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【書評】デモクラシー,リベラリズム,ポピュリズム:水島治郎(2016)『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か,改革の希望か』中公新書

 以下は他所にて公開していたものだが,プラットフォームとしてはnoteが優れていることが分かったので一部改変して転載する。初公開は2017年2月11日で,他所でのエントリーは,現在のところ非公開としている。

 およそ3年前に書いたもので,ポピュリズムをめぐる環境は変わりつつある印象を持っている。イギリスは結局,EUを脱退したし,トランプ大統領の言動は相変わらずである。しかし,欧州の情勢も変わり,大統領選を控えるこのタイミングで改めて読むと新たな発見があるかもしれないと思い,こちらへ転載することとした。

はじめに

 トランプ大統領の誕生以来,ポピュリズムをめぐる議論は好悪の感情を伴って日増しに激しさを帯びてきているようにみえる。加えて政策面では人種・文化の多様性を否定し,アメリカ一国中心主義ないし孤立主義的な主張を繰り返していることはメディアを通じて報道されているとおりである。ただし,注意が必要なのは,トランプ大統領があたかもポピュリズムの体現そのものであり,ポピュリズムが近代社会の発明である自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を破壊するという見立てが,必ずしも成立するわけではないということである。 

本書の概要

 本書は,ポピュリズムがリベラルなデモクラシーの副産物であることを示しつつ,市民(有権者)はポピュリスティックな政治にどのように向き合うべきであるのか,その示唆を与える。

 第1章ではポピュリズムをめぐる2つの定義を確認することで,議論の立ち位置を明確にする。ポピュリズムは一つにはリーダーシップのあり方であり,いま一つには政治運動のあり方である。リーダーシップのあり方としてのポピュリズムは,政党や議会,利益集団といった,従来は政治的に重要であると考えれられてきた諸アクターの意思決定をバイパスし,政治的リーダーと有権者とが直接的に結びつく政治手法を指す。一方で政治運動のあり方としてのポピュリズムとは,既存の政治エリートを中心とした合意形成や意思決定を批判し,特権階級としての政治エリートが「悪」であり「我々=人民」が「善」であるという二項対立として政治を描き出すものである。著者は両者の定義が排反するものでなく重なり合う部分があることを認めつつ,後者である政治運動としてのポピュリズムをその定義として用いる。その上でポピュリズムの特徴をいくつか挙げつつ,デモクラシーとポピュリズムが接点を持つものであり,ポピュリズムそのものがデモクラシーを危機に晒すのは限られた場合であり,むしろ野党(非政権党)としてポピュリズム政党が存在することはデモクラシーの活性化につながるとする。

 以下の各章においては,ラテン・アメリカ,ベルギー,オランダ,スイス,イギリスの事例を通じて,いかにしてポピュリズム政党が伸張し,その伸張はリベラルなデモクラシーと不可分な関係が存在することを示す。まずラテン・アメリカ,とりわけアルゼンチンの事例においては経済的貧困を背景として政治エリートへの批判が高まる中でポピュリスティックな政治的リーダーとポピュリズム政党が支持を獲得したことが示される。この事例は政治運動としてのポピュリズムが表出したものであるといえる。ひるがえってヨーロッパ各国における事例は,リベラルなデモクラシーとポピュリズムが表裏一体の関係であり,ポピュリズム政党の主張はリベラリズムやデモクラシーの論理と軌を一にするものであること示している。中でもヨーロッパ各国のポピュリズム政党の多くによる,イスラム排斥の動きはリベラル社会を維持するための方策であるという彼らの主張が紹介されている。さらに最終章においてはBrexitでの「置き去りにされた人々」とトランプの選挙キャンペーンにおいて盛んに使われた「忘れられた人々」とは,政治エリートによって無視されてきた人々であり共通性を見出すことができると指摘し,橋下徹と他国のポピュリスト政治家とを比較しながら選挙というデモクラシーに不可欠な道具立てにより支持を拡大したことを示す。最後にポピュリズムは,その主張がリベラリズムやデモクラシーの論理と密接に関わりを持つことで説得力を有するものであり,現代デモクラシーがポピュリズムの論理を内包しているものであるとして議論を締めくくる。

議論

 本書の特徴は,近年ポピュリズムとして注目を集める様々な事例を丁寧に紹介しつつ,それがデモクラシーやリベラリズムといった近代社会を近代社会たらしめてきた一大発明によって生み出されたものであることを明確に示した点にある。著者はオランダ政治研究の第一人者として名高いが,比較政治研究者としての本領発揮といったところである。これまで政治学においてポピュリズムに関する研究は一国事例研究を中心としており,一貫した理論的枠組みと多国間比較の中でポピュリズムの主張がリベラル寄りに収斂していく様子を描き出すものは本書でも引かれているミュデとカルトワッセルによるものなどごく一部に限られていた印象であり,特に邦語でこのような著作が読めることは大いに意義深い。

 本書を読んでさらに議論が深められると思ったのは,ポピュリズムに対する定義に関する部分と,ポピュリズム政党の組織構造に関する点である。定義は定義として2つの定義が存在し両者が重なり合う部分があることを認めた上で,本書は政治運動としての定義に依って議論を進めるが,それがなぜなのかよく分からなかった。これらは2つの定義というより,むしろ2つの側面といったほうが妥当であるように思うが,いずれにしても選挙至上主義的なポピュリストの主張というのは前者のリーダーシップ・スタイルとしての側面により近く,議院内閣制においてはポグントケとウェブが議論しているような首相の大統領(制)化の比較政治学上の議論と大きく関係している。ポグントケらは,大統領化する首相について大まかな見取り図を示しているが,彼らの議論が必ずしも成功しているとは言い難い。しかし,ポピュリズム研究と関連させることで首相の大統領化という課題についてもより議論を深めることができるだろう。このことに関連して,政治運動としてのポピュリズムは,代理人たる政治家が有権者に対していかに反応するのか,という問題としてもとらえることができるように思ったが,本書とは少し離れた読み方なのでひとまず脇に置いておく。

 第2に,ポピュリズム政党はなぜ権力を集中させるのか,読んでいて素朴な疑問を持った。 この一種の同型化は,ポピュリズム自体が属人的な性格を持ちやすいことに原因を求めることができるかもしれないし,カルテル政党を批判する一つの表現であるかもしれない。揃いも揃って強大な権力をポピュリストの代表者に与え,その権力が人から人へ移り変わる様子が描かれるが,そのような特権性こそポピュリズムが批判しているものではないのだろうか。いずれにしても,それこそがポピュリズム政党の内在的矛盾といえるだろう。

 ポピュリズムは著者が冒頭に引用するように,デモクラシーの影であり,最後に引用するように現代デモクラシーにおいてディナー・パーティーへの招かれざる客である。ポピュリズムに対する戦略は無視することだけでなく,受容することもひとつのあり方だろう。有権者として政治に関与する以上,避けては通れない課題に示唆を与える一冊である。 


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