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パーティを組もう

先日、アトリエのスタッフさんと打ち上げに行った時の話。

「好きなこと、得意なことを伸ばすことと、できないことに注目して伸ばしてあげること、結局どっちがいいのか、悩む!」

とご自身の子育てを話してくれました。

それに対して別のスタッフが
「わかる〜!自分としては、好きなことどんどんやれ〜!って思うけど、こども本人が、そこは着目してなくて、できない方をどうにかしなきゃって思ってる

という話を横で聞いていました。

私個人としては、「できないことを底上げするのって苦しいしつまらない」のでやらなくていいよ〜って思ってるんだけど、「これだけは人に負けないぞ」という”何か“がない状態ではそれを心からおもえないのではないか、と思っています。
(信じられないのではないかな)


かくいう私も、幼いころは、なんでもオールマイティにできてないと気が済まず、
全て平均点以上でいないと、と思っていました。
でもこれって、多分、不自然だと思います。

「平均点以上でオールマイティにこなすこと」は、
なんのためなのか、と考えてみると、

人に馬鹿にされないため、人にいつも必要とされるため、
人より抜きん出るため、苦労しないため、誰かに消費されないため、

だったんですよ。
そりゃ体も心も壊します。

こんな安心を得たいから、
できないところは潰しておく、ということ必死だったのです。

「何か一つでもあればいいんだよ」という言葉が綺麗事になってしまうのは、
何か一つで生き抜くことが難しい世の中であること
何か一つがないことが理由だとも思います
(実際はあるんだけど、それに「生産性があるかどうか」がいつも物差しになってしまうよね)これは大人も子供もみんな過小評価しているし、「どーせ、取るに足らないこと」って思ってるんですよ。

評価主義の社会に身をおく大人が作った枠組みの中で生きている子どもたち。
何はなくてもそれでいいと思えないのは、
自分1人がそう思っていても、1人取り残されてしまうからですよね。

そのくらい、学校とか、社会とかって、めちゃくちゃ大きくて、
「一人一人」ってなんだろうって思ってしまうのです。

10人くらいのパーティ

ところで、よくRPGゲームとかで、やたら攻撃力が高いけど防御力が低かったり、
治癒系の魔法が使えるけど、すごく攻撃力が小さかったり、
いろんなキャラクターでチーム(パーティ)を組んで、戦ったりしますよね。

私の中で、生きやすい環境・社会ってあぁいうイメージなんです。
自分の強みを活かして仲間のために助けあう。
これが、10人ぐらいの仲間なら発揮できるのですが、30人くらいになると、「自分の能力なんて…」と優劣ができたり、順序ができたりして、
やっぱりぐずぐずになってしまうキャラクターが生まれてしまうと思います。
(いつも控え選手だったり、当て馬にされたり)

世の中って、いつも控え選手、当て馬、運が悪い人、騙されてしまう人、そんな弱者が必ずいて、そういう人が控えではいられないような小さな規模で生きていられたらなぁって思います。

(母数が増えるほど、そういう弱者を利用する輩が増える!)
助け合わないと生きていけないくらいの規模にすれば、人はみな助けあうのでは?
この辺の理解にこの本が効くのではないかと、次に積読している(笑)

群像の理解

全ステータス最強のキャラを作りたい願望もわかります。ゲームの中ならば。
誰の助けもいらず、どんどんサクサクステージクリアできる。
でもそれって実際の人生では不可能ですよね。

自分の強みを強みだと頼られる経験も必要だし、
自己有用感って大事だと思うんです。
昔、TVで見たのですが、「群像の中の自分」を理解することが
人に必要なことらしいです。

つまり、集団の中で、自分には何ができるのか、ということです。
これ最初聞いた時は、なんかちょっと怖いな、と思ったのですが(集団に身を捧げるとか、献身みたいな意味合いかと思ったので)でも最近は、「そうやって頼り、頼られて行くこと」なのかな、と思っています

パーティを組もう

皆さんには、こんな時はこの人に頼ろう!
これはこの人が得意だ!
逆に、自分はこれができるから、こういう時は呼んでね!

と言い合える仲間はいますか?

私は、昔から人を頼るのが苦手ですが、
もう少し、この辺頼んでもいいかな〜と言える仲間を増やしていく!
これを目標にします!
お読みいただきありがとうございました。

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