著作者Gabriel_Garcia_Marengo

1-5.存在の神秘

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

マインドフルネス瞑想を辿る道筋もここで一区切りです。

マインドフルネス瞑想は観察することを求めます。存在の有るがままをただ見つめるのです。それをフッサールの現象学に照らし合わせて考えてきました。

ですが、マインドフルネス瞑想はただ見るだけのものでもありません。呼吸に意識を向けたり心臓の鼓動を感じたり「いまここ」に存在していることの感覚へと意識を向けていきます。

マインドフルネス瞑想のさらなる側面を考えていくため、最後にマルティン・ハイデガーの哲学を取り上げます。ハイデガーの主著『存在と時間』はときに「20世紀最大の哲学書」と呼ばれたりもするけれど、その名は決して大それたものではなく、はじめて読了した20歳の冬には得も言われぬ恍惚感を覚えたものです。

以来、初期の『存在と時間』、中期の『ヒューマニズムについて』『芸術作品の根源』、後期の『技術への問い』『放下』と読み進めていった思い入れの強い哲学者です。

ハイデガーの哲学は生涯を通じて「存在への問い」に貫かれています。「存在するとはどういうことか」「存在の本質とは何か」、そのように問い続けたのでした。

ハイデガーによる存在の哲学はマインドフルネス瞑想の経験を鮮やかに解き明かしてくれます。畢竟、存在するとは、時間のなかで生きることであり、過去と未来を現在において肯定することです。それを語ってみたいと思います。

以下17555字です。


1-5. 存在の神秘


1-5-1. 本来性と非本来性

マインドフルネス瞑想の経験にはふたつの側面がある。一方は「いまここ」で「私」に起きていることをじっくり観察する認識の経験であり、他方は「いまここ」に生きている「私」の存在そのものを感じる経験である。両者が微妙な差異を保ちながら一体のものとなっている。それがマインドフルネスの経験だ。

 さて、哲学には「認識論」「存在論」の大きく二つに分かれる領域がある。「人間の認識しているものは何か」「どうして人間は認識ができるのか」「人間の認識の前提とは何か」、そういった超越論的な問いかけをするのが認識論である。それに対して「存在しているとはどういうことか」「何が存在しているのか」「存在の本質とは何か」、このような問いかけをするのが存在論である。

 といっても、両者を明確に分けることはきわめて困難だ。「存在することの意味とは何か」と問えば、存在への問いは存在論であり、意味への問いは認識論である。東洋思想の伝統ではその差異はなおさら不分明で、事物の本質は空無であるという認識論的な言説が絶対的な無こそ絶対的な有であるという存在論に直結する。

 西洋哲学の伝統では哲学的テーマが真理の認識に集中していたので、長らく認識論に比重が置かれていた歴史がある。フッサールも認識論的批判から出発して身体や地平といった存在論的問題系にたどり着いたのはすでに晩年に差しかかっていた。


認識論に重心が偏っていた西洋哲学の世界にあって存在論に強烈にスポットライトを当てた著作がマルティン・ハイデガーの『存在と時間』だった。

 ハイデガーはしばしば「20世紀最大の哲学者」とも評されるドイツの哲学者である。もとはフッサールの高弟で、フッサール自身からも現象学の継承者として高く期待をされていた。しかし、次第に師と考え方を違えていったハイデガーは独自の哲学を模索するようになる。ハイデガーの名を世間にとどろかせた『存在と時間』はフッサールへの事実上の決別宣言だった。

 その後の人生においても、ウィーン生まれのユダヤ人であったフッサールとナチス協力へと傾いていったドイツ人ハイデガーはすれ違いを重ねる数奇な運命をたどることになるのだが、その話は措くとして、フッサールとハイデガーは同じ現象学者として語られる哲学者ではあるものの思考の様相は大きく異なる。超越論的認識論への問いを追いつづけたフッサールに対してハイデガーの終生変わることのなかった哲学的テーマは「有る」こと、すなわち「存在する」ことへの思考にあった。



「有ること」

『存在と時間』は、その名の通り「存在」すなわち「有ること」について捧げられた一冊である。一口に「有る」といっても石や椅子が「有る」こととぼくたち人間が「有る」ことには大きな違いがある。

 石や椅子はただそこに存在しているだけである。しかし、人間は感覚をもち、感情をもち、思考をもち、自身の有り方について思いを巡らせることもできる。要するに、人間は自分が存在していることを自覚できる特別な存在なのだ。このような人間に特有の有り方をハイデガーは「実存」と呼ぶ。

 実存としての人間は空中に遊離している存在ではありえない。いつかの時間、どこかの場所に存在している具体的な存在だ。神や天使のように天上にいるのではなくて地上のどこかに生きざるをえない。そのような人間存在の有り方をハイデガーは「そこに有ること」(Dasein)と名づける。「Dasein」は日本語では「現存在」と訳されている。現存在とは「現(Da)に存在(Sein)していること」を自覚している存在のことで、要するに、人間実存のことである。

 現存在が存在している「現」(そこ)とは「いま」という時間と「ここ」という空間をそなえた場のことで、ぼくたちの生きる「世界」のなかに存在することを示す。ここでハイデガーは現存在を「世界内存在」と呼び替える。「内」とは、ただ物理的に内側にあるという意味だけではない。世界という場に、関わり、帰属し、住まう、そのような有り方としての「内」である。世界において人は物や人と出会い物や人とともに有る。


現存在は世界から無縁な存在でありえない。世界を拒絶することなどできるはずもない。生まれたと同時に否応なく世界へと投げ込まれて世界の内に生きることを運命づけられている。それが現存在の有り方だ。このような人間存在の有り方をハイデガーは「被投性」と呼ぶ。

 ハイデガーの世界の概念はフッサールの地平の概念によく似ている。実際、フッサールの地平の概念はハイデガーの『存在と時間』と対決するなかで形成されたものと言われてもいる。晩年のフッサールがたどり着いた「私」の受動性はハイデガーの『存在と時間』では最初の前提となる。

 世界には無数の物が存在している。山、空、海、木など自然の物はもちろん、家、道、ペン、電話など人の手によって造られた人工物も存在する。これらの物はそれぞれに意味を有している。たとえば、ハンマーは釘を打つための道具という「意味」を有している。道具には何かしらの目的があって、その目的が道具を意味づける。

 しかし、道具の目的=意味もそれ自体独立したものではありえない。ハンマーは釘との関係においては釘を打つ目的に使われるけれども、物を壊すためにも使うことができるし、人を傷つけるためにさえ使うこともできてしまう。道具の意味は他の道具との関係性によってはじめて定まるのである。

 たとえば、交差点は道が交差する場所(世界)である。道は人や車が移動するための場所であり、道と道が交わって別々の方向に行くための場所である。交差点には事故が起こらないように信号機が設置されている。上り車線と下り車線がわかるように中央分離帯が設けられている。走行車線と追い越し車線、右折車線の区別がされている。人が渡るための横断歩道があり、歩道橋がある。車と自転車の走行を分けるために自転車専用レーンがある。

 交差点ひとつをとっても多くの物がそれぞれの目的にあわせて配置されている。さらに、信号機がただ立っていても役には立たず、歩道の真ん中に立っていても邪魔なように、それぞれの目的を達成するために最善の付置に組み合わされて置かれている。

 交差点に限らず、駅もビルもキッチンも、すべて人の生きる世界は、その目的にあわせて調度されている。こうして物の世界はひとつの調和を備える。「目的に合致した」という意味で、これを「合目的的」と呼ぶ。だから、人工物の世界は意味をそれぞれに備えた道具たちによる、ひとつの関係性、調和をもった総体として合目的的に存在している。


意味の力は極めて強力だ。ひとたび意味の世界に投げ込まれれば、意味を離れて有ることはできない。たとえ、自然の産物であっても、木は家を作るという目的のために使いえるし、川は農耕のため、風は船を走らせるため、海は漁をするために意味づけられる。物はすべて人の目的のために供せられたものとして「道具的存在」の本質を明らかにされるのである。

 初期フッサールの現象学は意味を人間の意識が対象に付与するものとして考えていた。それに対して、ハイデガーは意味は人に先んじて世界として存在していると考える。世界は目的という中心から構成されるというハイデガーの世界の概念には、フッサールの志向性の概念が残響している。しかし、ハイデガーの考えに立てば、人間の意識は道具的存在としての意味が張り巡らされた世界に投げ込まれることではじめて、その相関物として生じるものである。

 世界へと投げ込まれてしまう人は意味から逃れられない。意味は受け入れなければならないものである。道具的存在の意味は物を支配するだけではなく、現存在をも拘束してしまう。こうして道具的存在は物だけではなく人間存在も道具と化してしまうのだ。



本来性と非本来性

道具としての人間、響きこそよいものではないが、日常の生活ではぼくたちはなにひとつ疑わずに意味=道具として暮らしている。たとえば「社会人」や「学生」として、あるいは「医師」として「教師」として「会社員」として、そして「親」として「子」として生きている。

 日本の社会という世界には「社会人」としての役回りや「親」としての役回りがなんとなくでも存在していて、日常を振り返ればその役をこなすようにして生きている。しかし、それはあたかも「ハンマー」が「ハンマー」であるように、「家」が住むため「家」であるように、「社会人」や「教師」や「親」としての意味を生きているだけではないだろうか。端的に言って、世に定められた道具としての役割を生きているだけではないだろうか。

 日々の暮らしではほとんどの人が世界を意味づける「私」ではなく、世界に意味づけられた「私」として生きている。世界を解釈するのではなく世界から解釈されている。このような存在の仕方をハイデガーは「非本来的」な有り方と考えた。

 日常生活の「私」は誰でもあって誰でもない。入れ替え可能で匿名の意味として生きている「私」である。非本来的な「私」である。しかし、本来ならば「私」は世界にただ一人しか存在しない。だから、入れ替え可能な有り方ではなく、他に替えることのできない唯一の存在として自分自身の生を生きる有り方こそハイデガーは「本来的」と定めた。


医師や教師として生きている人は誰かである、しかし、医師や教師それ自体は誰でもない。医師として教師として生きてはいる本人は誰でもない彼であっても、医師や教師という役割は別の誰かでも埋めることができる。

 入れ替え可能で匿名な生き方、誰でもあるが誰でもないという生き方をハイデガーは一般化して「ダスマン」(Das Man)と名づけた。英語で「the they」と訳されることからも察しがつくように、日本語では「ひと」あるいは「世間」や「世人」として訳されているが、感覚的には「だって、みんなそうしてる!」とか言うときの「みんな」という言葉に近い。


   ***


ぼくたちは誰もが唯一無二の存在でありながら、日常的には誰でもない、したがって、誰でもかまわない入れ換え可能な「ひと」として生きている。では、どうして唯一の自分として生きることができないかといえば、それが「不安」だからだとハイデガーは考えた。

 ハイデガーは「気分」を自身の哲学の重要なテーマとして認めていた。有ることを理解するためにはなんとなく気分で感じていることこそが重要だと考えていた。そこがとても面白いところで、たとえばカントやフッサールといった精密科学のような理論哲学に気分という要素の入りこむ余地はない。

 さて、不安こそ現存在にとって根源的な気分であるとハイデガーは指摘する。生まれたからには人間はいつかかならず終わりを迎える。要するに死ぬ。人間はひとりで生まれてきてひとりで死んでいく。死ぬのは「私」であって他の誰でもない。

 人間の唯一性は死に際して逃げられないものとして前景化する。ハイデガーによれば「私」の唯一性を意識するということはいつかかならず死ぬという「私」の宿命を自覚することにほかならない。

 しかし、この生き方は重い。誰にもできるものでもないし、いつでもできるものでもない。この重苦しい気分が「不安」である。だから、不安からはつい目を背けたくなる。このとき、目を背けたままでいられる生き方が「ひと」としての生き方だ。「みんながそう言うから」「みんなもそうやって生きているから」と「私」の生に言い訳をして安心する。そうして、人生の重さを背負う責任をごまかすのだ。


誰でもない「ひと」に紛れて日々をやり過ごす生き方、すなわち「非本来的」な生き方をハイデガーは日常性への「頽落」と名づけた。しかし「頽落」した生き方は必ずしも間違った生き方ではない。頽落しなければ日常生活を営むことはできない。日々はある程度穏やかに過ぎてもらわなければやはり困ってしまう。だから、現存在にとって頽落は必要な有り方だとハイデガーも釘を刺している。

 しかし「ひと」という有り方にも苦しさはある。「ひと」は周囲と同調して生きる生き方だから、周囲にあわせて周囲の目を気にして生きざるをえない。周りのみんなから浮かないように気をつけたり、他と自分を比較して落ち込んだり、他に抜きんでて自分を認めさせてやろうとしたり、周囲に気を遣って気が休まらない。まさに「気遣い」による気疲れである。このような「気遣い」にハイデガーは「ひと」の本質的な性質を置いている。


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気遣いに始終追われていると「ひと」は次第に疲れてくる。なにしろ「非本来的」な生き方を続けているので、生の実感はどんどん薄れてくる。何でこんな生き方をしているのかもわからなくなってくる。生きている実感も生きている意味も希薄になって退屈な日常だけが繰り返される。そこで「ひと」は「気晴らし」を求める。

 「Gerede」(「世間話」や「空話」や「おしゃべり」と訳される)は「気晴らし」の最たるものだ。人のあらぬ噂話に耳を傾けて、暇な時間をやりすごそうとする。これが「Gerede」である。どうして芸能人の浮気や離婚やスキャンダルが公共の電波や出版物を通して世間に流通するのか、まったく下らないと思っていた時代がぼくにもあった。けれど、世間をにぎわす芸能人のスキャンダルもすべて「Gerede」としての意味=役割を備えている。「ひと」は非本来性にどうしても退屈してしまう。だから、不安をごまかしていたい現存在にスキャンダルは必要不可欠なのだ。

 日本人はハイデガーが好きである。「ハイデガー全集」が創文社から「ハイデガー選集」が理想社からそれぞれ出ているし、『存在と時間』の邦訳は旧訳新訳あわせて7訳以上も出ている。このような哲学者は他にはいない。ハイデガーの哲学が日本人に馴染みやすいのも空気を読むことに異常に特化した日本人の習性がハイデガーの気分による現存在分析と親和しやすいからかもしれない。



関心をもつこと

ぼくたちは日常的な意識の中で本来的な自分を忘却して生きている。『存在と時間』のエッセンスを簡単に言ってしまえば「明日死ぬかもしれない」と心して今日を充実して生きろということだ。けれど、そう迫られたところで直視するには生は重苦しい。あるいは、唯一の生を生きようと決意するには普段のぼくらの生は釣り合いが取れないほど軽い。朝起きて、出勤して、仕事をして、帰って、食べて、寝る、終わることのない繰り返しの毎日で、存在は耐え難いほど軽い。

 とはいえ、本来の自分を生きていないことは、誰より自分がわかっている。「こんな毎日でよいのか」「こんな人生に意味なんてあるのだろうか」「このままでよいのだろうか」と自問自答したくなるときは、誰にもある。

 しかし、この問いかけはどこから届いてくるのだろうか。もちろん、普段は見ないようにしているぼくの本来性の根源からである。唯一の生としてのぼくの存在がぼくに呼びかけているのである。

 存在からの呼び声をハイデガーは「良心」の呼び声と名づけた。こうして、良心は本来的な有り方を忘れて非本来的な有り方に頽落している現存在に存在が突きつける疼きとして訪れる。


現存在は自らの死を怖れ、その不安から非本来的な「ひと」へと頽落する。「ひと」の群に没入することで不安を紛らわせ、安心を求めようとする。しかし、それが仮初めのものでしかないことにも実は勘づいている。その意味で非本来的な「ひと」の生き方はそれ自体に「虚無」を抱えこんでいる。

 非本来性の虚ろに良心が呼びかけてくる。「本来的な生を忘れているのではないか」と。誤魔化してきたことは十分にわかっていたことだ。建前に言い訳を重ねてきたのだ。だから、現存在は良心の呼び声に「疚しさ」を覚える。

 フッサールが視覚偏重なメタファーで自身の哲学を構築してきたのに対して、ハイデガーは身体に響く声や言葉、聴覚や言語に偏った表現を多用する。これも認識論と存在論の差異かと思えば、とても面白い。


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良心の呼び声に薄々気づきつつも本来的にはなかなか生きられない。というのも、非本来性を捨てるということは同調していた「ひと」という集団から逸脱することを意味するからだ。その恐怖感は日本人には言わずともわかることで、簡単にできることではない。しかし、そのような「私」でも「私」の生を意識しないではいられなくなる瞬間がある。それは強い痛みを感じたときだ。

 言葉を換えれば、深い傷を負ったときである。交通事故の後遺症で肢体が思うように動かせなくなったとき、自分の体に進行性のがんが発見されたとき、友人や近親者を亡くしたとき、あるいは、リストラで職を失ったとき、そういった経験は深い傷となる。

 「どうして自分がこんなことに?」--この自問自答が、頽落していた日常の暮らしから「私」を強制的に引き剥がす。非本来的な「ひと」から本来的な「私」へと連れ戻す。「いまここ」で痛みを感じているのは、他の誰でもない「私」自身なのだ。この痛みを代われる人などどこにもいない。


傷は「私」の生を侵食し、痛みは「私」の生が有限なものであることを暴きたてる。「私」は「私」という存在の虚無を否が応でも思い知らされる。いままで振り落とされないように「ひと」にしがみついていたけれど、もはや支えにはならない。逃げることはもうできない。このときはじめて他者への気遣いに囚われていた意識が自己への気遣いへと転じるのである。

 実は、気遣いにも他者への気遣いと自己への気遣いの差異がある。ハイデガーは他と関係を取り結ぶ意識を「関心」(Sorge)と呼ぶ。関心にも非本来的な関心と本来的な関心の別があって、日常性へと頽落して人の視線を気にする関心は非本来的であり、これをいままでぼくは「気遣い」(訳語や用法は無数にあるのでそれを逐一触れることはしない)と呼んできた。

 それに対して自己の死=存在に結びついた関心は本来的な関心である。ハイデガーの存在論において、関心のスイッチの切り替えこそ現存在の生き方を変容させるスイッチになる。



1-5-2. 傷跡と未来

カバットジンのストレスクリニックには、心臓疾患の男性や足の痛みを抱えていた男性がそうだったように、慢性的な体の不調や痛みを訴える人が数多く訪れる。体の痛みや不自由さに彼らは心の底から人生を嘆いている。

 しかし、痛みに嘆くのはそもそもなぜだろうか。思うに「他の人はあんなに自由に体を動かせているのに、自分の体はどうして痛いのか」、あるいは「痛みさえなければこんな人生ではなくて自分はもっと満たされた人生を送ることができたのに」、そう思うからではないだろうか。

 周囲の人と比べて、望ましい理想の自分と比べて、いまの自分の欠損を嘆いているのだ。言い換えれば「いまここ」に有る自分自身ではない誰か、それを「他者」と呼べば、その他者から評価した自分のマイナス部分を嘆いているのである。畢竟、その嘆きは自分から出たものではない。他者から出されたものにすぎないのだ。こう言うことが許されるならば、彼らはまだ自分の人生を生きてはいないのである。

 非本来的な「ひと」はつねに他者の目から自分に評価を下している。だから、気遣いに振り回されて気の休まるときがない。つまるところ、ぼくたちの悩みや苦しみの大概は「私」ではない誰かになろうとすることから生まれてくる。「もっとお金があれば」「もっと体が強ければ」「もっと家族に恵まれていれば」そう思えばきりがない。どれほど願ってもいまここの現実が変わるわけではないのに、「私」はいまここにいる「私」以外の誰でもありえないのに、である。


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瞑想をしてみれば痛感することだが、人の意識は「いまここ」にじっとしてはいることが本当にできない。気づくと過去や未来に気を取られている。それと同じように、人間の意識は「私」にとどまっていることもできない。ややもすると、人の目に自分がどう映っているかを気にしたり、いけ好かない人のことを悪く思ったり、気になる人をどうしたら振り向かせられるかを悩んだり、そういった意識に没入している。

 こういった意識を「自意識」と呼ぶ。自意識は決して「私」へ集中する意識などではない。人の目をコントロールしようとする気遣いの自動操縦そのものなのだ。

 マインドフルネス瞑想は「私」の有るがままを見つめる瞑想である。言い換えれば「いまここ」に存在する自分の姿そのままを肯定しようとする瞑想である。有るがままの「私」にはできることもあればできないこともある。決して完全ではない。それでも「いまここ」に有る「私」は他の誰になることもできない「私」である。要するに「私」を受容するとは、不完全な「私」としても「私」を認めるということなのだ。

 痛みを消すことはできないと認めてはじめて痛みとどうつきあっていけばいいのかという意識へと変わることもできる。できないことを認めることは不随さに甘んじることではなく、他にできることへと意識を向け直すことだ。心のマインドフルネスとは「できないことはあるけれどできることもある」という可能性を信頼する心の有り方だったはずだ。


マインドフルネスに目覚めることで人は周囲への意識に囚われることから離れ、自分自身の生を生きることを始める。世界から自分の生を意味づける非本来的な生き方のスイッチを停止して自分自身で自分の生を意味づける本来的な生き方へとスイッチを切り替えるのだ。

 「実存」(Existenz)という言葉は分解すれば「外に」(ex)「立つ」(stenz)と読むことができる。ハイデガーはそれを強調して頽落した日常的な生の外に立って「私」の本来的な生を生きる存在として実存を考えている。

 「外に立つもの」として現存在はもはや他者への気遣いに囚われることなく、自己への関心を第一にするようになる。これはフッサール現象学でいえばエポケーに相当する。ハイデガーは師フッサールの現象学のエポケーの理念をこのように継承したのだ。


余談ではあるが、関心というとすこし生硬な感覚がするのも否定できない。英語では「Sorge」を「care」と訳する。だから、関心とは実は「ケア」なのだ。自己への関心は「セルフケア」と言い換えて差し支えない。

 ケアすることには、行き過ぎればありがた迷惑なお節介にもなるし、人の目ばかり気にして気疲れしてしまうこともあるけれど、周囲の人や手元にあるもの、そして自分自身を大切にするという意味では必要なことでもある。ハイデガー自身は「ケア」とは自己へのケアを第一にするものとして考えていた。だが、ハイデガーの気分分析を基盤に展開した看護学研究には「ゾルゲ」を他者への「ケア」へと結びつける議論が存在することは指摘しておきたい。



傷と記憶

健康な生活を送っていた人が、ある日深い傷を負って、それまでの暮らしができなくなったとしたら、喪った何かを悔やんで絶望するだろう。フッサールは意識は志向性であると定めた。何かの対象へと向かう意識の運動であると考えた。しかし、人間の意識を何より捉えて離さないのは、そこに「有る」べき何かが「無い」という欠損の暗闇なのだ。

 傷の経験に囚われた人は傷の暗がりを見つめつづけてしまう。まだそこに何かがあるのではないかと探しつづけてしまう。他に見るべきもの、他に見えるものがあるかもしれないけれど、それに気づくこともできずに。

 体の痛みや病の苦しみが自分本来の有り方を気づかせてくれる大きなきっかけになることがある。痛みや苦しみを絶望的な無意味として拒絶するのではなく「私」自身に欠かせないものと認めることで人は本来的な自分自身の生を生き始めることもできる。


傷という言葉を丁寧に考えてみる必要はある。「傷物」という言葉がある。完全なもの、完成されたものに傷がある、そこから、不完全なもの、価値を喪ったものという意味へと転じる。傷とは欠損であり、傷の経験は喪失の経験である。

 傷ついたリンゴは売り物にならない。すなわち、交換することができない。しかし、この傷のついたリンゴは世界に二つとない唯一のリンゴである。よくよく見てみれば、どんなリンゴにも細かな傷は有るもので、傷こそが他のリンゴとはちがう、「いまここ」にある唯一無二のリンゴであることを教えてくれるのである。

 傷こそが逆説的に他の誰でもない「私」を証する。誰とでも交換可能な「ひと」から誰とも交換不可能な「私」を分離するのは傷なのだ。

 傷と言うから傷ついた人だけが負わなければならないもののようにも思えてくるけれども、そうとも限らない。傷は外部から何かが接触をしてきた、その出来事の痕すべてが傷である。痕跡である。

 だから、出来事の痕跡としての記憶は傷の跡そのものだ。記憶はすべて傷としての本質をもつ。その記憶が、懐かしさを覚えるものか、外傷的に苦痛を引き寄せるものであるかの差異はあるにしても。


   ***


高校の世界史の授業にも出てくるトピックだが、英国の哲学者ジョン・ロックは人間の心は「タブラ・ラサ」(白板)で生まれてくると論じた。白紙の板に文字が書き込まれて文章となるように、人の心も「タブラ・ラサ」の状態に外部からの刺激が加えられることによって形づくられていく。

 ジョン・ロックは経験の痕跡としての記憶を哲学のテーマとして論じた初めての人だったろうと思う。ロックに従えば、ぼくたちはみな白紙の状態で生まれてくる。赤ちゃんには誰彼の差は存在しない。自我も個性も芽生えていない。双子ならなおさらだ。

 でも、成長して様々な経験をしていけば一卵性の双生児でも個体として驚くほどの差異をもつようになる。それぞれ別個の記憶を重ねていった結果である。記憶が人を誰とも入れ替えできない唯一の存在へと作りあげていくのだ。


傷には二つの側面がある。ひとつは記憶として個性の根拠である。もうひとつは外傷として苦痛を呼び起こすものである。しかし、両者の区分は明瞭にできるものではない。

 カバットジンのストレスクリニックを訪れる人は、はじめ傷の無意味な暗闇に意識を奪われていた。けれど、瞑想を経験することで傷の意味を読み変えていった。自分にとって大切なことを教えてくれたものとして、自身の唯一性として傷を受容できるようになった。重要な経験の記憶として傷は彼らの人生を助けるものへと転じたのだった。

 傷の経験はその人自身に固有の記憶である。記憶は人間を「ひと」から「私」へと差異化する。ハイデガーの哲学においても、記憶は非常に重要な役割を果たしている。ハイデガーは「歴史性」という言葉をつかって存在の記憶や歴史を論じていく。


   ***


ハイデガーによれば、現存在は歴史の内へと放り込まれたという有り方、すなわち被投性として存在している。現存在は生まれる場所や時代を選べない。ぼくは、1980年に生まれた日本人として生きることを避けられない。フッサールの言葉を借りれば、それがぼくの地平である。

 地平は超越論的な前提としてぼくの経験を支えている。ぼくの認識にはその時々の日本の社会が重ねてきた価値観や空気感が否応なく染みついている。個別の実存は生きる時代の歴史から逃れることができない。だから、ハイデガーの論じる「歴史性」とは、投げ込まれた世界の歴史や伝統をその生に背負うことを条件とする。


日常生活を送るぼくは現代日本という世界の歴史を背負いつつも日本社会に根ざした「ひと」として頽落した状態で暮らしている。しかし、日常的な生活にも様々な出会いが訪れる。ときに予想だにしない偶然の一撃がぼくを唯一の存在の経験へと引き渡す。

 これから先、勤務先が突然倒産することがあるかもしれないし、大切なパートナーとの別れがあるかもしれないし、大病の宣告があるかもしれない。いずれにしても、ぼくはその経験をこの世界の内で引き受けなければならない。どれほど納得しがたくてもこの世界の歴史がその経験に定めた意味を無視することはできない。

 たとえば、四十代に差しかかったころに大病をして職を失っても、なかなか次の仕事は見つからないだろう。それが日本の地平がぼくたちに用意した意味である。これを否定することはできない。ただ恨んでいても仕方ないことである。しかし、いま与えられた意味が永遠に変わらないものでもない。未来の意味まで同じように決められたわけではない。



未来への投企

ハイデガーは現存在の被投性を強調した。現存在は世界から与えられる意味を拒めない。しかし、ひとたび受け取った意味をずっと持ちつづけていなければならないわけでもない。意味を未来に向けて投げかけていく能力もまた現存在には備わっている。未来へ向けて先駆けることをハイデガーは「投企」と呼んだ。

 現存在は世界内存在として世界の歴史を引きうけつつもそれを投企する。先人の記憶や歴史を無視することは確かにできない。けれど、その意味を必ずしも過去の意味と同一に解釈しなければならない理由もない。過去を継承しつつ別の意味へと解釈しなおすことはいつでも開かれている。

 過去に束縛されるだけの生き方は非本来的な生き方でしかない。過去と同じように生きることは周囲の誰かを気遣って生きることと変わらないのだ。本来的な生き方をするためには未来へ向けて別様の生き方を「決断」する必要がある。


存在の意味はつねに開かれている。けっして閉ざされたりはしない。だからこそ、現存在は可能性へと投企できるのである。過去の世代が積み重ねてきた意味を歴史から掴みあげつつ、到来してくる未来へと新たな意味を開くために投げつける、それが現存在の「被投的投企」である。

 現存在は投企することで意味を無数の可能性へと開く。そして可能性として広がった意味を新たにひとつ掴みとるための決断を下す。こうして可能性でしかなかった意味は現実のものとなる。決断の瞬間に過去と未来が現在において出会いを果たす。いずれにしても決断は「いま」だ。「いま」という一点でのみ過去と未来がひとつに結晶する。このモーメントを「時熟」と呼ぶ。


ストレスクリニックを訪れた人たちはみな自分の運命を呪っていた。耐えがたい人生を拒絶していた。しかし、瞑想を通じて自身の運命が避けえないことを認められるようになる。カバットジン自身断っているように瞑想が痛みや苦しみを軽くすることはない。ただ、痛みや苦しみに向きあう心のあり方を変えるのである。

 無視することのできない自身の過去=運命を受けいれたとき、自分自身の価値を人生に見出すようになる。もちろん、世間の尺度から見れば、できないことや不満足なことはいくらでもある。そういった世間の評価が世から消えてなくなるわけではない。しかし、その評価に屈する理由もない。自分の生は自分の生として生きればよいのである。

 そう決断したとき彼らの抱えていた痛みや苦しみの記憶=歴史は彼らの人生を邪魔するものではなくなる。痛みや苦しみ、傷や欠損もすべて含めて自分の生きるべき人生であると引き受けるようになる。生の意味はいくらでも書き換えることができるのだ。


   ***


存在の本質は時間である。これがハイデガーの結論だった。過去は歴史として蓄積し、現在は「いまここ」にしかない現在であり、未来はいつかかならず到来する。そのような形で過去・現在・未来が出会う瞬間の時間性こそ歴史性の意味である。

 到来する未来を過去と同一の未来として迎えるか変容の未来として迎えるかは「いまここ」の「私」の決断ひとつにかかっている。時間は現在において過去と未来に差異をもたらす。時間は変化の原理なのだ。

 本来性への決断によって「私」は入れ替え不能の唯一の「私」となる。しかし、その「私」は不変の定点たる「私」ではない。存在の意味はつねに開かれていて閉ざされることもない。だから、生の意味が唯一に決まることもまたありえない。


サルトルが指摘したとおり人間の存在の意味に本質は無い。もし存在に、そして「私」に本質なるものがあるとしたら、その意味は唯一に定まるべきものとなってしまう。この本質から逃げられない。そこにもはや可能性などありえないだろう。人間存在に本質などないからこそ、未来において「私」が別様に変化する可能性がありえるのだ。

 本質をもたない存在として、ハイデガーは存在すなわち「有」の本質を「無」として考えた。「有る」とは「無い」のである。しかし、存在の無はただの否定性ではない。無限に意味を生みだす可能性へと絶対的な力動の有へと反転するものでもある。

 たとえ苦しい経験であっても、その経験を苦しいままで終わらせずにできるのも、そもそも現存在が本質をもちあわせていないからにほかならない。無の無規定性こそ経験の意味を何度でも書き換える可能性を担保するものだ。レジリエンスを生みだすものこそ無という有である。



1-5-3. 有ることの肯定へ

過去を受容して未来へと投げかける、その瞬間、過去と未来が現在において出会いを果たし、過去は新たな意味として転成する。このプロセスが存在の時間性の意義ならば、人の過去、記憶の意味は決して定まったものではない。まして誰かが決められるものではありえない。

 記憶の意味は自明ではない。耐えがたいほどに苦しい記憶がある日ふと忘れられたり、受容できたり、大切なものになったりもする。幼いころ親に厳しくされて納得できずにいたことが、親になってみたときその本意を理解する。そういった経験は誰にでもあるはずだ。経験は新たな意味で読まれるのをずっと待っていたのである。


記憶はヒエログリフやロンゴロンゴ文字のような古代文字にどこか似ている。たしかに誰かがそれを書き残した。だから、文字として残っているけれども、いまとなってはまったく読むことができない。どんな意味があるのかもさっぱりわからない。でも、それは文字であり、何かが記されている。ロゼッタストーンのようなきっかけさえあればたちまち読めるようになる。

 だから、記憶は秘密の文字で書かれているのだ。読めないこともあるし読んでも意味が取れないこともあるけれど、いつか読めたりするし読みなおしてみるたびに別の意味に解読できたりもする。ハイデガーのライバルである哲学者兼精神病理学者カール・ヤスパースなら「暗号」の解読と呼んだだろうか。


記憶に定まった意味はない。その意味では「無意味」であるとも言える。必然的な本質などもちえない。偶然そのものである。畢竟、現存在の生は偶然に委ねられている。何のために生まれ、何のために生きて、何のために死ぬのか、必然的な理由はない。まったくの偶然、まったくの無意味である。偶然性こそ存在の無性の本質にほかならない。

 ぼくたちの人生は偶然そのものだ。生まれる時代も場所も家族も選ぶことはできないし、死ぬ時代も場所ももちろん選べない。偶々投げこまれた世界で、いつ終わりが来るのか定かでないまま生きていかなければならない。そのわりには不運や苦難やトラブルはいつだって降りかかってくる。「一体この人生は何なんだ」「生きているのに何の意味があるのだ」と嘆きたくなるのも当然だろう。

 しかし、人生にそうなるべき意味も理由も無い。ただ偶然そうなっただけなのだ。もはや、生きていることそれ自体が、欠損、無そのもの、巨大な外傷に思えてくる。


ハイデガーによれば、世界は意味で張り巡らされている。世界に意味に覆われていない領野はない。しかし、現存在の生、「私」の命だけはその意味の網も捕えることができない。現存在は意味の網目にぽっかりと空いた意味の裂け目=傷なのだ。

 世界を構成する道具的存在の連関も存在の裂け目まで覆うことはできない。無意味な現存在はそもそも目的をもちえない。だから、存在の空虚はいかなる意味にも目的にも回収することはできないのである。

 周囲の世界にどうにも馴染めていないと感じることがあるだろう。同僚たちと会話をしながら、友だちとおしゃべりをしながら、どうにも場違いな感じがする、自分がこの場の言葉にはまっていない感じがする。そんな感覚を覚えたことはないだろうか。そのとき「私」は存在の空無を露わにしている。世界にできた染みとして浮かび上がってくる。

 このとき言葉が抜け落ちていく先、言葉の意味が滑落していく先こそ存在の裂け目、虚無の奥底である。良心が呼びかけてくるのはこの刹那だ。存在の本来性へと意識を向けよと。呼び声はまさに裂開した傷跡から聞こえてくる。痛みや疼きを伴って。こうして空無の裂け目が生み出す意味の軋みやズレが本来的な自己へと存在の意味を転生させるスイッチとなる。



ハイデガーと東洋思想

いまさらだが、ハイデガーの存在論は井筒の描く東洋思想の姿にきわめて近しい。ハイデガーの存在論は偶然による被投性を現存在の絶対的な前提に据える。有は本質的に無である。東洋思想もまた本質による必然性を厳しく退けて偶然性の空無を徹底する。しかし、存在の無を徹底すればこそ新たに存在を生みだすものとしてその無は肯定され、そして、生まれ出てきたものすべての一回性もまた肯定される。それも両者に共通する。

 ハイデガーにおいても東洋思想においても「現れ」は言葉と関わることで生成する。老子は「言葉は万物の母」とハイデガーは「言葉は存在の家」と語っていたが、言葉は地平=間主観性であり、人間と世界の出会いを支える前提である。

 東洋思想的なマーヒーヤとフウィーヤの交差もここに生まれてくる。すなわち、現存在は「ひと」として意味に頽落しつつも、時熟の瞬間、唯一無二の本来的存在へと変容するのだが、それこそマーヒーヤからフウィーヤへの転生にほかならない。

 そして、存在の唯一性を支えるものこそ記憶であった。記憶があるからこそ他に換えることのできない「かけがえのなさ」として実存することができる。だから、フウィーヤへの鍵はマーヒーヤとして存在しているそれぞれの個物に刻み込まれた過去の記憶にあるのだ。

 時熟の瞬間、過去と現在と未来がひとつの関係性を取り結んで存在は新たに生成する。決定的かつ運命的な瞬間である。それは過去の出来事が未来の出来事とひとつに結びつく縁起の瞬間でもある。


   ***


ハイデガーの存在論と東洋思想の符合はすこし出来過ぎに感じられもする。推測すれば井筒俊彦による東洋思想の分析がハイデガーの存在論を下敷きにしているからだろう。フッサールやサルトルに触れておきながら井筒がハイデガーを読んでいないと考える方が難しい。

 井筒の仕事はハイデガーに端を発した西洋の視線による無の分析を東洋人としての井筒自身の被投性、つまり西洋の文化を受けいれざるをえない立場という被投性において引きうけて投企したものだとぼくは理解している。


後にハイデガーは『ロゴス・モイラ・アレーテイア』という著作で「ロゴス=理性」「モイラ=運命」「アレーテイア=真理」という自身の哲学の根幹をなす言葉について書いている。

 人間は存在によって世界へと送り届けられ世界の内に存在を与えられる。これが「モイラ」としての運命である。人間は運命の悪戯に翻弄され、世界の内を当て所なく彷徨い、止め処なく迷い、そうして自分の在処を忘却してしまう。そのとき、哲学の象徴として「ロゴス」が召喚される。

 ロゴスの語源「レゲイン」は古代ギリシア語で「語る」を意味する動詞であるが、本来は「集めること」「留め置くこと」を意味していた。散り散りになってしまったものを再度ひとつに集めおくこと、自身の在処を見失った現存在を有るべき在処へとまとめること、それこそが「語ること」すなわち「ロゴス=哲学」の本来の働きである。良心の呼び声もまた「語ること」としての「ロゴス」にほかならない。そして、ロゴスの働きによって「真理=アレーテイア」が明らかにされる。

 ハイデガーによれば「アレーテイア」は「レーテイア」すなわち「隠すこと」「忘れること」に否定を意味する接頭辞「ア」がついた言葉である。だから、真理の本来の意味とは「隠れなさ」「思い出すこと」であり、「暴くこと」「暴露すること」であり、転じて「明らかにすること」である。存在の忘却を明らかにして隠されていたものを明るみに出すこと、それが真理の開けなのだ。ロゴスとモイラとアレーテイアは相互に密接にかかわりながら、人間存在の本質を構成する。


マインドフルネス瞑想の経験は「ロゴス」の経験ではないだろうか。自身の「モイラ」を自覚して、これを受けとめる。その意味を読み変え、語りなおしていく。そのとき散り散りになっていた意識はひとつに集中して自己をまとめていく。目に見えていた部位も見えていなかった部位も同じひとつの存在として統合される。その姿こそ、ずっと忘れていたその人自身の真実の姿、すなわち「アレーテイア」である。

 ハイデガーは偶然に生まれてしまった一回きりの存在を受容することで、かけがえのない存在の唯一性を肯定することを説いた。彼の哲学は肯定の存在論である。マインドフルネス瞑想もまた無常に流れ去る宇宙のただなかで「いまここ」に有るがままの存在を受容しようと教える肯定する瞑想であった。


   ***


マインドフルネス瞑想と東洋思想と現象学をひとつの輪につなげてみた。もちろん、それぞれにはそれぞれの差異もある。フッサールの現象学は「見る」ことに重きを置いているから行動へのスイッチがなかなか見えてこない。

 ハイデガーの存在論にはどうしても切迫感が、ギリギリの状態で決断を求められる息苦しさがあって、もうすこし肩の力を抜いても方法があるのではないかと感じてしまう。それに、決断が必要だと迫られても何をどう決断すればいいのかはいまいち曖昧なままだ。なんでもかんでも決断していればよいというものでもないだろう。

 マインドフルネス瞑想にしても、見て、受け入れることはわかるけれど、次に行動を改めることについて自然に見えてくるままに委ねているというのも偶然任せの気がしないでもない。

 だから、見ることと行動することを接続するために次の技法へと接続したい。それこそがインプロである。


【了】

画像著作者: Gabriel Garcia Marengo
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