。
「苦しみ」はなくなり、「問題」も一緒に消失したわけだ。
逆に言うと、ニキビを「問題」にしていたのは、あくまでも私自身だったということだ。
私がニキビのことを気にしていたからこそ、それは「問題」であったに過ぎないのだ。
こんな風に、「苦しみ」が消え「悩み」がなくなると、一緒に「問題」もなくなってしまうことは多い。
あるいは、「問題を問題と感じなくなる」と言うこともできるかもしれない。
多くの場合、私たちが何かを「問題」だと感じるのは、そこに「苦しみ」が伴っているからだ。
その「苦しみ」をどうにかしようとするからこそ、「問題」があるように感じられるのだ。
◎「残っている問題」を解決するためにこそ「考える」
だが、「苦しみ」がなくなった後も「問題」が残り続けることがある。
たとえば、私は過去に生活に困るくらいお金がなくなって悩んだことがあった。
その時はとにかく苦しくて、「どうしたらいいんだ!」と思い詰めていた。
その時の私にとって、「お金がないこと」は「問題」で、同時に「苦しみ」の原因でもあった。
要するに、私は「お金がないこと」について、深く悩んでいたわけだ。
だが、もしここで「苦しみ」を感じなくなったとしても、それによってお金が湧いてくるわけではない。
「苦しみ」がなくなれば、焦ったり不安になったりすることはなくなるだろうが、だからといって暮らしていけるようになるわけではないのだ。
この場合、「苦しみ」はなくなっても「問題」は残り続けている。
こういう時にこそ、「考える」ということをする。
「問題」を解決するためにどうしたらいいかを、純粋に思考するのだ。
そもそも、「苦しみ」に囚われている時には、まともに考えることができない。
実際、過去の私もお金がなくて困っていた時には、「どうしよう、どうしよう」と焦るばかりで、具体的にどうするべきかを整理して考えることができなかった。
深く悩んでいればいるほど、「落ち着いて考えること」はできないものなのだ。
だから、冷静に物を考えるためには、まず「苦しみ」をどうにかする必要がある。
苦しみながら考えると、だいたいにおいて思考は同じところをグルグルと回るばかりでどこにも辿り着かない。
「問題」を本当に解決しようと思ったら、まず「苦しみ」をなくす必要があるわけだ。
また、さっきも書いたように、「苦しみ」がなくなれば、一緒に「問題」も消えてしまうことは多い。
そういう意味でも、「苦しみをなくすこと」は優先すべきことだと言える。
なぜなら、「苦しみ」がなくならないうちは、それが本当に「解決すべき問題」なのかどうかさえわからないからだ。
「苦しみ」がなくなることで一緒に消えてしまう「問題」は、「真に解決すべき問題」ではない。
「真に解決すべき問題」というのは、「苦しみとともに消えることがない問題」のことだ。
「苦しみがなくなっても残る問題」を解決するためにこそ、私たちは「考える」ということをするわけだ。
◎飽きるまで「苦しみ」を味わってみる
じゃあ、どうやって「苦しみ」を消したらいいのか?
これについては、これまでにも何度か書いてきたが、要は「苦しみ」について瞑想することだ。
「苦しみに瞑想する」と言っても、別に難しいことではない。
ただ、「苦しみ」を感じ続けるだけのことだ。
胸の痛みを感じ続け、手足の震えを感じ続け、モヤモヤ感やザワザワ感を感じ続ける。
それだけだ。
もちろん、それは不快な体験ではある。
しかし、試してみればわかるが、人間はいつまでも苦しみ続けることはできないものだ。
どこかで「苦しみ」が消える瞬間が訪れるのだ。
それはまるで、心から「苦しみの色」が抜けるかのようだ。
山家直生さんという方は、それを「苦しみに飽きる」と表現している。
飽きてしまったものに対しては、もう興味を持つことはできない。
「苦しみ」に意識は向かなくなり、もはや思い悩むことはなくなる。
そうして、「苦しみと共に消える問題」は消えるに任せ、「苦しみがなくなっても残る問題」についてはどうするべきかを考えたらいい。
このように、「苦しみ」に飽きてしまいさえすれば、物事は非常にシンプルになるのだ。
ということで、最初の問いに返ってみよう。
「悩むこと」と「考えること」はどう違うのか?
「苦しみ」がある時、「悩み」はある。
「苦しみ」が消えた時、「悩み」も消える。
そうして「悩み」が消えることによって、それまで「問題」だと感じていたことを、特に「問題」だとは感じなくなる場合も多い。
つまり、「苦しみ」が消えることによって、「問題」のほうまで一緒に消えてしまうわけだ。
だが、「苦しみ」が消えても「問題」は残ることがある。
そういう時に、初めて「考える」ということをする。
「どうしよう、どうしよう」と言って苦しむのではなく、「どうするべきか」を落ち着いて考えるのだ。
「悩むこと」が終わった先に、「考えること」はある。
そして、「悩むこと」を終わらせるためには、まず「苦しみ」をどうにかしなければならない。
「苦しみ」を避けようとするのではなく、むしろ飽きるまで味わうのだ。
「苦しみ」を感じ続ければ、私たちはどこかでそれに飽きる。
そして、「苦しみ」が消えることで悩みは消え、だいたいにおいて「問題」も一緒に消えてしまう。
「それでも消えない問題」を、「考えること」によって解決したらいいのだ。
◎「苦しみ」は「考えること」で解決できない
多くの人は「考えること」によって「苦しみ」をどうにかしようとする。
だが、実際にはそれは「考えている」のではなくて「悩んでいる」だけだったりする。
「いつまでも悩んでいないで、きちんと考えなさい」と人は言うが、それはなかなか難しい。
というのも、苦しんでいる人は「悩むこと」しかできず、「考えること」などできないからだ。
もしも考えようとしても、「苦しみ」が絶えず思考を歪める。
結果、「問題」を冷静に解決することができず、余計に泥沼にハマっていくのだ。
そうならないためには、「考えること」の前に、まず「苦しみ」をどうにかすることだ。
考えるのは「苦しみ」をどうにかしてからでいい。
「考えること」は放棄して、「苦しみを感じること」に集中する。
そうすれば、人はやがて「苦しみ」に飽きる。
考えるのは、その後だ。
ただ、この方法は最初とても怖く感じる。
なぜなら、「考えないと苦しみは解決できない」と私たちは深く思い込んでいるからだ。
多くの人にとって、「考えることを放棄すること」は、「苦しみの解決を放棄すること」と同じであるように思えてしまう。
つまり、「考えることの放棄」は、溺れかけている最中に自分から浮き輪を手放すことのように思えるわけだ。
それでは溺れ死んでしまう。
だが、実際には「苦しみ」を味わうことで死ぬことはない。
実際に胸の痛みや手足の震えなどの身体の感覚に意識を集中するなら、「苦しみ」が自分を破壊することはないと、はっきりわかるだろう。
「苦しみ」が私たちを破壊するのは、むしろ「苦しみ」について考えすぎてしまう場合だ。
「苦しみ」を感じようとするのではなく、「苦しみ」をどうにかしようとして考えすぎることによって、精神を病んでしまうのだ。
◎「苦しみ」は自分のことを見てもらいたがっている
ブルース・リーは「考えるな。感じろ」と言ったが、それは「苦しみ」についても当てはまる。
「苦しみ」について考えれば考えるほど、私たちは余計に苦しくなっていく。
だが、もしも「苦しみ」を感じるように努めれば、「苦しみ」は徐々に弱まって消えていくのだ。
そのようにして「苦しみ」が消えていくのは、あくまでも「事の成り行き」だ。
別に「苦しみ」を消そうとした結果ではない。
「苦しみ」を感じているうちに、それは勝手にしぼんで消えていくのだ。
むしろ、「苦しみ」は消そうとすればするほど燃え上がる。
抑え込むほど膨れ上がり、逃げようとするほど追いかけてくる。
「苦しみ」を消そうとして闘うことは、「苦しみ」をより強大にしてしまう結果を招くのだ。
そもそも「苦しみを消そうとする」ということは、「苦しみを否定する」ということだ。
「お前なんか嫌いだ!あっちに行け!」と言われて、誰がおとなしく消えるだろう?
「苦しみ」は見てもらいたがっている。
「ここにいるぞ!」と叫んでいる。
だったら、それを否定しても、余計に大声で「自分を見ろ!」と言い出すに決まっているのだ。
「苦しみ」から決して目を逸らさず、「苦しみ」をひたすら感じ続ける。
それによって「苦しみ」は成仏する。
「消そうとすること」によってではなく、「一緒にいること」によって消えていくのだ。
◎「自分で作った問題」を溶かすこと
私たちの思考には「問題」を解決する力はあるが、「苦しみ」を解決する力はない。
いくら頭で考えたところで「苦しみ」は解決できない。
なぜなら、「苦しみ」は頭ではなくて胸(ハート)にかかわっているからだ。
「苦しみ」を感じることがあったら、頭にこもって考えず、胸のほうへと降りていく。
そうして、そこにある痛みを感じてみる。
それこそが「苦しみと向き合う」ということだ。
もしも「苦しみ」と向き合うならば、それは溶けて消えていく。
「悩むこと」はなくなり、「問題」も一緒に消えるかもしれない。
逆に、「苦しみ」を敵視して、それと闘い続けるならば、「悩み」は消えることがないだろう。
当人は悩み続けるばかりで、いつまでも「考えること」ができない。
「解決するべき問題」と「解決する必要のない問題」の区別もつかず、苦しみ続けてしまうのだ。
「苦しみ」から逃げていった先に、「平安」はあり得ない。
なぜなら、たとえどれだけ逃げたところで、「苦しみ」は追いかけてくるからだ。
私たちはどこかで覚悟を決めて、「苦しみ」と向き合うより他にない。
誰も代わりにそれを引き受けてはくれない。
だが、「自分の苦しみ」を受け入れるなら、多くの「問題」は自然と溶けて消えていく。
そもそも、私たちが多くのものを求めてやまないのは、「それらを手にしていないこと」を自分で勝手に「問題視」してしまっているからだ。
だから、「それは別に問題ではない」と気づきさえすれば、私たちはそれほど多くを求めなくなる。
そうして「自分で勝手に作った問題」を溶かし去ることによって、私たちは「与えられたもの」に満足し、「ありのままの自分自身」にリラックスできるようになっていくのだ。