能のメガネで見てみよう
芸術鑑賞
ねごとです。
藝術の秋ですね。
小さいころから母親に美術館や博物館に連れていかれることがよくありました。私を文化人に育てる英才教育としてではなく、ただただ母親の趣味として。大学生くらいになると自分でも興味を持ち始めて、少し勉強してみたり、逆に母親を誘って美術館に行くようになりました。興味を持ち始めてから気が付いたのですが、
西洋芸術が全く理解できない!
キリスト教の価値観とか、神話とか。勉強することによって背景を理解できるようにはなるものの、一向に感情移入ができない、、、
一方で、日本の芸術文化は何の勉強もしなくても、「詫び寂び」とか自然と感じ入るものがあったりしますよね。日本人として和の心が育っているのだ
ろうと、少し嬉しい気持ちになれるので日本芸術は好きだったりします。
それでは本編!
能と演劇
大学受験の時に現代文の問題で出た文章がとても印象的だったので、受験が終わってすぐに読み直した。
『神話する身体』(著:安田 登)
能と演劇の違いについて書かれた本で、物事の本質について考えさせられる。文章で書くと難しい気がするので、2つの違いについて図解してみた。
演劇では、常に最新の練習メソッドが研究され、一流の役者になるにはどのようにすれば良いのか努力に余念がない。一方、能ではとにかく師匠がやった型を真似し、少しでも違えば怒られ、なぜこのような型があるのかと考えることもないそうだ。
能とはなんとツマラナイものだろう。。。
しかし、筆者は能の表現は神秘的精神作用をもたらすと言う。何を意味するのかも分からない能の型を通して、演者だけでなく観客にも、これまで感じたことのないような感情を呼び起こさせるらしい。
筆者曰く、数千年前に踊り子たちは舞や謡の「型」の中に、言葉にはできない「思ひ」を封じ込めた。それは幽霊や神様と対峙した時の畏怖、神話的体験による感動を冷凍保存したものであるとのこと。能とはそんな言葉にできない「思ひ」を洗礼された「型」によって再び現代に呼び起こす儀式である。
つまり、能における「型」とは大昔の神話的体験を現代に立ち現れさせるアイコンとしての役割を担うのだ。グーグルのアイコンをクリックすると無限の情報にアクセスできるのと同じように、観客はシテ(能の主役)の型を見ることによって太古の神話を体験できるのである。
日本に受け継がれるミーム
能のメガネで社会を見てみると、日本には沢山のアイコンが存在することに気が付く。例えば「諸行無常」である。
一度は聞いたことがあるだろう、日本文学史上あまりにも有名な『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。天下を我が物とした平家の没落を、仏教思想の三法印の一つ諸行無常と表現した一説である。
「諸行無常」という全く意味の分からない漢字四文字は、万物は常に移り変わり、永遠に変わらないものなど無いという価値観を見事に冷凍保存したアイコンなのだ。
他にも、諺やおばあちゃんの知恵などが同様の役割を果たす。我々日本人は、「仏の顔も三度まで」という諺を通じて、仏のように優しい人を怒らせてきた何千・何万人という人々の経験に基づく洗練された知恵にアクセスすることができる。
5万個以上存在するといわれる諺や、おばあちゃんの知恵、その他多くのアイコンにより、日本人は知らず知らずのうちに共通のデーターベースにアクセスし、共通のミームを受け継いできているのである。
洗練と形骸化
社会にとって有用なアイコンができる為には2つの条件がある。
洗練化と形骸化だ。
まずは、アイコンになる前の経験や行動・知恵が洗練されたものである必要がある。「脱水症状は気合が足りない証拠だ!」などという、誤ったアイコンが作成されてしまうことで、誤った知恵のデータベースに多くの人がアクセスしてしまう可能性がある。次に形骸化することが必要である。少し違和感があるかもしれないが、洗練された知恵がその内容や意義を失うことによって、アイコンは大衆に広く浸透し効力を発揮するのだ。
日本神話や諸行無常の概念を正しく理解しようとするには、それなりの時間を費やす必要がある。一般市民でも気軽にクリックできるアイコンになる為には、その背景にある膨大な哲学を捨象しなければならないのだ。
ご飯を食べる度に、動物を神殿に捧げ、感謝の舞をしていては、その間においしいご飯が冷めてしまう。食物への感謝の気持ちを一心に込めて「いただきます」と手を合わせるのである。
選挙に行こうキャンペーン
我々は投票という行動を通じて、これまで社会で築き上げた民主主義の基盤にアクセスすることができる。「紙に名前を書いて箱に入れる」という単純な作業によって、政治の意思決定に参加できるのである。投票とはそれほど尊い行為であるので、毎年選挙のタイミングになるとインスタグラムが「選挙に行こう!」という言葉で溢れかえる。
私はこのキャンペーンが大嫌いだ。
投票というアイコンは、自分の意見を国営に反映させるためのツールに過ぎないことを認識しなければならない。政治の根幹は議論することであり、あるべき社会について考える行為だ。「(特に自分の意見も無いけれど、政党や候補者のマニュフェストは知らなけれど、)投票に行こう!」を善とする同調圧力は、ポピュリズムの台頭を助長し、社会を衆愚政治に導く。
その本質を間違えなければ、暴露系Youtuberが当選するようなことは絶対に起こらなかった。私は昨夏、民主主義の限界を目の当たりにした気がした。
むろん、彼の当選を「選挙に行こうキャンペーン」のせいにするのは余りにも無謀な挑戦なのだが。。。
能のメガネで社会を見てみると、社会は少し違って見えるかもしれない。
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