甘味と苦味
先輩は、「頑張れ」を言わない人だ。
それに気がついたのは、就職したばかりの新卒一年目の時。酒の席で、私はなんとなく酔っていて、先輩もうっすらと頬を赤く染めていた。
私は新入社員にしては成績優秀で、上司からは期待を込めて「もっと頑張ってけよ」と言われた。私は、期待が嬉しくて「はい! 頑張ります!」と溌剌に言っていた。
「もう十分頑張ってるよ」
ざわめきの中で、私にだけ聞こえるくらいの小さな声で、先輩はそう言った。
ひねくれ者の私は、穏やかに微笑む先輩のことを「善人ぶった人だな」と思った。まだ世間を知らない新卒の女の子に良い印象を持たれるためにこんな薄っぺらい優しさを見せているのかな、なんて失礼なことをさえ考えていた。
違った。
先輩は偽善者でも、下心で優しいことを言ったのでもなく、ただ「頑張れ」を言わない人だった。
私が大きなミスをした時も「そういう時もある」と神妙な顔で言い、私が業績を下げた時も「肩の力抜いていこう」と笑い、私が資格取得のために勉強すると言った時も「応援してる」とだけ言い、私が大きなプロジェクトのリーダーを委ねられた時も「無理はしないように」と告げた。
「先輩は、頑張れって言わないすよね」
プロジェクトの打ち上げの、3次会。
私はもうかなり出来上がっていた。飲み会の通過儀礼みたいな苦くて美味しくない生ビールを飲み切って、2杯目のカシスオレンジを飲み干して、3杯目のサングリアを半分くらい飲んだ頃。
周りの人たちはかなり盛り上がっていて、プロジェクトリーダーの私そっちのけで大騒ぎしていた。いつも通り隅で1人生ビールを飲んでいる先輩は、急に声をかけた私の方を見て「水飲んだ方がいいよ」と店員さんにお冷を頼んだ。
優しい人。
本当に、優しい人。
でも優しいだけの人じゃない。締めなきゃいけないところはキチッと締めるし、周りを見ていてよく気が回る。馬鹿騒ぎはしない。謙虚で控えめで、それでいて部下から慕われる人。上司から信頼される人。私の、好きな人。
「頑張れって、なんで言わないんすか」
私はずずいと先輩に詰め寄った。
近づくと鼻につく香水の匂いがする。先輩がいつも吸ってるショートピースの匂いがする。大人の匂いがする。
「もう十分頑張ってる人に、頑張れって言わないよ」
距離を詰めた私に動揺した素振りも見せずに、先輩はいつも通りに笑っている。当たり前みたいに、昔と同じことを言う。優しくて、優しくて、ちょっと胸が痛い。
「泣いてんの?」
心配そうに私の肩を掴む先輩の左手に光るのは、シルバーの指輪。シンプルで、けれど、所在を主張するみたいにキラキラ光る。目が眩むくらい、眩しい。
先輩の、左手の薬指を縛るのは私じゃないのだ。
「泣いてないです」
言った声が震えていたのを、先輩は知らんぷりしてくれた。先輩は、店員さんの持ってきてくれたお冷を机に置きながら「無理すんなよ」といつも通りに告げる。
先輩の優しさは、甘い。
脳みそが蕩けちゃいそうなくらいに甘い。カシスオレンジよりも、サングリアよりも、ずっとずっと甘い。
それでもこんなに苦い。
ビールよりも、ずっと苦い。
先輩の置いてくれた水を無視して、隣に置いてあった、先輩がさっきまで飲んでいた生ビールを奪って口をつけた。先輩が「あ、こら」とあんまり気迫のない怒り方をしているのが聞こえる。
苦い。やっぱり苦くて、美味しいって思えない。
じっと先輩の顔を見る。先輩は、形だけ怒ったような表情をしていた。私が「ビールは苦くてまずいすわ」といつも通りを繕って声を出せば、あからさまにホッとした顔をして「勝手に飲んでその言い様かよ」と言った。
私が先輩を困らせないためには。
先輩の笑顔を近くで見るためには。
やっぱり、よくできた、素直に頑張れる、少しだけ生意気な後輩でいるしかないのだ。
そう思うと、喉の奥が苦くなるような気がした。
この苦味も、もっと大人になれば、美味しく感じるようになるんだろうか。
手に持った生ビールのジョッキが、結露を生み出しては真下にぽたぽたと垂れていく。私の代わりに泣いているみたいだと思ったら、この苦味も少しだけ愛おしいような気がした。
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