東の胡蝶


 階段の裏側は、いもむしの腹に似ている。
太陽光にさらされ、じうじうと熱せられた非常用階段に腰かけ、さわ子は思った。ブルーハワイのシロップをぶちまけてしまったような夏の空に、たかく入道雲がいやにくっきりとのびている。鮭の皮みたいな金属の踏み板が香ばしくて、汗と一緒に蒸し焼きにされる。鮭皮とさわ子のホイル焼きである。アルミホイルをそうっと開く幻影が、脳裏によぎる。そういう、ゆだる暑さの真夏の屋外で、少女が何を考えているのかといえば、やっぱり、階段の裏側がいもむしの腹に似ている、ということだ。銀色のだんだんを無防備にもこちらに向けたいもむしは、一体、どういう蝶に変態するのだろうか。やっぱり、メッキをしたような銀ぴかの翅の蝶かな。そんな蝶がいたら、光を反射して自動車事故を多発させるに違いない。それはとてもたいへんなことだ。だけど、そんなにうつくしい蝶がいたならきっと、人間に乱獲されて私達の世代には図鑑の絵でしか見られないんだろう。ドードーみたいに。古代の鳥の羽毛と並んで描かれる銀翅を想像して、おかしくなる。くすくすとわらった拍子、ぽたりと汗が、くしゃくしゃの一枚の紙に落ちた。水性インクの「3D 東 沢子」がにじんで、紙との境目が曖昧になる。陽炎が、足元で、ゆらぐ。
 そもそも。
なぜさわ子はこんなところで、小学生じみた妄想をしているのか。そのわけを、さわ子の膝の上でしわだらけになったプリントが、所在なさげに、でも、強かに主張している。
「進路希望の書類、提出してないのはあなただけなのよ、東さん」
そう言って眉間にしわを寄せた担任は、ピンクゴールドの細縁のメガネをかけていた。進級早々、四月の半ばに配られた進路希望調査票は、高校三年生、受験生としてもうほとんど最後の進路調査である。そんな段階で志望進路がひとつもでていないような生徒は、担任の言うように、さわ子だけだった。
「私だって、別にあなたのことを責めたいわけじゃないの。ただね、今さらやりたいことがないって言ったって、二年も時間があったでしょう。進学だけが道じゃないけど、就職だって東さんの成績じゃ難しいのよ」
それにね、甘えてばかりいたら将来通用しないわよ。もっともらしく続けられた、まだ名前も覚えていないおんなの説教は、かいつまんで言えば、結局こういうことだった。生返事に飽きた教師は、みんな最後はこうしてさわ子を甘ったれと呼ぶ。さわ子自身も、いつも代わり映えのしない教師たちの決まり文句に飽き飽きしていた。それじゃあ、将来やっていけないだとか、やりたいこともないのかだとか、まだお前には経験値が足りないのだとか。人より少しばかり早く生まれたくらいで、『せんせい』達はさわ子を知ったように切り捨てる。昔から、さわ子はどんなせんせいにも努力を怠る子だと思われたし、やる気のない、つまらない子供だと思われた。さわ子だって、自分にはどうもやりたいこと、とりわけ『夢』に値するものがないらしいことに、幼心に気づいてはいた。周りの子供たちが花屋なりパン屋なり、将来の夢を無邪気に語っていても、さわ子には何も浮かんでこなかった。さわ子だけが、数歩先の未来しか見えない、めしいのようだった。だけど、それが変わればいいと、さわ子とて思っていたのだ。将来を望むことができれば、こんなにうれしいことはないと思った。だから、背が高いというだけで誘われた興味のないバスケットやバレーボールにも参加してみたし、勉強だってしてみたけれど、どうにも、それは変えられそうになかったのである。
それでさわ子は、頑張ることをやめた。
いくらやっても変わり映えのしない自分自身に嫌気がさしたのかもしれないし、さわ子をまるでみんなと同じように考える人たちに、申し訳が立たなくなったのかもしれない。いずれにせよ、さわ子は『夢』を見るということを諦めたのである。だから今のさわ子は、実に腑抜けている。普通教科の成績は下の中くらいだし、かと言って技能教科の成績が良いのかと言えば、けしてそんなことはない。むしろさわ子は体育を積極的にさぼっている。中学ではAを取り続けていたスポーツテストの結果も、高校に入ってからはEの文字ばかりだ。選択では美術をとったけれど、さわ子に画才はない。(猫を描いたら、クラスメートにムカデと言われた。)要するに。『夢』を諦めたさわ子は、落ちこぼれなのだ。なまじ中学では頑張っていたので、余計に教師や親からの落胆も激しい。それに気づいたときには、流石のさわ子もなんだかやるせなかった。でも帰りにラーメンを食べたら解消した。世の中の悩みの大半は空腹によるものであるとは、さわ子の祖母の弁だ。
 話を戻す。そんな訳で、さわ子は真夏の真昼間に部屋の外の鉄階段に座り込んで、一人夢想していたのだ。(例によって、現在進行形で体育の授業をサボタージュしている。)進路を書けと言われても、そも夢がないのではどうしようもない。就職や進学どころか、睡眠中に見るような夢もさわ子は見たことがない。なのに、もうやりようがない。あと四年の猶予を得ることができるはずだった内部進学も、高校で好き勝手やったら、とても渋い顔をされた。世の中は世知辛い。セーラー服の襟下と同じように汗でシミの出来てしまったプリントを眺めて、さわ子はしみじみ思う。第一から第五まで白塗りの四角が並んだ紙面は実に悲壮感がある。じゃじゃじゃじゃーん、というオーケストラとヴェートーヴェンの深すぎる眉間のしわがくしゃくしゃの紙にダブって見えた。さわ子はどちらかと言えばモーツァルトのほうが好きだ。モーツァルトのほうが、階段の裏がいもむしの腹に見えるというさわ子のことを、おおらかに受け止めてくれる気概がありそうに思える。なんとなく。
「サーコ!」
 突然、聞き覚えのある声と呼び方が聞こえたので、さわ子はちょっとびっくりした。物思いにふけるさわ子のことを現実に引き戻した声の主は、ちづるだった。あんまりミニすぎる丈のスカートから、健康的に日焼けしたすらりとした足を延ばして、ちづるはさわ子の座る外階段に近づいてくる。
ちづる、西川智鶴は、まさに東沢子の『悪友』と呼ぶにふさわしい人物だ。ちづるはさわ子よりよほど見事に教師たちから目をつけられている。それはさわ子のような無気力さによるものとは少し違って、言うなれば彼女がやる気有り余る少女であることに所以している。ちづるはこと自身の人生を豊かにするという点において、努力を怠らない女子高生だ。特にちづるは、その美貌を磨くことに余念がない。それは学校においても発揮される。つまり、彼女は校則破りの常習犯なのだ。いくらさわ子たちの通うのが、わたくしりつの一貫校で比較的校則も緩いとはいえ、基本が貞淑を美とする校風だ。キリスト教を母体にするお金持ち学校で、ちづるの髪色と化粧は目立ちすぎた。いや、それでなくてもちづるの見た目は目立つ。なにせ、ギャル風の風の舞いそうなつけまつげと、頭のてっぺんは真っ赤に、それから下は真っ白にブリーチしたロングヘアーだ。ちづるの言では鶴のつもりらしいが、さわ子は常々イチゴ味のかき氷の様だなあと思っている。奇抜だ。見た目に少しもこだわることがないさわ子とは正反対だ。だけど、ちづるは別に見た目以外はなんら問題のない生徒である。さわ子みたいに授業をさぼったりしないし、成績も上から二十番目くらいまでにはたいてい、いつも入っている。問題がないどころか、むしろ優秀な部類にさえ入るだろう。だから、授業中にちづるがこんな校舎裏に来ることは、とても珍しい。それもさわ子を驚かせた要因のひとつだった。さらにさわ子を驚かせた理由は、今が体育の時間だということだ。体育ならば、ちづるは体育着を着ているはずだ。(ちづるとさわ子は同じクラスだ。)それなのに制服のままで、体育の空き時間にさわ子を覗きに来たという風にも見えない。一体、さわ子に何の用があるのだろう。
「どうした、ちづる、めずらしい」
ひさしぶりに開いたのどはかさついて、だいぶ汗を流していたらしいことに気づく。ちづるはかすれた声に少し笑って、くるくるとペットボトルを投げ渡してくる。高めの孤を描いて飛んできたプラスチックとスポーツドリンクが、にぶく太陽光を吸い込んできらめく。
「水分補給も忘れて妄想かよ。あんた、いつかぶっ倒れるわよ」
大きな手を小さなキャップに沿わせてぱきりと回した。じんわりと染み渡るあまじょっぱさに、ちづるの軽口もあながち笑えないことを自覚する。水を得た魚の気持ちがよくわかる。そんなことをひとりごちたらすぐさま、それ意味違うわよ、とちづるから指摘が飛んできた。さわ子はちづるのこういうところが特に好きだ。遠慮のなさが、なんだか心地いい。さっき。不意に、ちづるが口を開く。
「さっき、ここに来るのめずらしい、って言ったでしょ」
それはまぁ、この時間に、っていうのもあるんだろうけど。ちいさなきらきらがたくさん付いた爪を眺めながら、ちづるはどこかきまずげだ。(ちなみに、ネイルアートも校則違反である。)さわ子はと言えば、自分から尋ねた割にすぐ飽きて、スポーツドリンクが校内のどこの自販機で販売されているものだったか、値段はいくらかを一生懸命思い出そうとしているところだった。でも、思い出せそうもない。さわ子の頭は、中学の時よりだいぶ退化している。
「あたし、さっきまで面談してたんだよね。進路のさァ。そんでほら、あんた名前もおぼえてないだろけどさ、担任のオヤマ先生がさ、言うわけ」
ちづるが、息をのむ。
「ネイリストなんか、やめなさいって」
「そりゃ、わかるよ、わざわざこんな学校来てわざわざネイリストなんかにならなくっても、やっぱ学歴社会なんだし、大学ぐらい行きなさいっていうのも。成績だけならまあある程度のとこなら入れるしさァ。だけど、だけどさ、人の夢になんかってことないじゃん。あたし、たしかにこの髪だし考えなしだと思われてるのかもしれないけどさ。これでもちゃんと考えてんだよね、これでも。専門学校行って、そのあとそれきりってわけにはいかないくらい、ちゃんとわかってる。オヤセンってえらそーだし、あたしより頭悪いのに、むかつくんだ。あたしだっていろいろ考えたんだって、どうしてわかってくれないんだろ」
だいいち、オヤセンの出身大ってあたしよゆーで入れるし。
ひどく憤慨した様子で話すちづるのことを、さわ子はなんだか不思議な気持ちで見ていた。ゆずれない『夢』のある人は、こんな顔をするのか。なんというか、自分には無いものだ、と漠然と思う。さわ子には、夢がないから、必然、夢のことで怒りを発することなんて土台ない。そもそも、さわ子は怒ること自体あんまり、しない。怒りは、自分の要望が通らないことに対していだく感情だろう。どうしてそんなにしたいことがあるんだろうか、どうしてそんなに憤ることがあるんだろうか。そういうことが、さわ子にはとてつもなくうらやましく思えて、頭が痛くなる。したいことがあることが、どんなに幸せか、みんなは知らないのだ。脳の端っこに、銀箔の蝶が舞っているような気がした。
 なおも担任、ちづるいわくオヤマセンセイや親への不満を漏らしていたちづるは、ふと、なぜか逡巡するように押し黙った。そうして、ちょっといぢわるそうに、申し訳なさそうに、石のきらめく爪をかちかちと交差させてから、さわ子から目をそらしてこう言った。
「だから、あたしってちゃんと考えてるなって思いたいから、さっき面談終わってすぐ、こっち来たの。さわ子は、さわ子だけは、あたしよりもずっと何も考えてないもん。さわ子は、あたしのこと考えなしって言わないし、あたしだって、あんたのこと見て、あたしって何も無いなんてまったく思わない、から。あんたって、まるで誰かの夢の搾りかすみたいだから。」
気まずそうにしていた癖に、らの音最後まで、一息でちづるは言い切った。
それは、なんていうか、さわ子にとってみれば『否定したいけれどそうだとは言えず』、『そうだと言いたいけれど否定はしきれない』ような、そういう、やわらかいところで、ありていに言えば、図星とか、急所とか、そういうものだった。だから、いつものように真顔ではいれなかったし、先ほど羨んだばかりの怒りにも似た感情が湧き上がってきた。いや、怒りともまた違うのかもしれない。なぜなら、さわ子はちづるの、そんな打算的でちょっと厭らしくて、友達の少ないところも好きだからだ。それを知っているから、ちづるだってわざわざさわ子でもわかるそんな、人に嫌われそうな言葉を投げかけてきたのだろうし、この感情は怒りとは違っていた。さわ子には、通したい『が』何て無い。じゃあ何かといえば、さわ子にはそれを形容する言葉が思い当たらなかった。
思い当たらないのに、その激情はむくむくと膨れていって、それにつれてさわ子の脳内には銀色の翅をもった蝶々の幻影がずんずん広がっていった。足元が陽炎のように揺れて、インクが水に染み出すように崩壊していく。ちろちろと光をなめてこちらに反射する蝶の翅が、さわ子の目の前を埋め尽くしていく。まぶしい! まぶしい! まぶしい! 鉄階段のいもむしはつぎつぎと餃子のようなさなぎになったかと思うと、どんどん蝶へと変態を遂げる。そうして、さわ子はいま、ほとんどひかりの洪水によって、前が見えなかった。ばちばちと光と光同士がぶつかる音がして、いまさわ子の周囲は、全くの真っ白になっていた。その真っ白は、徐々に蝶々がシャボン玉のようにはじけていくことで、ゆっくりと収束していった。さわ子がそのとき、そとがわから見て、どんな風に見えていたのかはわからない。ただわかるのは、五分、あるいは五日間にも感じたような激情からはっと目を醒ました時には、ちづるの姿がなくて、そこは保健室で、さわ子は手にちづるに渡されたペットボトルを握り締めるのみだったことだけだ。
考えられるのはまぶしいということだけで、それが何かということなんて見えないのに、なぜかそのとき、さわ子は、その蝶々が一体何匹いるのかを、正確に把握することができた。それを一瞬だけ不思議に思って、次にさわ子は驚くほど単純なそのわけを理解した。それは、さわ子自身がその蝶々の群れの中の一匹であったということだ。仲間のことなら、手に取るようにわかるのは、当然のことだ。夢の中の蝶は、猛々しく、優しく、希望に満ち溢れていて、そして、夢を見ていた。いつか安息の地を見つけ、仲間たちとともに楽園で暮らすこと。それは、蝶にとって何にも代えがたい夢だった。だから、蝶はその夢を貶されたり、けがされたりすることをけして許さなかった。夢を馬鹿にするような奴らがいれば、その翅で蹴散らしたものだ。その蝶は、ある時夢を見た。その夢は、幸せな未来を渇望するようなものではなくて、眠っている時に見るほうの夢だった。その夢の中で、蝶はセーラー服を着た女の子だった。周囲よりひとまわりふたまわりも大きくて、自販機との方が目線が近いような女の子だった。眠そうで何もやる気のなさそうな目をしていて、ピンクゴールドの細縁のメガネをした人に叱られていて、困って授業を抜け出して、真夏の外で階段の裏側がいもむしに似ているというようなことを、妄想している女の子だった。
そこでさわ子は、何もかもに合点がいった。自分自身の空虚な一生が、すべて満たされていく気がした。あぶらのようにとろみを孕んだやわらかい水が、さわ子を包んだ。からっぽの水瓶に井戸水をくみ取ったように、さわ子はみずみずしく満たされていた。

さわ子は蝶の夢だった!
さわ子は、銀色の美しい蝶に見られている夢に過ぎなかったのだ!

それは、それまでのさわ子にとってどれだけ甘美な真実だっただろう。さわ子は、ちづるの言うように誰かの、蝶々の見た夢のあまりものでしかなかった。彼女自身が、夢だったから、さわ子は夢なんて見れなくて、それで正解だったのだ。そしてそこまで思考がつながって、さわ子はあのとき、ちづるの言葉に覚えた激情の正体を知った。それは『よろこび』だった。さわ子をさわ子たらしめていたそれを、言葉によって己も知らずのうちに思い知った高揚感。嬉しさ、よろこび! さわ子は紛れもなく、胡蝶の夢だった!
 ブルーハワイの空の下に、胡蝶は保健室から裸足で駆けだした。染まり損ねた氷の雲が、高く天まで伸びあがって、蝶の目覚めを祝福する。銀網の衣をまとう鮭の群れはさわ子にひれ伏して、敬意をもってその体を蝶へと捧げる。背中に鱗を受け止めて、その上を眺めつ、蝶は思う。

 階段の裏側は、羽化を待つ、いもむしの腹に似ている。

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