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続.糸魚川の木地屋+α

「 山に生きた日々 」表紙のイラストより/写真が語る大所木地屋の暮らし

糸魚川の木地屋の暮らしぶりは今の時代には珍しくて、どうしても続編が書きたくなりました。また、かつて木曽の祖父母から聞いた話を思い出したので、併せて書いてみます。少しですが、理解が進むよう産地問屋についても触れていきます。参考資料は以下です。

木地屋会報第2集 山に生きた日々 写真が語る大所木地屋の暮らし        編集.発行 新潟県糸魚川市木地屋会  平成12年

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木地屋の一年

大正11年(1922年)ころの木地屋の暦です。今からちょうど100年前、糸魚川では木地屋の仕事が最も盛んだったころです。

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木地屋会報第2集 山に生きた日々 暦1月~6月(字が小さくてすみません。拡大してご覧ください。下の図も同様。)

季節の移り変わりに合わせた働き方をしています。雪に閉ざされている時期には、もっぱら木地挽きや塗物の仕事に従事。そして、地域や家庭での行事も大切にされています。合理的であり、今で言う「ワーク・ライフ・バランス」も取れているようです(?)。



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木地屋会報第2集 山に生きた日々 暦7月~12月

初夏から秋にかけては、木地取りのため山に入り、山菜取りや米作りさらに蚕も飼うなど、きっと目の回る忙しさだったでしょう。それでも、秋祭りは盛んで、集落では老人から子供まで元気な声が響き渡っていたのでしょう。

見てないことはつい美化しがちですが、山深く雪深い地で生き延びる知恵と工夫は並大抵ではなかったと思います。米作りや農作業により食料を確保し、木地挽きから塗物へ仕上げ販売し現金収入を確保する、それぞれの勤勉さに木地屋9軒の協力体制が伴い実現できた暮らしだったのでしょう。

けれども、戦争という国の方針には、抗えませんでした。時代の荒波は、積み上げてきた人々の知恵と工夫を破壊するほど過酷なのでしょう。

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木曽の木地師

糸魚川の暦を眺めていると、今では当然視される「一定の時間、一定の業務内容」という枠ではとても収まらない働き方です。そういえば、木曽の木地師もそれなりに柔軟に働いていたようです。

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木工ロクロ(軸)で木を挽いている祖父(手前)と父/ 昭和40年代後半

若いころ祖母は自宅の軒先を休憩所としてお茶を出し、街道を行く人にお盆などを販売していたと聞きました。私はその姿を見たことはありませんが、家には大きなガラス戸のついた製品を見せる飾り棚が残っていました。近所の木地師の家も軒先に大きな棚を置いていたので、同じような商売をしていたのでしょう。(今から100年以上昔の、人が徒歩で行き来した時代の名残りのような商売だったのかもしれません。)

とはいえ祖父はもっぱら名古屋の塗師屋の注文を受けて、木地を生産していました。父の場合は、主に名古屋の消費地問屋からの注文を受けていたようです。戦前まで塗物は国内の一大産業で、名古屋は大きな産地でした。そして、木地見本のみを送ってくる時もあれば、打ち合わせのため注文主が出向いてくる時もありました。また逆に、こちらから出向く時もありました。(残念ながら、詳しい内訳までは分かりません。ただ、父に連れられて名古屋の問屋について行ったのは、幼い頃の良い思い出の一つです。)

今思い出してみると、祖父も父も日曜日に休むということは無く、平日と同じように働いていました。ただ、3月と11月の*山の講には、仕事をしてはいけないということでした。その日に食べる山の講団子(前の記事で紹介した団子入りの汁粉)が楽しみだったのを覚えています。昔の人は考えられないほど良く働いていました。  

山の講(やまのこ) 初春と初冬の年に二回、山で働く人たちが山の神様へ捧げるお祭り。中部山岳地方での信仰が厚い。

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産地問屋

問屋という場合は、通常は消費地にある問屋を意味します。問屋は、製品の流通を円滑に進める役割を担っており、そのためメーカーに製品の注文をし一定量の在庫を持ちます。

一方で産地問屋は、製品製造のための産地事業者の取りまとめの役割を担っています。産地問屋があるのは産業規模の大きい地域であり、厳格な分業体制ができています。産地問屋は製品の企画開発まで行い、その生産を計画し下請けに指示管理しています。ところが糸魚川では9軒の少人数で、産地問屋の仕事までカバーしており、驚きを禁じえません。

漆器に限らず陶磁器でも、産地問屋の仕事があるようです。確かに一つ一つの製造工程においては、より完成度が高く効率的な仕事ができるのでしょう。また、産地問屋から半製品が提供されて自分の受け持ち範囲を仕上げていくので、元手が少なくても仕事に就きやすい仕組みでもあったのでしょう。ただし、目前の自分の仕事を十分こなしても、製品の全体像が見えにくいという弊害はあるようです。

原因は様々でしょうが、ここ十数年ほどで漆器の産地問屋は次々と姿を消しています。厳しい時代なので、県や町などには漆器作りを応援する施策もあるようです。また、作り手が生き延びるには基礎を固め幅広く仕事を見る姿勢が大切なのでは、という気もします。(私は若い時には弟子として塗師や木地師で働き、独立後は工芸ギャラリーで仕事を鍛えられてきました。)

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長い文をお読みいただき、有難うございました。つい書きたいことが増えます。伝統的な仕事ではその地域特性や歴史あるいは個人に深く根差すほど多様性が増し、一括りでは語りにくくなってしまうのです。

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