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仕事用の〇〇

職場の友人たちと一泊二日の旅行へ行った。
代表でホテルの予約を取るために名前と電話番号を教えてもらったのだが、返事の一つに見覚えのない名前があった。

『松田』? 松田って誰だ?
その疑問は下の名前を見てすぐに解消した。友人の一人が職場で名乗っている『佐藤』は旧姓で、返事に書かれた『松田』が彼女の本当の名前なのだった。

まったく知らなかった。『松田』。松田さん。ねぇ松田さん、このタスクって何日くらいかかりますかね? ……うーん。やっぱり変な感じだ。わたしにとって彼女は「佐藤さん」であり、「松田さん」との会話はコントのように嘘くさい。しかし彼女にとっては『佐藤』こそ「コント『社会人』」の役名なのかもしれない。


服、パソコン、車。その気になれば、なんでも「仕事用」と「プライベート用」に分けられる。
一年のうち三百五十日を眼鏡で過ごすわたしは、昨年メガネを二本買い足して「仕事用」「遊ぶ用」「家でゴロゴロするとき用」の三本に大きく分けた。

贅沢な気もしたが、身体は一つなのに……なんて言い出したら洋服だって同じだ。長時間かけても疲れにくくオフィスにも似合うメタルフレーム、カジュアルな印象の太めの黒縁、フレームと一体化した鼻あてのおかげで寝転がって本を読めるプラスチックフレーム。季節や気分に合わせて服装を変えるようにメガネを使い分けるのは名案だと思った。

圧倒的に出番が多いのは平日用のメタルフレームだが、メガネを使い分けるようになってから不思議な現象が発生した。洗面所でそのメガネを手に取ったときだけ、じわ〜と胃が重たくなるのだ。

一体どうしてしまったんだろう。フレームの冷たさが不快なのか。度がずれているのか(すべて同じ度なのでそれはおかしい)。レンズが汚れているのか。指紋を丁寧に拭き取っても異物感は消えない。諦めてあれこれ動き回ると、いつの間にか不快さは消える。それを数回繰り返して、ある恐ろしい仮説にたどり着いた。


もしかして「パブロフの犬」状態なのでは?
犬が食事時間を告げるベルを聞いてヨダレを垂らすように、仕事用メガネをかけた自分の顔を見て、胃が「うわっ、今から仕事か〜。あちゃ〜」とゴネているに違いない。土曜の朝にまちがえて仕事用メガネをかけた瞬間、胸か胃のあたりに黒いものがシュッと横切ったのも、これで辻褄が合ってしまった。

マズイ。こんなことで三本中一本のメガネが使えなくなってはたまらない。
土日でもあえて仕事用のメガネをかけたり、平日でもカジュアルな服装の時は休日用のメガネをかけるように意識した。それぞれのメガネに固定されたイメージを薄めて、仕事用メガネが連れてくる息苦しさとおさらばする作戦はそこそこ効果があった。



ホッとすると同時に、佐藤(松田)さんはどうしているのだろうと心配になる。

佐藤さんは、「佐藤さん」と仕事専用の名前を呼ばれるたびに心拍数がトトトッと早足になったり、緊張感がうっすら重ね塗りされたりはしないのだろうか。わたしはメガネを変えて気分転換できるが、佐藤さんはそうもいかない。

「今日はもう佐藤って呼ばれる気分じゃないから! 『松田』って呼んで! わたしは『松田』だ〜!」 
机に突っ伏してわぁわぁと泣く彼女を想像して、フフッと笑いが漏れる(注:実際の彼女は一度もそんなことをしていません)。



ありとあらゆる「仕事用」の中でも名前はやはり恐ろしい。
名前は無意識で作り出している人格や役割とあまりにも強く結びついている。わたしは会社でも本名を使っているが、「名字+さん」で呼ばれるとどうしても気が張る。意識してハキハキ返事をしたり、ゆっくり順序立てて説明したり、頼れるキャラクターを演じてしまう。

もし仕事用の名前を持っていたら、普段の自分と仕事の自分はますます乖離するだろう。土日は床に転がって、ホコリを吸いながらスマホをいじるダメ人間になる。仕事用の名前で呼ばれる平日には早々に限界が来て「その名前で呼ばないで〜!」とミーティング中に身体をねじって叫び出すはずだ。

仕事用の名前が無くて良かった。
そう思ったが、そういえばこの文章はペンネームで書いている。日常生活での出来事や感情を書くので、本名で過ごしているときの気持ちからあまり離れても良くない。そんな考えもあって「鮎川まき」という名前は、偽名といえどリアルな自分の要素を少しだけ含ませた。

普段は本名とペンネームの境界がかなり曖昧だが、『鮎川まき』の存在を強く感じて背筋が伸びる瞬間はある。イベントの申し込みでペンネームを書くとき、ペンネームであいさつするとき、そしてサインを求められたときだ。

わたしがサインなんてと思っていたが、その機会は唐突にやってきた。
イベントで手渡した本に「サインを貰えませんか?」と言われたのだ。正直に言うと、いつか求められるだろうと思っていた。でもアマチュアのくせにサインの準備なんて自意識過剰だし、恥ずかしいし……。つまり目をそらしていたのだ。「ただの署名ですが」と断った上で名前を書かせていただくことにした。

ところが裏表紙を開いた瞬間、脳内で「鮎」の文字に霧がかかる。あれ、魚へんの右側ってなんだっけ。「由」? 「占」? 自信が持てず、テーブルに積まれた既刊を盗み見してサインを書いた。情けない。自分で決めた名前だろう。
 
もっと『鮎川まき』とお近づきにならねば。
そのためには『鮎川まき』として過ごす時間を伸ばすべきだが、これは仕事用メガネを使い込むのとはまったく話が違う。

松田さんの中で『佐藤』としての時間が一日の三分の一を占めるように『鮎川まき』で過ごす時間を伸ばせば、わたしや他者の中で『鮎川』としての記憶と人格が着実に積み上がっていくのだ。これはインターネット上だろうとリアルだろうと関係ない。自分と同じ顔と身体を持った、新しい人間を作り出すような背徳感がある。

『佐藤』と『鮎川』に差があるとすれば、給料に紐づかない『鮎川』の名は、嫌になったら比較的捨てやすい点だろう。しかしそれは今のところ考えてない。一年未満とはいえ『鮎川まき』としての時間をそこそこ楽しく過ごしているからだ。



佐藤さん、いや、松田さん。 『佐藤』としてのあなたは重要な仕事を任されるだけの知識があり、経験豊かなのに物腰も穏やかで、尊敬できる同僚です。
あなたのことを知っているけれど、あなたが知らない『鮎川まき』も、あなたのように親しまれる人でいたいと思います。


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