現実社会という仮想現実

 書く、描く、手を動かす。
 何かに悩み始めたら、無力感を感じ出したら、手を動かす。それは時に辛き作業かもしれない。でも明らかに一番価値的な行為である。
 もちろん疲れている時は休んだ方が良いが、つくることによって自分は変容していく。それはリズムをつくりだすようなものであり、生きるという営みである。
 ただ生きること。それだけでいい。人生こそアートであり、つくり続けることができる。
 何もできずに横たわる身体、何の揺らぎもない心。そんな瞬間も絵筆をキャンパスに乗せている。点々と打ちつけていると言ってもよいだろう。絵筆を動かそうとなかろうと作品を制作中なのである。完成などない。完成などないからこそ鼓動は動きつづける。そして完成はまた次の未完成なのである。

 何も持っていないからこそ描くことができる。イメージの世界は自由であり、それこそが現実なのである。現実はひとつではない。むしろ社会システムに組み込まれる現実こそ仮想現実なのかもしれない。
 ただこの社会現実からは逃げることはできない。だからイメージをその現実へとシフトしていく。それまでは、いや、社会現実に生き続けるのである。それは現実逃避ではない。むしろ今の矛盾に目をつむる、目を逸らした生活を送っている方が現実逃避ではなかろうか。
 皆が描く理想のイメージ。それは破壊衝動に駆られた人間(もはやそれは人間ではないが)を除いた、本来の人間らしさを持ったものたちによるイメージを実現することによって、生きとし生けるものは自由に生きられる。
 それは何の制約もない社会ではなく、むしろ制約ではなく、気持ちよく暮らすためにもたらされるものだと考える。例えば、好きな飲食店が繁盛してるから空いた時間に行こうとか、利益がたくさん出たらみんなのためにその利益を使ってもらおうとか、困ったときは助け合うとか。
 考えてみると、今の社会システムもそういうルールになっているが、そこに良心がなくなってしまったのか、統制する側にその意志を理解しているものがいないのか、ルールに支配されている。人間がルールを支配していないのである。
 そう考えると、これからの人工知能や計算機にルールづくりを任せると、さらに人間がルールを支配するのが難しくなるのではないだろうか。
 むしろ私は人間が機械になっていっているのをひしひしと感じている。ただプログラミングされたルールに従って生きているだけだ。それはまるで人間がサイボーグへと進化しているようで、それに抵抗する意識さえ失いつつある。だから今の社会ルールに縛られた現実こそ仮想現実なのではないかと思うのだ。
 この過渡期にもう一度人間らしさを再確認すべきではなかろうか。想像力と創造力を取り戻せと叫びたい。そんな私も社会システムに組み込まれなかった不良品である。だが今は問題なく酷使され続けている良品でなかったことは幸運だとも思っている。
 これを読んだあなたは自分がサイボーグにならないために何ができるかを考えて欲しい。一時は負けを認め身を引いて体制を立て直すのも良策であろう。大事なのは「生きる」こと。あなたが生み出すリズムが必ず誰かに響くのだから。

 

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