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地図の会の活動報告と発表内容

2024(令和6)年

5/6 

4/7  震災記念文集 東京市立小学校児童尋常2年~6年のうち下谷区根岸尋常小学校の児童の作文を読む(東京市学務課編 培風館 大正13年)

発表者:小川宗也
このところあちこちで地震が頻発していることを受けて、関東大震災を根岸小の児童の作文で振り返る。年代が上がるにつれて、生々しい自分の体験を記述するのではなく、世界の人に誇れる東京再建への誓いといった内容になってゆく。
   第2学年男 尾崎太郎(大ぢしん)
   第2学年女 浅井ヤスエ(九月一日ノコト)
   第3学年男 石井善三(東京市復興)
   第3学年女 小柴 芳(悪魔の相談)
   第4学年男 安本正二(九月一日 房州で)
   第4学年女 清水道子(東京市の復興と我等のかくご)
   第5学年男 關 秀則(大正十二年九月一日)
   第5学年女 斯波純子(復興の新年)
   第6学年男 木村桂太郎(帝都復興ニツイテ)
   第6学年女 花木艶子(震災後の覚悟)

3/3  正岡子規俳句短冊プロジェクトの今後の進め方について
  このプロジェクトを通じてコミュニティー作りを図る
<役割分担>
・A 短冊をつくる人(地図の会)
・B 短冊をはってもらうように依頼する人(地図の会)
・C Bとともに動いてくれる仲介者(町会、PTA、子規庵など)
・D 短冊を貼ることをOKしてくれる人(地元の人)
・E 短冊を実際に貼る人(地図の会 or D)
・F 短冊を見てプロジェクトに気が付く人(地域住民、通りがかりの人)
<短冊の形状>
・短冊の下にQRコードをつけて、根岸子規会の説明にたどり着けるように
・子規の横顔写真をアイコンにする
<助成金が得られないか模索>
・活動を形にするための締切ができる

国立国会図書館での「下谷区根岸」を検索すると
 1154件が引っかかり、506件はログインなしで閲覧可能。その資料の一部紹介(根岸土商・根岸土屋 江川喜兵衛 下谷区下根岸69 という記述を「東京姓名録」瀬川甚太郎編 明治33年10 月刊 の252コマ目に発見)

2/4 上根岸の正岡子規俳句短冊捜索(午前)の結果共有と2/23の中根岸・下根岸調査の準備
 15カ所23枚の所在を確認。

1/14 正岡子規俳句短冊プロジェクトのこれまでの歩みを整理
第1回貼り付け 2005年 根岸全域
第2回貼り付け 2010年 根岸2丁目に集中貼り付け

2023(令和5)年

12/3 納会(東日暮里6丁目 万年)
焼き茄子のムース、若鶏としめじのテリーヌ、とんぶりととびこ、ディルのマヨネーズと豆乳のソース、リッツ
刺身(鯨、金目、鱧、熟成ぶり)
自家製ロースハムとだし巻ブルスケッタ
手羽のフリッタ、キャベツとアーモンドのゴルゴンゾーラ
牛のももステーキ、パセリのソース、わさび添え
新物のセリとつみれ煮
蟹と鳥だしのあおさとみつば汁
鯛としめじの炊き込みごはん
ミルクゼリー

11/5  奥村氏資料と聞きとり調査の振り返り
・聞きとり調査実施済
 柳生くみ(上根岸 薬師堂)金森氏テープあり
 小浜フサ子(魚歌)
 小林氏(三河屋)
 山川はるこ(魚歌入ったところの塾)
 山田隆雄(中根岸 家具屋)
 内島キミ(下谷 駄菓子屋)
 阿部恒三、恵子(東日暮里 ポンプ屋)
・今後の実施予定

10/1大槻三代ファミリーヒストリー一関市博物館 記念特別展より

発表者:清水ますみ
大槻家の関連資料4048点が国の重要文化財に指定されたことを受けての大槻家三代、玄沢、玄幹、磐渓、文彦、如電の回顧展。その展示から根岸と関連することをピックアップ。
第一春光堂の写真、根岸(御院殿)大槻邸展覧会写真、森林太郎書簡、三浦乾也作 爵、牧野富太郎書簡、牧野富太郎の「大言海」と文彦批判。
牧野富太郎は御隠殿(村岡という人の離れ屋)に1888(明治21)年10月から1892(明治25)年まで暮らし、麹町に居を移した(ただし明治24~25年は高知に滞在)。大槻文彦は、仙台市から御隠殿(上根岸110)に1895(明治28)年4月18日に移り住み、1901(明治34)年8月9日に新居の雨松軒に移るまで住む。それゆえ2人は同じタイミングで御隠殿で暮らすことはなく、直接会うことはなかった。
大槻家の8つの特徴
1.一族が仲良し、助け合う
2.故郷(仙台、一関)びいき
3.子供の教育に熱心
4.家訓を子孫にしっかり伝授し、歴代で守る
5.いっぱい書く(膨大な著作物)
6.新しもの好き
7.収集癖 きちんと保存する
8.記録魔
大槻玄沢肖像の軸は、根岸及近傍図の作りを彷彿とさせる解説付きの軸である。

9/3 それはかつてあって 日暮里、根岸の住人が書きとめた関東大震災 染川藍泉「震災日誌」と水島爾保布「愚漫大人見聞録」を読む


発表者:李栄恵
染川藍泉さんは日暮里町谷中本(現在の東日暮里6丁目)在住。京橋区木挽町(現在の銀座8丁目)の十五銀行本店の庶務課長として勤務中に震災に遭う。地震から12時間後、夜11時半に避難先の浜離宮庭園内で銀行本店が焼失したことを知り「銀行の焼失。全く世界の終末だと私は更に思った。銀行が焼けると云うことは、未だ嘗て聞かざるところであった」とショックを受ける。2日の朝、銀行に戻って焼け跡を確認してから家族のいる日暮里へ向かい帰途につく。上野広小路から公園の広場、動物園前から美術学校の門前を通り、谷中の大通りから、警察前、茶屋町、谷中墓地、天王寺門前まできて、ゴザを持って避難してきた家族たちと会い、家族とともに家へ。書架と書棚が倒れたくらいでたいした損害もなかった。茶の間におさまると急に空腹を感じて、とっておきの仏蘭西直輸入という数日前に買いいれた葡萄酒の栓を抜いて飲んだ。一息ついた染川さんは、余震の倒壊や火災の恐れがあるので、家族とともに付近の野外へ避難することにし、日暮里駅の脇の乞食坂の踏切近くの軌条の中の砂利の上に陣取った。
そこに朝鮮人が爆弾を投じているという不安な噂が届くが、こんな災害時に爆弾など用意できるわけがないと聞き流した。それは包装した樽や缶が火事場で破裂する音だと確信した。その後、上野駅は焼失し、鶯谷駅から日暮里駅、田端駅に至るまでの線路上には多くの避難民が集まったが、火災は坂本で鎮火したとの報を受け、安心して夜寝ていたところ、青年団が「井戸の中に劇薬が入れてあるから気をつけろ」と触れ回り始め、途端に家が心配になった染川さんは家族とともに自宅に戻って、2日の夜を過ごした。
3日朝、染川さんは自宅の日暮里から職場の木挽町焼け跡そして丸の内支店に行くことにし、紅葉坂の踏切から線路伝いに鶯谷へ歩き、そこから上野公園に上がって西郷隆盛像のところまできた。2日夜には上野公園にまで火が来ており、常盤花壇の建物は焼失、付近の樹々も赤く焼け、彰義隊の碑を守る番人の小家もなくなっていた。2日午前中に見た上野広小路の街並みは松坂屋を始め目を遮るものはなにもなく、日本橋三越の焼けた建物まで見渡せた。
上野公園出口の広場では、一人の肥えた浴衣を着た男を、大勢の人たちが「朝鮮人だ」「巡査に渡さずに撲り殺してしまえ」と彼の頭や顔を棒で打ち据えていた。染川さんも、不逞鮮人をステッキで打ちすえてやろうと駆け寄ったが、自分も朝鮮人だと勘違いされたらかなわないと、やめた。そこに中銃を持った警備の兵士がきて、その男を引き立てていった(注:東京市は2日に戒厳令が発令され、軍隊が治安にあたっていた)。
3日の夜の帰りには、黒門町で自衛団に誰何され、美術学校前を通って谷中の通りに出るところでも縄をはって誰何しており、さらに墓地のあたりでも抜刀した若者が待ち構えていて検問していた。紅葉坂の下り口にきてようやくほっとした。

8/6 納涼会(東日暮里6丁目 万年)
新玉ねぎのムース
刺身(鯛、カツオ、釣り鯵)
かぶの肉巻き、ウニのソース和え
鮎の塩焼き
鴨(山椒和え)とゴボウとトウモロコシの揚げ物
牛もも肉にパセリのソース、マッシュポテト
新生姜の炊き込みご飯
あおさの味噌汁
ミルクゼリー

7/9 根岸近傍図の文字情報解説点検 #229 たぬき横丁 今うぐいす横丁~#250 元三島社(総点検終了)
前田利嗣(加賀前田家15代当主)はなぜ根岸の地に邸宅を設けたのか?
大槻文彦と陸羯南の関係は?

6/4 根岸近傍図の文字情報解説点検 #223 ウグイスハシ~#228八石教会

2009年5月3日に実施した山田隆雄氏(中根岸)の聞き取り調査の読み合わせ

5/7 根岸近傍図の文字情報解説点検 #217 ささのゆき横丁~#222ミコシグラ
御隠殿跡に住んだ牧野富太郎は、いつからいつまで暮らしたのか?
東叡山は寛永寺、南叡山は京都三十三間堂の御本坊妙法寺。では西叡山と北叡山はどこ?

4/2 根岸近傍図の文字情報解説点検 #201中新田~#216ソバヤ
和敬会十六羅漢と集古会との関係は?
国際理容美容専門学校初代校長 松村重貴智氏の臨終の場でなにがあったか?

3/5 論文 東京下谷根岸及近傍図:明治後期における「コミュニティ・マッピング」の象徴性の報告 & 「小柴ファミリー」と明治後期の石版事情について


発表者:潘夢斐
「根岸及近傍図」を発行した小柴英侍とその父小柴英、弟小柴錦侍小柴英(1858-1937)石版印刷の創始者ともいわれる(日本美術年鑑)。湯島に生まれ、家業は酒造業。1883年ころ神田東松下町16番地に小柴印刷所(有聲堂)を開業。1885年の「石版技手人名鏡」には客席扱いで名前が出ている(牧野富太郎が石版を教わった太田義二は前頭に名前がみえる)。1911年「日本名園図譜」著者本多錦吉郎では発行者小柴英、発行所林平次郎(近傍図の売捌所と同名。六合館館主。大槻文彦「言海」版元)、図画印刷所小柴製版印刷所となっている。
もろもろの検証の結果、根岸及近傍図は石版により印刷されたと考えるのが妥当である。

2/5 久保田米僊について(人物誌を中心に)

発表者:中條唯男
人物誌の記述を確認しながら、その生涯を見る。

1/15 根岸近傍図の文字情報解説点検 #176上野ステーションへ~#200日暮里村大字金杉
1883年7月26日に小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、伏見宮貞愛親王の3兄弟が上野駅から熊谷駅までの試運転の汽車に乗車した。この3人の関係は?
日暮里村(日暮里町)の番地の付け方について なぜ1番地から133番地までがないのか?

2022(令和4)年

12/11 根岸近傍図の文字情報解説点検 #172 鉄道~#175カウバン
日本鉄道創始者の一人、白杉政愛の愛犬と根岸の犬の王様マルをめぐる物語(愚談~水島爾保布より)

11/6 ファウンダー奥村雅夫氏の逝去を悼む(奥村さんがいなければ、我々は出会うこともなく、こうして席を同じくすることはなかった)
根岸近傍図の文字情報解説点検 #163さくら川~#171鶯渓医院

10/2 根岸近傍図の文字情報解説点検 #154帝国博物館構内~#162したでら通

9/11 根岸及近傍図は、どのように印刷されたのか?(その2)

発表者:小川宗也
その後のDNPのSさんとのやりとりと日本地図センターのOさんの見解
「結論として、この地図は石版で印刷されている。今のオフセットの原型で、インクのつくところは水をはじく親油性になっており、それ以外の部分は親水性となっている。石の版に、おそらく手書きの原稿を転写させて製版したと思われる。明治18年ごろには大日本印刷の製版部門は、現在の国土地理院、当時の陸軍測量局から石版の技術指導を受けており、当時の地図は石版の印刷が一般的だったのかもしれない。また近傍図の欄外にかかれている印刷者は"小柴英侍"で、彼は日本における石版印刷の創始者"小柴英"の長男であり、石版技術の後継者だった」
根岸近傍図の文字情報解説点検 #145大猷院霊屋アト~#153二天門アト。

8/7  根岸及近傍図は、どのように印刷されたのか?(その1)

発表者:小川宗也
DNPのSさんとのやりとりの報告。
Sさんの個人的な見解として「基本的にすべて木版(手彫り)での印刷で、墨一色なので一版で済ましているのでは。枠内の番地の数字が活字のようにも見えるが活字はこのようなランダムの印字には向いておらず、右下のテキストも活字のように見えますが、行間を見ても活字の組版ではない。右の行の文字が左の行にぶつかりそうになっており、金属活字ではありえない。
地図の線部分や地図内の文字については、精密な表現が得意な凹版、例えば木口木版ではないかと思う。へこんだ部分にインクを入れて刷る方法です。そして楷書の文字も木口彫り。左下の文字のブロックは凸版かもしれないが、金属活版ではなく、木凸版ではないか」
根岸近傍図の文字情報解説点検 #135明浄院~#144第一霊屋。

7/10 根岸及近傍図には一体、何種類の活字と手書き文字が使われているのか?

発表者:小田三千子
左下の文字と、上段、右下の文は、同じ人と字と思われる。大槻文彦の手書きの文字をそのまま刻したのでは。
地図中のかなは、印刷したものにいくつか手で書き加えたのではと思われる(市川任三先生も、「うしろや」「西のまつ」は書き加えを指摘している)
ただ、地図中のかなと解説文は異なる人の文字だと思う。
地図中で、売っているものを書いてある箇所は2カ所ある「岡埜の汁粉」と「煮山椒」。そこでは、この地図も売っていたのだろう。一体いくらだったんだろう。
根岸近傍図の文字情報解説点検 #132本覚院~#134浄名院。
1648年に完成した天海版一切経(木活字)と1681年に完成した鉄眼版一切経(木版木)についての雑談。木活字は寛永寺に現在も保管されており、その数26万個。木版木は京都宇治市萬福寺に保管されており、その数4万8275枚。

6/5 根岸近傍図の文字情報解説点検 #113天王寺~#131 常照院

5/15 子規「夏の夜の音」を読む

発表者:李栄恵
明治32年7月12日の午後8時から深夜にかけて、下谷区上根岸82番地で正岡子規が耳にした音は。その音の内容を解説。
日本鉄道の汽車/母は買物にとて坂本へ/支那のチャンチャン坊主/南東の木戸/灯籠とみそ萩/今年は阪本の町が広くなって/籠の鶉/新聞の配達人/動物園のうなり声
おまけで「夏の朝の音」明治34年6月6日深夜から翌朝方までの「墨汁一滴」の文章にも言及。

4/10 根岸近傍図の文字情報解説点検 #100王子田端道~#112芋坂

3/6 根岸近傍図の文字情報解説点検 #85世尊寺~#91清正公

2021(令和3)年

12/12 例会&納会(温気瑠)
11/7 林丈二さんとの街歩き、小泉邸見学
10/3 例会
8/8 林丈二さんの明治の小新聞に登場する根岸(SOOO dramatic!)
7/11 林丈二さんの鶯谷120年の歴史トーク(ランダバウトホテル)
4/11 例会

2020(令和2)年

12/13

11/8 渋沢栄一のイントロダクション

発表者:中條唯男
渋沢栄一略年譜と渋沢一族略系図を片手に、渋沢秀雄著「渋沢栄一」を読み解く。生まれから戊辰戦争まで。

10/11 香道と根岸 御家流水上妙秀尼

発表者:小川宗也
ある方からのメールで、御家流霽月会の20代目水上妙秀尼は御行の松の近くに維新後住んでいたという証言があり、茶道だけでなく香道も根岸にゆかりがあるのかと、調べてみた香道の世界。

7/12 渋沢栄一の旧飛鳥山邸をめぐる話

発表者:神保乃倫子
元家臣として栄一は、静岡での蟄居中も慶喜に会い、経済面での相談にのったりしていた。
栄一は深川福住町に本邸を設け(現在の渋沢倉庫)明治12年より将軍家ゆかりの飛鳥山に別邸をつくり
徐々に敷地を買い増していった。明治31年には飛鳥山の8000坪の敷地に本邸を作り始め
その茶室「無心庵」は、和館洋館より1年半早く明治32年に完成したが、その建築にあたっては
益田克徳、柏木貨一郎、松本幾次郎、清水組、木村清兵衛といった根岸に縁がある人々が協力した。

慶喜は渋沢に招かれ、午前中に王子製紙を視察し、昼からは飛鳥山の茶室披きに参加した。
そこに同席したのは、井上馨、慶喜の家扶、渋沢栄一、お点前は益田克徳だった。

この時、茶室脇の眺望台から眺めた風景はいかばかりだったであろうか。

6/14

2/9 テーマ:令和の根岸のキーワードの選定作業

▼大槻図に掲載されていて、令和図にも残すべきキーワード
御行の松、円光寺、石神井用水(音無川)、笹の雪、御隠殿跡(大石橋、防災用根岸職員住宅)
善性寺、団子や(羽二重団子)、石稲荷社、世尊寺、西蔵院、根岸小学校(幼稚園)
鶯谷(ホテル街)、元三島神社

▼新たに掲載を検討すべきキーワード
地獄谷、防災広場根岸の里(下谷病院)、金曽木小、金杉通り、竹隆庵岡埜、海老屋(染物)
香味屋、竹台高校(吉田別邸)、神愛教会、リーデンスタワー(水鶏橋、同潤会アパート)
三平堂(林家一門)、子規庵、書道博、八二神社、鶯谷駅、カフェド花家、温気瑠
鍵屋(居酒屋、文房具屋)、萩の湯、旧陸奥宗光邸(長谷川武次郎、ちりめん本)
うぐいす通り、石川九楊、華学園栄養専門学校、国際理容美容専門学校
三業地(見番跡)、薬師堂、大槻旧邸あと、

◆掲載するには時期尚早なキーワード
高勢、デン、ビクトリア、キネマ倶楽部、ささのや、信濃路
そら塾、まちあかり社、手児奈せんべい

ただ、もっと「大槻図」によりそったものを目指すべきで
令和色は必要ない、もしくは薄めるべきとの意見もあり
継続的に相談することになる。

その後、新型コロナウイルスの影響で、3月、4月例会は休会

1/19 テーマ:「 令和版 根岸及近傍図」のイメージは?

① 今の大槻図をベースにする。120年経って、分からないことも多くなっているので、そこに出てくるワードに注釈をつけて2100年になっても
地図を読み解けるようにしておく。
大槻図を重版する際に、裏に細かい注釈を印刷をする。

②大槻図の模倣(オマージュ)
大槻図で40のキーワードを欄外解説しているが
令和図でもいまホットな40のキーワードをピックアップして解説する。

令和版はビニールに印刷することで、それを大槻図の上におけば
透けて両方が対比できるようにというアイデアも。

次回は、令和の今、解説すべき40のキーワードの候補を全員で出す。

2019(平成31/令和元)年

12/8 納会(ア・ポワン 龍泉1丁目)&さざん花や 根岸たづぬる 革ふばこ ~「革ふばこ」とは何か

発表者:神保乃倫子
根岸を詠んだ酒井抱一の句「さざん花や 根岸たづぬる 革ふばこ」。
酒井抱一の出身の姫路には革細工の伝統があります。
姫路の革は「白鞣(しろなめし)」といわれて、皮を特殊な技術で真っ白にさらすことが出来、
その技術は江戸中期には確立していた。そのころ姫路藩に入ったのが、抱一の祖父にあたる
酒井忠恭(ただすみ 1710-1772)。「白鞣」の技術を藩の統制下におき、江戸後期までは
姫路の革細工は全国的に需要があった。

革ふばこ(革文箱)は「革文庫」ともいい手紙類を入れておく文庫箱に革細工の装飾を張り付けたもので
いまも姫路の工芸品「姫革細工」として製品化されている。
抱一は革ふばこを句に織り込むことで、自分の出身地の姫路とさりげなく関連付けようとしたのかもしれない。

11/10 今後の「根岸の地図の会」方針検討会

① 2019年に地図を読む会で行ったこと

1) 【1999~直近までのことをブログに掲載】→公開中!!
これまでの発表分も含めて、発表分をアーカイブ化し、WEBで公開する。情報も適宜充実させる。

2) 「根岸及近傍図」の解説文の決定版を全員でつくり、完成した際にはWEB上で公開→本文は終了。
【継続実施】2020年以降は地図の文字情報をチェック。会の前に予習して、補記が必要な部分等を検討する。

④ 2020年に地図の会 でやりたいなあと思っていること

1)【着手】「根岸及近傍図」完成から、2020年は120年のメモリアルイヤーなので、「令和版 根岸近傍図」をつくる。
A) 大槻図をベースにし、そこに出てくるワードを令和の時点での注釈を付け加えて、22世紀の地図の会の人たちが大槻図を難なく読みとけるようにしておく

B)令和で40の項目を選んで解説文をつくる
レイヤーを重ねて、紙に印刷(重ね地図みたいに)。紙で時を超える。図書館等に寄贈し、販売も。

2)【未進行】Web上に根岸文庫をつくる 根岸ブックアーカイブ(NBA)
今までみんなが発表で参考にした文献や資料をリストにして、コメントもつけて著者や書名で検索できるアーカイブにしていく。
根岸をメインテーマにした本でなくても、興味深い記述が少しでもあれば入れていく。

3)【やりかたを検討】時間軸は無視し根岸の地図に「著名人」の住まいを羅列し「根岸ゆかりの著名人地図」をつくる。

4)【量産体制を検討】鶯笛を鶯谷の名物として売り出す。部材の調達と作成マニュアルの作成。メンバーが内職。1個300円くらい?

10/13  東京大空襲「助けてくれた消防隊」/「根岸」「岡倉覚三氏の思い出(九鬼周造随筆集より)

担当:熊井貴子
参考文献
読売新聞 昭和52年12月8日 東京大空襲「助けてくれた消防隊」より
台東区町会区域図 発行 台東区役所区民都区民課(平成26年度)
九鬼周造随筆集 岩波書店(1991年9月刊)

大空襲「助けてくれた消防隊」下町っ子の意気 32年目の恩返し
昭和52年12月8日付
東京大空襲の猛火の中、消防署員の決死の消火活動のおかげでやっとの思いで難を逃れた町の人たちが、きょう8日、当時の「町の恩人」と32年ぶりに対面、上野池之端の料理屋で小さな会合を開く。当時の警視庁消防署板橋消防署板橋大隊第一中隊の隊員7人と台東区下谷東町会(当時下谷区金杉一丁目町会)の人たち。

担当:熊井貴子
参考文献
読売新聞 昭和52年12月8日 東京大空襲「助けてくれた消防隊」より
台東区町会区域図 発行 台東区役所区民都区民課(平成26年度)
九鬼周造随筆集 岩波書店(1991年9月刊)

大空襲「助けてくれた消防隊」下町っ子の意気 32年目の恩返し
昭和52年12月8日付
東京大空襲の猛火の中、消防署員の決死の消火活動のおかげでやっとの思いで難を逃れた町の人たちが、きょう8日、当時の「町の恩人」と32年ぶりに対面、上野池之端の料理屋で小さな会合を開く。当時の警視庁消防署板橋消防署板橋大隊第一中隊の隊員7人と台東区下谷東町会(当時下谷区金杉一丁目町会)の人たち。

2019年10月13日の発表 担当:熊井貴子
参考文献
読売新聞 昭和52年12月8日 東京大空襲「助けてくれた消防隊」より
台東区町会区域図 発行 台東区役所区民都区民課(平成26年度)
九鬼周造随筆集 岩波書店(1991年9月刊)

大空襲「助けてくれた消防隊」下町っ子の意気 32年目の恩返し
昭和52年12月8日付
東京大空襲の猛火の中、消防署員の決死の消火活動のおかげでやっとの思いで難を逃れた町の人たちが、きょう8日、当時の「町の恩人」と32年ぶりに対面、上野池之端の料理屋で小さな会合を開く。当時の警視庁消防署板橋消防署板橋大隊第一中隊の隊員7人と台東区下谷東町会(当時下谷区金杉一丁目町会)の人たち。


9/8 根岸鶯啼き合わせ会の実態を探る

担当:神保乃倫子
参考文献
根岸倶楽部 「根岸及近傍」 昭和58
根岸小学校開校百十年新校舎落成記念 「実録根岸鶯啼合せ会絵図」絵 薬剤師 福田亀之助 文章 立正大学教授 市川任三

初音里鶯之記 碑文の裏には嘉永2(1849)年3月の鶯之名寄ということで67件65羽の鶯の番付が刻まれている。
地元初音の里の鶯は、京育(初音里 木村)、北庭楽(初音里 鶯生軒)、梶原(初音里 梅のや)の3羽。梅のやはこの梅園を経営していた小泉富右衛門であると思われる。
三味線屋「菊岡三絃店」(根岸3-12-12)の故堀江新次氏(1911-)の思い出によれば、その父堀江栄吉氏は愛鳥家で大正5(1916)年ころから毎年鶯を根岸の啼合会に出陳していた。新次氏は家の手伝いとして鶯の世話と三つ音の発声練習に腐心した。
啼合会は毎年4月5日ごろ開催されていた。一軒の家の座敷を拝借し、鶯を入れた籠を鴨居の角に板を渡した上に載せて、やや暗くする。客は物音を立てずに座敷に入り鶯の鳴くのを待ち、声に耳を傾けて審査をした。
軒先などに籠をつるし審査するのは、これと系統が違い、藪である。
8/4

7/7 ちりめん本をめぐる人間関係 大槻文彦、長谷川武次郎、陸奥宗光とシカゴ万国宗教会議

担当:清水ますみ
参考文献
まち歩きジャーナル 14号「ちりめん本が出版された場所」 清水ますみ

大槻文彦は、日本で最初の近代的な普通語辞典「言海」を上根岸の家で編纂した。その兄、如電は根岸小学校の校歌の作詞をしたと書いてある文献もある。いまの根岸小学校の校歌の歌詞は佐々木信綱が書いているので、その前の校歌があったのか?

大槻文彦は英語を、ダビッド・タムソンという宣教師し横浜で慶応3(1867)年に習っているが、長谷川武次郎もタムソンに明治3(1870)年に築地で英語を習っている。

明治26年に開催されたシカゴ万国博覧会および万国宗教会議の総括責任者は、当時農商相だった陸奥宗光。陸奥の父(伊達宗広)の禅の先生は円覚寺の今北洪川禅師だったが、その高弟の釈宗演禅師は万国宗教会議の日本代表だった。その釈の弟子が鈴木大拙。大拙は万国宗教会議のスピーチを英訳し、その後渡米して、万国宗教会議のアメリカの評議員で事務局を務めたポール・ケイラスの会社に12年勤めた。
一方、長谷川武次郎はシカゴ万博に出品。その後明治28~31年までにポール・ケイラス訳のちりめん本「カルマ」と「ニルヴァーナ」の2点を武次郎は出版し、ポール・ケイラス著/釈宗演校閲/鈴木大拙訳の本「因果の小車」という本も出版している。

長谷川武次郎のちりめん本の日本昔噺シリーズで14諞も英訳しているジェイムス夫人が暮らした麻布の家は、「陸奥宗光の住まいだった」とジェイムス夫人の娘で児童文学作家のグレイスが証言している。これは陸奥が根岸の家から引っ越して暮らした六本木の家のことと思われる。そして長谷川も陸奥の根岸の家に住んだ。

以上のことから、陸奥宗光と長谷川武次郎はなんらかの形で知り合いだったのではと思われるし、長谷川は大槻ともなんらかの接点があったのではと思われる。直接の証拠が待たれる。

6/9  寅彦の明治32年と昭和9年の上根岸訪問記から読む変わったもの、変わらないもの

担当:李栄恵
参考文献
根岸庵を訪う記 寺田寅彦 (明治32)
墨汁一滴 正岡子規
追憶記 森田義郎
根岸の里 河合勇 (昭和42年 八木書店)
子規遺墨 (昭和50年 求龍堂)
子規自筆の根岸地図 寺田寅彦

明治32(1899)年9月、寺田寅彦は漱石の紹介で初めて子規を訪問しました。この年、熊本五高を卒業して東京帝大理科大学に入学したばかりの21歳。寅彦は明治35年の子規の葬儀にも参列していますが、この年は寅彦自身もうら若い妻に先立たれる心痛の年でした。
子規没後は上根岸に来ることもなくなった寅彦。再婚、漱石の死、二度目の妻の死、子供たちの成長などを経て、昭和9年、30数年ぶりに子規庵を再訪します。そしてその翌年、寅彦自身も57歳で亡くなりました。
初訪問の一部始終は「根岸庵を訪うの記」に克明に記されています。昭和9年の再訪は「子規自筆の根岸地図」にかかれています。明治後期と昭和初期、そして現代。何が変わり、何が変わらないままであるのか。

博物館の横手大猷院尊前と刻した石燈籠(いまも数基あるが殆どは散逸)
新坂の三番と掛札した踏切(いま凌雲橋はJRと立体交差している)

明治期の寅彦は、根岸でつくつくほうし、鳥の鳴き声、蒸気機関車の轟音、踏切
昭和期の寅彦は、根岸でラジオドラマの音、新しい駅(寛永寺坂駅)、跨線橋を目に耳にする

浅井忠が東京から京都に移った際、その家を譲ったのは隣家の河合辰五郎(凸版印刷初代社長)である。浅井の家の方は、洋画家の本田錦吉郎に貸し出され、、さらにその後寒川鼠骨が住んだ。

5/19「初音里鶯之記」碑について

担当:神保乃倫子
参考文献
「根岸乃近傍」第二輯 根岸の金石 市川任三(昭和58年)
「台東区の文化財 第3集」(平成10年)

1700年初めに京都の鶯が多く放たれて鶯の名所として知られるようになった根岸。鶯といえば梅という流れで、天保14(1843)年に小泉富右衛門は梅園「根岸新梅屋敷」をオープンさせた。弘化2(1845)年に将軍世嗣家定が梅園を通り抜けを行い、そのころから鶯啼合会が根岸で始まる。そんななか嘉永2(1849)年3月に「初音里鶯之記」碑が造立された。しかし安政3~文久年間(1857~64)には廃れたようで、開園期間は20年足らずだったようだ。その後明治になり、明治18(1885)年ころに根岸での鶯啼合会が復活し、関東大震災までつづいていた。

4/14 吉村昭「戦前の面影をたずねて」の浅尾払雲堂の場面

担当:中條唯男
参考文献
吉村昭「東京の下町」その18 戦前の面影をたずねて
朝日新聞 2018年12月14日 夕刊 「街の十八番~浅尾拂雲堂@上野」
浅尾拂雲堂から入手した「谷中の芸術文化著名人見聞記」という手製の地図および居住者名簿

2017年10月8日の発表の続編。「戦前の面影をたずねて」に登場する画材店の浅尾払雲堂を深掘りする。
吉村昭がこの取材をしたのは1985(昭和60)年1月と推定される。
この時その場にいたのは、吉村昭(当時61歳 1927-2006)、店主 浅尾丁策(当時80歳 1908-2000)、若い人 浅尾空人(当時50歳 1938-)。発表者の中條氏は、実際に浅尾払雲堂を訪ねた。いま店には80歳になった浅尾空人さんが4代目店主となり、その次男朋次さんら職人3人が額縁を作成しているとのこと。
「戦前の面影をたずねて」の際に吉村昭が手にした谷中・日暮里略図は現存しないようだが、その代わりに「谷中の芸術文化著名人見聞記」という手製の地図および居住者名簿をお店で頂戴し、みんなでこの地図を鑑賞した。

3/10 根岸人物誌の市川白猿って何代目の団十郎?

担当:小田三千子
参考文献
根岸人物誌 巻之一の20「市川白猿」
市川團十郎の代々 伊原青々園・著 (市川宗家) 大正6年
蛛乃糸巻 下 山東菴稿本 弘化3年 (国立国会図書館蔵)
市川團十郎代々 服部幸雄 (講談社)

根岸人物誌の記述によれば「五代目」であることは間違いない。ただ、根岸及近傍図でも人物誌でも紹介されている白猿の「猿猴の手よりも長き藤の花」の句を「市川白猿集」「友なし猿」「徒然吾妻詞」「今日歌白猿一首」では見つけられなかった。どの本に出てくるのか現状不明。
また、笹の雪には白猿筆の「その中に白いもみじや新豆腐」という掛け軸があるとのこと。近日確認する予定です。

2/11 川口善光寺に遊ぶ記~「江戸近郊道しるべ」より

担当:桜井瑞雄
参考資料
「江戸近郊道しるべ」 編注者 朝倉治彦 平凡社(1985)
「江戸近郊ウォーク」 訳者  安部孝嗣 小学館(1999)
地図(略図) 国立国会図書館 デジタルコレクション

「江戸近郊道しるべ」の著者の村尾正康(号 嘉陵)は、清水家の御広敷用人で、彼が1807年から1834年(47歳から74歳)にかけて江戸郊外を旅した記録を後世まとめたもである。「江戸近郊道しるべ」には自筆本と2種類の写本があり、題名は国会本の写本は「四方の道草」、内閣本の写本は「嘉陵紀行」となっており、自筆本にはタイトルはない。
嘉陵が歩いて記録した範囲は「江戸名所図絵」(1834-1836)の記録と重なり、時期は「新編武蔵風土記」編纂のため昌平坂学問所が「豊島郡絵図」を収集していたころ(1804-1829)に重なる。

「川口善光寺に遊ぶ記」は1819(文政2)年閏4月17日の旅行の記録。坂本町を出発し川口の善光寺に行き、王子に戻ってくるまでを雑文と地図で記している。

根岸近辺を通過する際の記述は現代語訳すると以下の通り。()内は訳注。

「坂本町(いまの台東区下谷一丁目)を西に折れて、細い流れ(音無川)に沿ってちょっといくと、時雨ヶ岡不動尊(台東区根岸3丁目 いまの御行の松不動尊)。瓦のふいたお堂の前に大きな松が一本ある【原注:この松は御行の松という名である。考えるに、地元のものが水垢離をしてお不動さんを拝み、行をなしたからそういう名になったのか】。二丈(6m)あまり伸びて、枝も四方に広がり、幹の太さは二囲半(二抱え半:3m70cmくらい)ある。

しばしとて木の下かげに立よれば 夏もしぐるる 岡の松風

お堂の前の道の片側に、茶店が2軒あり美しく、休息するによい。さらにいくと日光御門主のお構え(根岸御隠殿)があり、ご門の前に松が植えてあって、とても神々しい。御本坊(東叡山寛永寺)からお庭を通ってここに入ってこられる道があると聞いた。ここに藤堂和泉守(藤堂高虎)の屋敷がある。この辺りはどことなく閑静なところで、浮世の外に住む身だったらいいのになあ、と思ったりもする」

付属する地図で根岸に絡むところにはこんな記述がみられる。
・(音無川のところで)この用水中たんぼへ落つ。
・(梅屋敷のところで)この辺り百姓屋敷の庭 梅あり。必ず尋ねるべき。寛政の初めの栽という。
・(荒木田原のところで)この所より出る土を荒木田という。

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2018(平成30)年

11/18 水島爾保布の時事新報「根岸夜話」と妻 水島幸子

担当:小川宗也
参考資料
根岸夜話 水島爾保布(時事新報 大正15年7月31日から8月8日までの全7回連載)
根岸のたより 水島幸子(婦女新聞 大正14年4月5日と5月17日の2回連載)

① 水島爾保布 とは誰だ?

1884(明治17)12月8日 下谷区根岸生まれ 画家、版画家、小説家、随筆家、童話作家、食道楽家、旅人
父は水島慎二郎(人物誌 ②-122 海軍省嘱託として碑文や顕彰碑などの文を書く公務員)、母は はる
子どもは8人 万葉集から名前をとっている。
長男 爾保布(におう)、次男 佐久良、三男 獅子吼(のちに新三に改名)
長女 雪松、次女 香須美、三女 琴柱(ことじ) ほか 潮音、百千など。
1902(明治35) 東京美術学校入学 途中休学
1906(明治39)9月 美校に再入学し、寺崎廣業(②-36 鶯谷在住、弟子も人物誌に4人登場 野田九浦・吉岡華堂・鳥谷幡山・益田柳外)に師事
1908(明治41)美大卒業 その後帝展3度入選
1909(明治42)根岸小学校の同窓生の山室福(幸子 ゆきこ とも明治19生)と結婚
福の姉 孝は画家 高屋肖哲(狩野芳崖の弟子。自ら「仏画師」と称して市井の画家として生きた)に嫁ぐ
1912(明治45)長男 太郎生まれる(のちの行樹、今日泊亜蘭) 続いて長女 花子、次女 豊能(とよの)
大阪日日新聞、東京日日新聞に入社するも1918(大正7)に退社
1920(大正9) 中根岸29番地に住む その後根岸内で引っ越し
1924(大正13)新東京繁盛記を日本評論社より刊行
1926(大正15:42歳) 根岸から西ヶ原へ引っ越す(「我等」7月号にも記述:我等とは・・・日本の総合雑誌。大正7年(1918)の白虹事件により朝日新聞を退社した長谷川如是閑、大山郁夫らが中心となり、大正8年(1919)に創刊。進歩的思想に基づいて社会批評を展開した)
戦後は新潟県長岡へ転居
1958(昭和33:74歳)12月30日没 墓は台東区 栄敬寺(寿1丁目)

② 爾保布の妻、水島幸子とは

(以下:ネット記事 神保町系オタオタ日記より)
『婦人世界』(実業之日本社、明治43年12月)の「新聞雑誌婦人記者花くらべ」で、水島は白百合にたとえられているという。婦人世界の記者だったようだ。
渋沢青花『大正の『日本少年』と『少女の友』-編集の思い出』(千人社、昭和56年10月)に、大正元年10月頃、渋沢が島村抱月の紹介で実業之日本社に入った時の話として、

社長の左手、北側の壁を背にした一角は『婦人世界』の編集部だった。ここで目につくのは、堂々たる体格の持主、主筆の高信峡水氏である。(略) 『婦人世界』の編集陣は、ほかに原掬水君と婦人記者が二人。一人は当時売れっ子の漫画家水島爾保布氏の夫人で、一人は何新聞社だったか忘れたが、新聞記者*1の夫人で坂水とわさん*2という人だった。二人ともなかなかの美人だった。(略)二人とも社員ではなく、嘱託ということで、一日の大部分は訪問に出歩いて、午後ちょっと顔を見せるだけだった。

水島は、『婦人世界』には、」4巻12号(明治42年10月15日)の「主婦として働きながら婦人記者を勤むる私の日常生活」、6巻1号(44年1月1日)~同巻8号(同年7月1日)の「令嬢訪問」などを執筆している。
赤堀峰吉・赤堀菊子『嫁入文庫第四編 料理の巻』(実業之日本社、大正6年4月初版、12年12月36版)を紹介しているが、大正6年7月24日付東京朝日新聞に同文庫第七編化粧の巻の広告が、古宇田傚太郎・水島幸子の共著としてあがっている。多分、同一人物だろう。

峯島正行『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭』によると、
その苦労の多い新人画家時代に、爾保布は結婚した。相手は、根岸小学校時代の同窓生山室福という女性だった。(中略)結婚した時は明治42年、明治17年生まれの爾保布二十六歳、明治十九年生まれの福は、二十四歳頃と推定される。(中略)

爾保布の妻福は、結婚した当時、読売新聞の記者をしていた。今日泊は、恐らく女性で新聞記者になった第一号だろう、と言っている。つまり新しい女であった。平塚らいてうが、「青踏」を出す前に彼女は結婚しているのだから、今日泊の言は、恐らく当っていよう。
しかも父親が、女大学さえ読んでいれば、女は学問なんぞしなくてもいい、といって、上の娘二人は、女学校にも入れなかった。だから福は独学で勉強し、新聞記者になったわけである。(中略)新聞記者としては、水島幸子と名のった。

「女性で新聞記者になった第一号」という記述については、江刺昭子『女のくせに 草分けの女性新聞記者たち』によれば、本邦の女性記者第一号は、明治23年から国民新聞に在社した竹越竹代(竹越与三郎の夫人)とあるので、明治19年生まれの水島幸子では第一号になれる可能性はまったくないであろう。もっとも、読売新聞における女性記者第一号の可能性は十分ある。

平凡社創設者の下中彌三郎とも関係があって、『平凡社六十年史』(昭和49年6月)にも名前が出てくる。
[下中彌三郎は]昭和三十八年になると、かねてから希望であった「婦女新聞」に移り、記者として活躍するようになる。(中略) 「婦女新聞」の投稿家の中には、水島幸子(画家水島爾保布の夫人となる)や、石上露子として知られる杉山孝子、晩年下中彌三郎のよき伴侶となった米谷(天野)照子などがいた。杉山孝子は夕ちどり、米谷照子はいそちどり、水島幸子は桂飛桃子の筆名で短歌や小品文を発表し、「婦女新聞」の新進として注目をあつめた。

『野上彌生子全集』第Ⅱ期第1巻の日記によると
大正14年5月12日 今日珍しい人が来た。水島爾保布の妻君だ。
江木キンキン女史のことをきいてちよつとおもしろかつた。
大正14年5月26日 高野春子久しぶりの来訪。原稿二つ持ち来る。(略)水島幸子も落ち逢ふ。例の家探しのためである。あの人が木内さんを知つてゐるといふことを今日の話で知つた。
大正14年11月5日 水島幸子門前を通つたからと云つて玄関までよつて下さる。
(以上、ネット記事 神保町系オタオタ日記 2006年~2007年より)

この夫婦が綴った根岸に関するエッセイ、爾保布の時事新報版「根岸夜話」と幸子の婦女新聞の「根岸だより」を読んでみる。

11/18 小原古邨(おはらこそん)と根岸

担当:清水ますみ
参考資料
10月7日放送 NHK「日曜美術館」の小原古邨展紹介
原安三郎コレクション 小原古邨展(茅ヶ崎市美術館) チラシ

小原古邨の数ある木版花鳥画のなかの「有明月に木菟」の木版が発見され、それを使って改めて版画を刷ってみるという試みが「日曜美術館」の番組内で行われた。その版木が発見された場所は、旧陸奥宗光邸であり、ちりめん本の長谷川武次郎の家であった洋館のなかだった。
小原古邨は「ちりめん本」の挿絵絵師である鈴木華邨の弟子であったので、そんな関係から版本がこの館にあったと思われます。そのほかにもこの館には専門家が細かく見れば、古邨やその他の方の貴重な版本があるやもしれないとも思います。

10/8  中根岸 柳通りの今昔

担当:熊井貴子
参考資料
全住宅案内地図帳 1962(昭和37)年版
全住宅案内地図帳 1966(昭和41)年版
全住宅案内地図帳 1974(昭和49)年版
ブルーマップⅡ台東区 2017(平成29)年版

この55年間の4枚の住宅地図を比較する。

55年間同じ場所に居続けている商店、人は、
金杉通り寄りの安楽寺側はお行の松通りに向かって
日東無線、登喜和屋、望月さん、榊原石材、海老屋染物店の5軒
金杉通りよりの西念寺側はお行の松通りに向かって
雄飛堂薬局、理容川崎、コンビニエンスセキネ(関根食品店)、酒場福徳、レストラン香味屋、小松屋豆腐、岡田工業、古川さん、小沼さん、岡埜栄泉、鈴木洋裁、マミー美容室、理容本藤、石井さんの14軒

9/9 雑誌「郊外」と岡野知十、水島爾保布、大槻文彦

担当:小川宗也
参考資料
復軒旅日記(大槻文彦)冨山房
水島爾保布著作書誌・探索日誌(かわじもとたか)

*「根岸人物誌」に載っていていいはずなのに載っていない人がいる!
★大槻文彦、大槻如電(じょでん)
③-5 榊原(さかきばら)芳野 の稿に「明治14年12月4日没す。享年89。浅草今戸安昌寺に葬る。嗣なし。友人大槻修二(*如電のこと)、文彦の兄弟・事を続・し、その蔵書を書籍館に納む」とある
この蔵書は、明治16年(1883)、国会図書館の前身である東京図書館へ一括寄贈され、「榊原文庫」と呼ばれる。「榊原文庫」は、寄贈時の記録では1487点、6157冊。ほとんどが江戸以前の和書で、国語・国文学・国史を主に、有職故実・地誌・遊芸など広い分野にわたり、国会図書館の古典籍コレクションの基礎となっている資料群である。

★石川文荘(在野の学者 -1943)
②-野々山緱山(ののやま こうざん)の稿の印章に「石川氏所蔵」とある。
石川の書で「根岸人物誌序」(江戸期の書物から根岸にかかわる記事をまとめたもの)というものがあり、また本書で参考文献として多く引用されている「台北人物誌」「下谷人物誌」も石川のまとめたもの(この文書は大震災で焼失したもよう:市川任三「根岸及近傍」第1編)

★水島爾保布(におう)
②-122に父 水島慎二郎は出ている

★そのほか
森鴎外、高橋健三(官僚、岡倉天心と親交)、太田謹(上野帝室博物館職員)、平坂閎(根岸近傍図発行人)

*誰がなんのために「人物誌」を書いたのか?
1)岡野知十説(①-67 項目あり)
1860年北海道日高生まれ 俳人 
1913(大正2:53歳)年10月(本郷区弓町から?)上根岸82番地に転居
1915(大正4)年5月 中根岸47番地に転居 「鶯日居」と称して終の棲家に
1932(昭和7:73歳)年8月13日胃がんで死去

江戸文化が趣味(河竹糸とは親しそう)、俳句関係で角田竹冷とも関係。でも根岸に関する陳述皆無。動機が希薄。

2)水島爾保布説(水島の父 水島慎二郎 ②-122 一介の公務員なのになぜか項目あり)
1884(明治17)12月8日 下谷区根岸生まれ 画家、版画家、小説家、随筆家、童話作家、食道楽家、旅人
父は水島慎二郎、母ははる
長男 爾保布(におう)、次男 佐久良、三男 獅子吼(のちに新三に改名)
長女 雪松、次女 香須美、三女 琴柱(ことじ) ほか 潮音、百千など。
1902(明治35) 東京美術学校入学 途中休学
1906(明治39)9月 美校に再入学し、寺崎廣業(②-36 鶯谷在住、弟子も人物誌に4人登場 野田九浦・吉岡華堂・鳥谷幡山・益田柳外)に師事
1908(明治41)美大卒業 その後帝展3度入選
1909(明治42)根岸小学校の同窓生の山室福(幸子ゆきこ とも明治19生)と結婚
福子の姉 孝は画家 高屋肖哲(狩野芳崖の弟子。自ら「仏画師」と称して市井の画家として生きた)に嫁ぐ
1912(明治45)長男太郎生まれる(のちの行樹、今日泊亜蘭) 続いて長女 花子、次女 豊能(とよの)
大阪日日新聞、東京日日新聞に入社するも1918(大正7)に退社
1920(大正9) 中根岸29番地に住む その後根岸内で引っ越し
1926(大正15:42歳) 根岸から西ヶ原へ引っ越す(「我等」7月号に記述) 戦後は新潟県長岡へ転居
1958(昭和33:74歳)12月30日没

「愚談」(大正12年5月15日刊行)の文章ににじみ出る根岸愛
また「根岸人物誌」の年代的に最後の記述は「大正14年8月号 郊外 根岸夜話(水島爾保布)」というもの。根岸を離れる年と「人物誌」更新終了年が近い。死亡年と「人物誌」の寄贈年が近い。
「時事新報 目録文芸編大正期」によると時事新報には大正15年7月31日より8月8日まで全8回で随筆「根岸夜話」(水島爾保布)が載っている。

3)大槻 文彦説(項目ないが③-5 榊原芳野 の稿で言及あり) 
1847(弘化4)年木挽町生まれ 国語学者 本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者
1881(明治14)3月27日 浅草今戸町21番地に転居
1882(明治15)9月 言海、浄書を始める
1884(明治17)10月15日 金杉村216番地に転居
1887(明治20:41歳)11月13日 金杉村130番地に転居(同所は後に下谷区に編入され、上根岸110番地に改称)
1890(明治23) 11月 次女が結核性脳膜炎で死去、 同12月 妻が腸チフスで死去
1891(明治24)6月23日 言海完成の祝宴(芝公園紅葉館)
1892(明治25)3月 上根岸110番地より岩手県中里村中里199に転籍。宮城県尋常中学校長、宮城県書籍館長に。
1895(明治28)12月15日 仙台より上根岸110番地に戻る
1901(明治34)1月 根岸及近傍図を発行
1901(明治34)8月9日 日暮里村大字金杉字中村258番地の新居に(雨松軒)
1928(昭和3:80歳)年2月17日没 80歳
1928年夏、御行の松枯死

「言海」の編集に忙しくてこんなことを書いている暇はないと思いつつも、御行の松に関して愛のこもった小冊子を作っていたりするし、「根岸及近傍図」は大槻の編集。明治30年代には第2期根岸倶楽部を率いていた。死亡年と「人物誌」更新終了年が近い。

4)石川文荘ほか在野の研究家

*いつごろ書かれた?
大正期に成立したもの。1~4巻にかけて大正11~14年の記述もみられる。
記載されているトピックで新しいものの記述は
④-70 大正12年9月24日 午後2時より西蔵院にて関東大震災の中根岸での犠牲者11人の法要
③-69 大正13年9月 中道の豪邸に暮らした政治家で俳人角田(つのだ)竹冷の息子、角田竹夫が上中里に移る
③-70 大正13年11月24日 河竹糸 死去 75歳
④-75 大正14年8月号 郊外 根岸夜話(水島爾保布)

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この発表でのキーワード
★雑誌「郊外」
1923(大正12)4月1日 創刊 郊外社 俳人の大島貞吉(宝水)が発行者。
 「政治と文芸」という標題が当初ついていたが、数号でなくなり、同好者のミニコミ誌といった感じの雑誌。政治の記事の他、料理、活動写真、愛煙の記事や随筆を掲載。 
執筆陣としては
・岡野知十
・その長男 岡野かをる(馨:1893-1941 フランス文学者 東京外語仏語科卒。「蛇の舌」同人。1921渡仏。 帰国後、陸軍大学教授)
・次男 木川恵二郎(1898-1924:里見弴に私淑していたが、26歳で歿す。 ただその戯曲「破れ暦」は、交友があった13代守田勘弥により、大正13年9月浅草公園劇場、次いで帝国劇場にて上演。それを知十は「帝劇に『破れ暦』再演さる。同人総見の会を催す。友愛謝すべき言葉もなし。  草に露 友交りの 嬉しさは 」と詠っている)
・馬場孤蝶を中心とした泊鴎会グループ(田中貢太郎、沖野岩三郎、佐々木指月、村松梢風、大庭柯公、安成貞雄、生方敏郎、畑耕一、水木京太、野尻抱影、松崎天民、井伏鱒二、水島爾保布、松本泰、平野嶺夫)
昭和4年12月で休刊 全79号

★郊外社
雑誌「半面」および「郊外」の版元。岡野知十はこの「半面」を俳壇での発表の場としており、知十一派は新々派、半面派といわれた。発行人である大島貞吉の住所も郊外社も印刷所の三光印刷所もすべて住所は「滝野川区西ヶ原74」。

★大島貞吉(宝水)
読売新聞社記者を経て印刷所を営む。明治31年岡野知十の俳句研究結社雀会に加わり34年創刊の「半面」を編集する。編著に「新俳句類選」(明39)や知十句集の「鶯日」(昭8)などがある。三蝶は号。俳人名・大島宝水

宝水の父は、読売新聞創刊からの社員で、兄も同社に勤務していた。しかし二人とも早世し、宝水はわずか11歳で家督を継ぐことになる。このため、読売新聞社は何とかしてこの少年を勤務させようと、昼間は編集局の給仕、または職工の見習をし、夜間は漢字を学ぶ生徒として入社させる。そして18歳の時、文撰工となり、その後校正係・編集助手・読売文芸編集・社会部記者・社会部長・編集局主事・工場監督などを歴任する。辞職後(大正12年頃44-5歳)は単独で三光印刷所を経営し、政治文芸雑誌『郊外』を発行した。(三重県朝日町「ふれあいの里」だより)

★清水かつら(靴が鳴る~清水かつら童謡詩集 より)
清水かつらには6人の義理の弟がいましたが、大正12年に父が亡くなると一家の責任がかつらの上に重くのしかかります。
それに追い討ちをかけるように関東大震災で本郷の家は火災で全焼。資料、家財のすべてを失いました。本郷の家を捨てて継母と6人の義弟を連れて継母の実家のある新倉村(埼玉県)に避難した。かつら25歳。
新倉村に家族を避難させたかつらは、下谷区中根岸町の岡野知十宅に寄宿し、政治と文芸の雑誌「郊外」や俳諧の機関誌「半面」の編集に携わる。その後、社会教育協会に移り大日本連合女子青年団の機関紙「処女の友」の編集にあたった。
★春木野歩
「郊外」の大正13年3月号(2巻5号)の扉絵で「日暮里芋坂」を描いている。また「郊外」 大正14年8月号の「根岸夜話」で最後に「もうひとつ」として感想を書いている。

ということで、ここでは大正14年8月号 郊外 根岸夜話(水島爾保布)を読んでみる(文はカテゴリー「根岸ブックアーカイブ」内の「大正14 水島爾保布 雑誌『郊外』の『根岸夜話』」を参照ください)。

7/8 「根岸土」の兄弟 荒木田土

担当:桜井瑞雄
参考資料
「江戸近郊道しるべ」1807(文化4)年から1834(天保5)年の旅行記 村尾正康(嘉陵)
「内国勧業博覧会出品目録」1878(明治10)年 内国勧業博覧会事務局
「江戸今戸焼史に関する一試論」 1998  落合則子
「煉瓦のある風景」 2010企画展冊子 荒川区教育委員会
「江戸・東京地形学散歩」 2009  松田磐余(いわれ) (之潮)

荒木田とは三河島村の字である。そこで採れた壁土を荒木田土といった。
初期の煉瓦生産の際には「地産地消」を原則とし、荒川区域では荒木田土が煉瓦の原料となった。
その後荒木田土は、産地にかかわらず水田や沼などから産する土を指すようになった。
特徴としては茶褐色の粘土で粘着力に富み、相撲の土俵の盛り土にも用いられている。
明治10年の内国勧業博覧会にも
壁土を金杉村井戸田の江川喜兵衛
壁土(茶色根岸土)を四谷伝馬町一丁目の駒井嘉七
壁紙(荒木田土)を三河島村字荒木田の常田長四郎が出品している。

6/17 第1回根岸サロンin 鶯谷駅北口(カフェド花家)

石川九楊先生があるときメンバーに「継続は力なり。根岸文化フォーラムのような活動を続けなくてはならない」と話されたことを受けて、フォーラムほど大規模でないけれど気楽にできるスタイルの会を開こう。ということで喫茶店を貸し切りにして活動の発表会を行った。

①根岸3丁目の旧陸奥宗光邸に眠るちりめん本(担当:清水ますみ)
参考資料:「まち歩きジャーナル」11号(2017.9.19)、12号(2018.4)

②村絵図「豊島郡根岸邊図」について(担当:桜井瑞雄)
参考資料:2010年企画展「豊島郡の村絵図」冊子 2010年10月発行 豊島区立郷土資料館編
     台東区文化財調査報告書第36集「浅草名跡誌」2006年3月発行 台東区教育委員会
    「復元 江戸情報地図」 1994年10月発行 朝日新聞社

③「根岸人物誌 ~鶯谷 日暮里 金杉」とはなにか?(担当:小川宗也)
参考資料:昭和34年1月27日に東京都立日比谷図書館所蔵となった4巻ものの和綴じ本
誰が人物誌を書いたのか?という問いにたいして、岡野知十説/水島爾保布説/大槻文彦説の3説を挙げる。

6/10 元三島神社 根岸にひるがえる伊予水軍のしるし

担当:李栄恵
参考資料
「神紋総覧」丹羽基二(講談社学術文庫)
「村上海賊の娘」和田竜
時宗総本山 遊行寺のホームページ

旧金杉村の氏神「元三島神社」と金杉町の「三島神社」の紋は折敷に三文字。子規の出身地である愛媛県の旧社格郷社以上の神社119社のうち32社が大三島の三島神社に代表される大山祇系の神社で、うち27社が折敷に三文字の紋を用いている。
時宗の開祖一遍上人も伊予河野家の出身で、壇ノ浦の戦いで名を上げた河野通信(みちのぶ)は祖父にあたり、時宗は折敷に三文字を宗紋としている。美濃の稲葉家も伊予河野一族の出身で折敷に三文字を家紋とし、春日局も一族であり局の墓所には葵紋とともに折敷紋がかたどられている。
河野通信の孫、河野通有は元寇で蒙古軍を撃退し、その神の加護に感謝して上野山中にあった自分の館に大山祇神社から分霊したことが元三島神社の始まりとなる。

5/6 野見濱雄の根岸八景を読む

担当:小川宗也
参考資料
「根岸及近傍」その1、その2 市川任三(根岸倶楽部)
「江戸時代文化」1927年7月 第1巻6号より 根岸八景 (台東区中央図書館の国立国会図書館デジタル化資料送信サービスより)
「明治東京逸聞史 2」森銑三 (東洋文庫)P159 鳥追

「根岸八景」は野見氏が、酒井抱一の弟子、鈴木其一の描いた根岸八景という絵をもとにしながら、この地域のことを偲んだ文章です。
この絵は現在所在不明です。「根岸及近傍」に野見氏の文章が転載されていますが、「ただ編集上の都合で一部原形を変更した箇所がある」という注意書きがあり、原文と照らし合わせると「芋坂晴風」の段の後段の「日暮里の乞食坂」に関する記述を割愛しており、その部分に、雑誌「郊外」大正13年3月号(第2巻第5号)の扉絵として春木野歩が描いた「日暮里芋坂」の絵が貼り付けられていることが分かった。
日暮里の乞食坂は、現在の日暮里駅前の荒川消防署音無川出張所脇から谷中へ抜ける坂付近になる。
乞食坂は「根岸及近傍図」にも文字情報として記載されており、「明治東京逸聞史」で森銑三氏が「鳥追」の稿でこんな文章を引いている。

鳥追は、近年殆ど絶えてしまった。「海上遥かに見渡せば、七福神の宝船、この家を指して来る船は、ことぶき祝ふ鶴亀の・・・」
こんな文句を謡って、三味線を弾いて来る。さあ鳥追が来たぞと、おひねりやら餅三切れ四切れを持って出る。以前はそうしたものだった。
この鳥追は、十六七から二十頃までの娘で、木綿ではあるが、派手な着物を、きちんと着こなして、幅狭な帯を締めている。編笠の紐は燃ゆるばかりに赤く、雪のように白く化粧を凝らした顔に、美しさを添える。
これらの娘達は、浅草の亀岡町(昔は新町)、とか、日暮里の諏訪神社の辺りの暗闇坂とか、乞食坂とか、そうしたあたりに住む特殊階級の娘で、普段は女太夫として、三味線で生活する。御一新後、一時鳥追禁止令が出たこともあり、間もなくその禁は解かれたけれども、再び盛んだった昔には立返らない。(文芸界38.1)

4/8 お行の松(戦前、根岸小、四代目)

担当:奥村雅夫
参考資料
「根岸だより」平成30年1月31日号、同年4月27日号(根岸小学校通信)
「四代目御行の松披露式典」関連資料
「戦前の御行の松」 大槻幹也

初代御行の松は、佐佐木信綱氏作詞の根岸小学校の校歌に「秋は御行の松の陰」「松を学びの友として」と登場し、第三日暮里小学校の校歌に「お行の松のあのように 強く大きくのびるのだ」とあるように、旧金杉村である根岸と日暮里のシンボルとしてそびえていました。
初代は大正15年に天然記念物として「名木」の指定を受け、大正12年の関東大震災や大正14年3月の日暮里の大火の難をのがれましたが、その後衰えて、昭和3年夏に枯死しました。2代目は昭和31年11月26日に寛永寺より贈与されましたが、これも枯れ、現在3代目が境内に生えているものの庭木仕様だったため40年たっても大きくなっていない状況をふまえ
平成30年4月28日に四代目御行の松披露式典が開催されました。その資料をみながら、御行の松の歴史を振り返ってみます。

3/11 子規庵の襖紙

担当:神保乃倫子
参考資料
子規庵における子規の写真 明治31年三宅雪嶺撮影(子規30歳)
江戸からかみ 東京松屋 /大野陽子(江戸新聞 2013年1月30日号)

三葉の写真の内、子規が横臥している写真の背景に写り込んでいる襖の柄が独特である。
この襖の柄がなんであるかを知るために、創業元禄三年の「東京松屋」に聞き込みに行った。

その結果、一番可能性が高いのは「雲華紙」だろうということになった。
雲華紙とは越前和紙のひとつで、漉き入れの技法により浮かび上がる文様が雲の華にたとえられることから
この名前がついた(別名 雲降紙)。

2/12 根岸土について

担当:神保乃倫子/清水ますみ
参考資料
「渋沢栄一と清水建設株式会社」
「衣喰住之内家職幼絵解之図」シリーズより 植木屋が鉢前を作り、左官が壁を仕上げる (二代目歌川国輝)
「左官読本」「伊豆長八美術館と長八の生涯」(鈴木光)
「粋な下町 東京根岸」(野口義博)

根岸土は「根岸及近傍図」に「壁塗りに用いられる。50年前平六というもの発見し、村内所在の地中に層をなして出ず。
赤茶色の砂土なるを搗きふるいて江川氏専売す」と出ているが、根岸色の語源ともいわれる「根岸土」の実態は不明である。
左官辞典には「砂の割合が多く砂壁として利用されてきた。東京では『赤根岸壁』として施工されていた」とある。
街の古老などに取材するも、専売した江川氏がだれでどこで採土していたかも不明。
長八は土物だけで表現する独特の世界を生み出しており、使用する色土は根岸土が多い。

根岸土や根岸壁が出てくる文献からも抜き書きを行った。

1/14 「熊手と提灯」「本郷まで」の道筋をたどる


担当:奥村雅夫
参考資料
「本郷まで」「熊手と提灯」正岡子規
「東京名所図会」「地籍図」「下谷繁盛記」

明治32年11月13日、正岡子規は本郷金助町(現 本郷3丁目)の岡麓の新築の家を訪問することにした。
その滞在記と帰りの情景を紀行文のかたちで子規は、「本郷まで」「熊手と提灯」として書き残した。
その道筋を過去の地図と現代の地図、そしていろいろな文献の記述を傍証としながら、読み解く。

2017(平成29)年

11/5 楠文夫「硯の資料室」を訪ねて

担当:本間あけみ
参考資料
「硯美艸堂雑記」楠文夫(WEB)
「古硯」「東京精華硯譜」

根岸うぐいす通りにある「硯の資料室」。
その室長であり「なんでも鑑定団」にも出演される楠文夫(佐藤文夫)氏の半生と硯の世界を取材する。
佐藤家は代々仙台藩士で書記の職務についていたが、明治に入り筆作りを家業とし、楠氏の父佐藤悦三郎氏は大田区洗足池で筆作り工房「精華堂」を営む。第二次大戦の空襲で被災し全焼。戦後、根岸5丁目86番地(雨華庵跡地)に移る。
川端康成とも交流があり、小渕官房長官の「平成」の文字を書いた筆は、佐藤悦三郎の手になる筆(号は佐藤小四郎)。
中国四大名硯についての講義もあり。

10/8 吉村昭「戦前の面影をたずねて」より

担当:中條唯男
参考資料
「東京の下町 其ノ十八 戦前の面影をたずねて」吉村昭
オール読物に昭和58年9月から60年2月にかけて18回連載された「東京の下町」
その18回目の最終回として戦後40年目の西日暮里、日暮里を散策した紀行文を読む。

キーワードしては
平塚春造、久保田万太郎、橋本関雪、ニコニコ会館の及川清
中川紀元、満谷国四郎、朝倉文夫、和菓子の日暮、田村俊子
幸田露伴、木村武山、横山浅次郎の乾物屋、凧専門店
正岡子規、浅草ビューホテル建築中、大河内菊雄、大河内信敬、河内桃子
浅尾払雲堂、昭和11年の黒ヒョウ脱走事件、永藤の卵パン

すでにそれから30年あまり。戦前の面影をたずねた吉村氏の面影をさらにたずねてみる。
及川清のニコニコ会館はいま「スイスミニ」になっている。
横山浅次郎氏の乾物屋の場所は、日暮里駅の北口の陸橋の階段(以前、たちばな書店<=現ソフトバンクが入っているたちばなビル>が営業していたころその脇に階段があった)を降りて左に曲がったところになる(この通りは西日暮里駅ができる昭和40年代前半まではすごく栄えた通りだった)。
そして永藤パンは2001年に閉店した(工場は上根岸にあった)。
浅草の映画館の話題も出てくるが2017年10月現在台東区には映画館が一軒しかない(それも池之端のポルノ専門のオークラ劇場)という事実に一同驚く(11月には御徒町の松坂屋にTOHOシネマがオープン予定)。

9/10 根岸人物誌を書き綴ったのは誰か?/寛政安楽寺事件

担当:小川宗也
参考資料
根岸人物誌(巻之四より根岸閑話、安楽寺事件)
譚海 (国書刊行会 1917)国立国会図書館デジタルアーカイブより
御仕置例類集 弐之帳 取計之部 国立国会図書館デジタルアーカイブより

巻之四の内容リストも完成した。巻の一、二における最後の記述は花井卓蔵が大正11年6月に死去したことで、その年のうちには完成したようにも思える。巻の三、四は「根岸閑話」には大正12年9月24日に西蔵院で行われた関東大震災の死者を悼む法会や阿竹糸が大正13年11月24日に死去した記述であり、そのころ記述が続けられなくなったなんらかの変事が人物誌の編者に生じたものと思われる。阿竹糸の死去の記事が最後であることや巻の四には阿竹糸から直接聞いたことがメモされていることから、彼女と編者は深い関係であったころが類推される。巻之四のなかで不思議な存在感がある「根岸閑話」と興味深い事件「寛政安楽寺事件」にかんする資料を読んでみる。

7/9 根岸邊図(蓑輪町部分)と大関家文書(村絵図 その7)

担当:桜井瑞雄
参考資料
「江戸箕輪御下屋敷御抱屋敷覚書」~大関家文書 三ノ輪下屋敷関係資料~(平成28年荒川区教育委員会発行)
「三ノ輪の殿様」平成28年 荒川ふるさと文化館企画展冊子
根岸邊図の箕輪町部分(宗候別荘、大関候別荘、石川候別荘、池田家別荘、加藤候別荘)拡大図

1.箕輪の武家屋敷、拝領屋敷、抱屋敷、下屋敷
参考資料の「覚書」(栃木県太田原市「黒羽芭蕉の館」所蔵の大関家文書のなかに含まれるものを「荒川区古文書いずみの会」が編集、活字化したもの)の記述と「根岸邊図」とを比較し、「根岸邊図」の制作年が確認できるかを試みる。

2.覚書に書かれている「辻番所」「吉宗ゆかりの松」「寛文9年(1669)に開いた横丁(現:大関横丁)と石橋」「箕輪橋」が根岸邊図で確認できる

3.寛文7年(1667)に大関家が取得とした御抱地は、田んぼのままになっている。抱地の中央に用水とそこにかかる木橋が描かれている。

6/10 根岸派 饗庭篁村追悼記事から

担当:小田三千子
参考資料
「逝ける饗庭篁村翁と明治期の江戸文学」 (演芸画報 大正11年8月号)
「饗庭篁村」根岸人物誌 巻1の1

1.饗庭篁村君の追憶 (坪内逍遥)
2.饗庭さんの江戸文学 (岡本綺堂)
3.翁の文学(伊原青々園)
4.饗庭篁村氏の前半生
で根岸に絡むところを中心に読み合せる。

5/7 伊藤野枝と尾竹紅吉の根岸時代

担当:李栄恵
参考資料
「伊藤野枝と代準介」矢野寛治(弦書房 2012)
「定本 伊藤野枝全集」第1巻、第4巻(學藝書房 2000)
「野枝さんをさがして~定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説」堀切利高編著(學藝書房 2013)
「佐藤在寛新聞論談集」(佐藤在寛先生顕彰会 1995)
「自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝」井手文子(筑摩書房 1979)
「青踏の女・尾竹紅吉伝」渡邊澄子(不二出版 2001)
「松下竜一その仕事 17 ルイズ~父に貰いし名は」松下竜一(河出書房新社 2000)
「大正・根岸の空」村上信彦(青蛙房 1977)
ウェブサイト 「中山修一著作集」2「富本憲吉とウィリアム・モリス」

叔父代準介を頼りに九州から上京して向学心に燃える伊藤野枝。日本画家尾竹三兄弟の長兄越堂を父に持つ尾竹紅吉。「青踏」で親しく交わる二人が同時期に根岸に暮らしたのはわずか2年程度ですが、根岸時代は二人にとって、それぞれに忘れがたい青春のひとときでした。

4/9 明治30年ごろの根岸での出会い

担当:中條唯男
参考資料
「岡倉覚三氏の思出」(九鬼周造随筆集 1993年岩波文庫 菅野昭正編より)
「父 岡倉天心」(岡倉一雄著 岩波現代文庫 2013年)
「岡倉天心 近代美術の師」より中村愿氏の一文(別冊太陽 2013年7月25日 平凡社)

九鬼周造、隆一、波津子と岡倉一雄、覚三をめぐる人間模様

3/12 根岸人物誌巻1~3の登場人物内訳/江川八左衛門

担当:小川宗也
参考資料
「根岸人物誌」巻1~3 (編者 不明)
「東京日日新聞」明治42年4月18日、20日、21日の江川八左衛門に関する記事

都立中央図書館に収められている「根岸人物誌」は、編者不明であるが、明治~大正を中心に根岸にゆかりの人物の来歴をまとめた人物之部(巻1~3)と地誌之部(巻4)からなる。
人物之部に登場する人物は延べ690人。重複を除くと615人であった。
5回登場する浅田宗伯(漢方医)。3回登場の江川八左衛門(彫師)、北尾重政(浮世絵師)、竹柴其水(歌舞伎作家)、多田三弥(数学者)、寺門静軒(儒学者)、原徳斎(儒学者)の6名。
職業別だと

2/10 台東区の土地利用とまち並みの現状

担当:大江勉
参考資料
「東京都の土地利用 平成23年東京都区部」平成23年度土地利用現況調査結果の概要 東京都都市整備局
「台東区景観計画」平成23年12月

1/15 中村不折邸の来歴

担当:神保乃倫子
参考資料
「由緒ある中村不折氏の邸宅」(土地と家屋 第1巻第3号 土地と家屋社 大正4年10月)
「高士中根香亭先生 一」坂田進一(月刊 書道界 藤樹社 2013)
「香亭雅談 上」(金港堂 明治19年)
「地籍台帳 下谷区上根岸町」1912年4月発行
「日本橋新材木町商業史覚書~問屋と街~」白石隆(三田商業研究 1997年12月)

「由緒ある中村不折氏の邸宅」に掲載されている6葉の写真は、当時の見取り図で写した場所と方角が特定できる。また当時の井戸、銀杏、築山が書道博物館に現存していることが確認できる。中村不折邸になる前は、中根淑がこの場所に暮らし、その建物を「迷花書室」と呼んだ。また「香亭雅談 上」では、根岸に居を移したことを記しつつ、根岸に暮らした先人として、大島蓼太<雪中庵蓼太>、喜多村 筠庭<喜多村 信節>、平田篤胤、山崎北峰<山崎美成>、原念斎、寺門静軒、亀田鵬斎、酒井抱一の名を挙げている。この「香亭雅談 上」の奥付の出版人の箇所には「静岡県士族 中根淑 東京府下北豊島郡金杉村185番地」と記載されており、その地所は現在の書道博物館の場所である。一方、この土地を所有していたのは、日本橋区新右衛門町の太田惣吉であり、日本橋区新材木町の地主としても質屋としてその名前が登場する。

2016(平成28)年

11/13「鍬形蕙斎」と寛政の改革(村絵図その6)

担当:桜井瑞雄
参考資料
「亀田鵬斎と江戸化政期の文人達」渥美國泰著 芸術新聞社 1995
「都市図の系譜と江戸」小澤弘著 吉川弘文館 2002
「鍬形蕙斎」監修:渥美國泰・内田欽三 発行:津山市教育委員会・太田記念美術館 2004
「山東京伝」佐藤至子 ミネルヴァ書房 2009

北尾正美の名で北尾重政の門人であった鍬形蕙斎は、松平定信の寛政の改革での異学の禁の結果、交流のあった山東京伝(北尾政演)や亀田鵬斎が弾圧の対象になるのを目の当たりにした。そうしたなかで北尾正美は津山藩のお抱え絵師となり浮世絵師時代の北尾正美の名を捨て、鍬形に変え名も紹真(つぐさね)に改め、鍬形蕙斎紹真となった。

10/10 竹柴其水(きすい)と河竹糸

担当:小田三千子
参考資料
「根岸人物誌」巻の2,3
「作者の家~黙阿弥以後の人びと」河竹登志夫 講談社 昭和55年
「大正6年2月調査・東京演芸地図」新演芸 大正6年3月号付録

おそめさんが夫の竹柴其水こと岡田新蔵と住んだ家は、下谷区中根岸町46番地にあった。河竹黙阿弥の娘の糸の後見役を竹柴其水は果たし、糸は大正6年7月から大正9年10月まで中根岸に暮らした。

9/11 第20代堆朱楊成~根岸から田端へ~

担当:神保乃倫子
参考資料
「田端文士村」近藤富枝 中公文庫
「堆朱楊成」 美術日報社編 昭和16年
「下谷の大火再報」東京朝日新聞 明治31年4月21日

明治13年8月に根岸で生まれた通称豊五郎の楊成は、明治29年の兄の死去により第20代を襲名した。
明治31年4月の下谷の大火(全焼418戸、半焼17戸)で焼き出され、中根岸37番地に移転。大正9年、田端430番地に移転。大正11年7月に芥川家の隣に新築なり移転し、そこは堆朱御殿、田端御殿といわれ豪邸だった。

7/3 根岸美術工芸家の三奇人 堆朱楊成、豊川揚渓、青山周平

担当:小川宗也
参考資料
「根岸人物誌」巻之3
「茶ばなし」より(読売新聞1901(明治34)年4月15日と16日の朝刊)

「根岸人物誌」で豊川揚渓、青山周平については「根岸美術工芸家の三奇人の一人なり」もしくは「根岸美術工芸家の三奇人の一人に数えられる」と注釈がついている。根岸美術工芸家の三奇人とは何か?
それを読み解くカギは読売新聞1901(明治34)年4月15日と16日の朝刊にある。

6/12 江戸(化政時代)の笑いと笑い感度

担当:橋本稔
参考資料
ヒュースケン日本日記(岩波文庫)
スイス領事が見た幕末日本 (リンダウ)
日本奥地紀行(イザベラ・バード)
夢酔独言(勝小吉)
北斎の謎を解く(諏訪春雄 吉川弘文館)

ハジケて笑った「文化文政時代」に焦点をあてて、徳川家斉、勝小吉のハジケ具合や外国人が見た笑いこける日本人の印象を紹介。

5/8  まちづくり協議会と台東区都市計画マスタープラン/九鬼周造「根岸」を読む

担当:大江勉
参考資料
東京の町を読む~下谷・根岸の歴史的生活環境(陣内秀信ほか 相模書房)
台東区都市計画マスタープラン

担当:
九鬼周造「根岸」(岩波文庫)

4/10 根岸の茶人 益田克徳と二代目松本幾次郎

担当:神保乃倫子
参考資料
東都茶会記 第2巻(大正3年1~12月)
旧渋沢庭園と三人の作庭者(東京農大 正田実知彦 あらかわ学会年次大会2010)

大住清白(上野風月堂)の茶室を吉田楓軒(和敬会十六羅漢:吉田質屋)が譲り受け「松雨亭」にした(現在の竹台高校付近)。山澄宗澄(茶器商)の「隣鐘庵」(元三島そば)、馬越化成(日本麦酒社長)の「流水庵」(お行の松そば)、大久保北隠の「二覚庵」(上根岸)、今泉雄作の「無碍庵」(中根岸)など明治期には茶室が多く存在した。

3/13 根岸の三天狗 成瀬大域、新岡旭宇、永倉雪湖

担当:小田三千子
参考資料
書道五十年史 (墨美 創刊号 昭和26年6月号)
根岸人物誌 巻之二

新岡は若い時から酒豪で飲むと殆ど狂に近かった。

2/7「根岸邊図」の製作者は鍬形蕙斎か?(村絵図その5)

担当:桜井瑞雄
参考資料
「亀田鵬斎と江戸化政期の文人達」(渥美國泰 芸術新聞社)
「ビジュアル 台東区史」(台東区史編纂専門委員会)
「都市図の系譜と江戸」(小澤弘 吉川弘文館)
「黒髪山縁起絵巻」について (小澤弘)
「鍬形蕙斎」(監修 渥美國泰 内田欽三、編集・発行 津山市教育委員会・太田記念美術館)

鍬形蕙斎は鵬斎を筆頭とした化政期の文人墨客の多くと親交があり、根岸とその周辺地域も熟知していた。

1/17 森鴎外と岡倉天心、そして根岸党(根岸倶楽部)


担当:中條唯男
参考資料
「岡倉天心~美と裏切り」清水多吉 中公叢書(中央公論新社 2013)
「幸田露伴と根岸党の文人たち~もうひとつの明治」出口智之 (教育評論社 2011)

森鴎外と岡倉天心はともに東大第一期卒業生ということもありよく吞み歩いている。そこに陸羯南、饗庭篁村、森田思軒も加わり明治23年10月には連日のように相互の家で吞んでいた。そして12月には「根岸倶楽部」が設立した。

2015(平成27)年

1/12 山口昌男「『敗者』の精神史」に出てくる根岸党(熊井貴子)
村絵図 その3「豊島郡坂本町村図」(桜井瑞雄)
2/7 尾竹3兄弟について(金森利行)
柳沢信鴻「宴遊日記」(安永年間)より抜粋(奥村雅夫)
3/8 根岸を愛した書家 村田龍岱・津田翠岱兄弟の青春時代~昭和初期の根岸(小田三千子)
4/12 ?
5/17 下根岸の音無川に架かる病院裏橋を舞台にした探偵小説「冥都七事件」<物集高音著>(李栄恵)
6/7 第7回根岸文化フォーラム
「現代の書は根岸から生まれた~正岡子規、中村不折、河東碧梧桐の書」石川九楊
6/14 上橋菜穂子と小島功(熊井貴子)
村絵図 その4 「浅草名跡誌」と「根岸邊図」~村絵図を描いたのは誰だ!(桜井瑞雄)
7 根岸養生院について(稲葉)
9/13 茶の湯の歴史と益田克徳(神保乃倫子)
根岸人物誌解説②と高橋健三と岡倉天心~「国華」をめぐって(小川宗也)
10/4 長谷川武次郎のインタビュー記事より(清水ますみ)
11 長屋くらし(大熊)
バーナード・リーチ
「東京の町を読む」を読み、路地の視点から考える(大江勉)

2014(平成26)年

1/13 村絵図 その1 「豊島郡根岸邊図」について(桜井瑞雄)
2/16 酒井抱一について(金森利行)
3/16 瓜生外吉について(内田)
七世市川団十郎の逸話(小田三千子)
4/13 根岸党、根岸倶楽部そして「地図の会」への系譜(小川宗也)
子規と不折(中條唯男)
5 中根岸の円光寺について調べる(稲子)
稲葉製作所について(稲葉)
6/8 第6回根岸文化フォーラム 「酒井抱一とその根岸での日々」日比谷孟俊
7/13 七宝家 並河靖之について
8/10 村絵図 その2「豊島郡三河島村絵図」と「根岸邊図」の三河島村、箕輪町について(桜井瑞雄)
9/15 日暮里・入谷にその名を残す川崎チッタグループの前身「金美館」のこと(李栄恵)
琳派の絵とは(金森利行)
10/13 根岸と千住~抱一と健部巣兆、不折と葛西屋中嶋家(小田三千子)
松坂屋と靍護稲荷(永田)
11/16 根岸人物誌解説⓵と陸羯南と根岸(小川宗也)
明治の琳派(中條唯男)

2013(平成25)年

2 水島爾保布「愚談」(大正12年)から根岸の記述部分を採録する(小川宗也)
3/10 泉鏡花「三枚続」(明治33年)の根岸(李栄恵)
4 日暮里大火(大正14年)による区画整理(内田)
乙川優三郎「麗しき花実」で描かれた根岸(中條唯男)
5 正確な江戸時代の根岸の地図について(桜井瑞雄)
6 村上信彦「大正~根岸の空」を読む(稲子)
向島長命寺での子規の夏休み(金森利行)
6/16 第5回根岸文化フォーラム 「根岸とその周辺」浦井正明
7/15 読売新聞特集記事(明治36年5~6月)に描かれた根岸病院(小川宗也)
9/8 上根岸のゴッドファーザー 河合徳三郎(李栄恵)
根岸小学校開校110周年の壁画に関して(李栄恵)
10/14 柏木家文書について(稲子)
大正期根岸に住んだ歌舞伎役者(小田三千子)
11 雑誌「アンブル」の昭和54年の根岸地図より(奥村雅夫)

2012(平成24)年

1 子規自筆の根岸地図
2 加賀前田家前田利為候について
3/11 根岸見聞(明治9年8月中通りの中村おしま、明治8年10月紳士が笹の雪あたりで暴れる)
および多田親愛(小川宗也)
4 2万分の一迅速測図 下谷区(明治13)を引用している書籍から
5 饗庭篁村と「新殺石」
6/17 第4回根岸文化フォーラム「濱野茂8ミリフィルム作品集」と当時のお話
7 狩野洞春そして根岸御行松狩野家
9 彰義隊と根岸(中條唯男)
10 江戸園芸文化と根岸の植木師(桜井瑞雄)
11 「一銭五厘たちの横丁」を読む(稲子)

2011(平成23)年

1/16 竹のや主人饗庭篁村(金森利行)
2 「上野寛永寺 将軍の葬儀」(浦井正明著)に沿って
3 ?
4 ?
5 千手院のレンガ塀の出来たころ(明治34年)の根岸とその周辺(桜井瑞雄)
酒井抱一そして仮説 抱一と風神雷神との出会い(稲子)
6/12 第3回根岸文化フォーラム 西宮邸(旧陸奥宗光邸)とちりめん本
パネリスト 西宮雄作、内田青蔵、酒井貴美子、稲葉和也
7 幻のB級映画大都映画が行く~映画史に残る日暮里周辺の撮影所
9 「子規とベースボール」(神田順治著)そして正岡子規記念球場(福岡)
10 ちりめん本と長谷川武四郎~芸術新報第13巻3号より(清水まずみ)
中村不折の蔵の保存について
11 自宅に根岸信号所 時計マニア板東彦三郎について(李栄恵)
12 酒井抱一と田中抱二の雨華庵図(金森利行)

2010(平成22)年

1 病牀六尺(明治35.7.11)の記事を17年後の「根岸物語」(寒川鼠骨)を中心に読み解く(小川宗也)
2 地名の由来と変遷<下谷・谷中~谷が付く地名が多いのはなぜ?>(桜井瑞雄)
3 音無川について(内田)、鶯谷雑事記<振りむけばラブホテル>(稲子)
4/18 根岸に住んでいた女役者 市川九女八(李栄恵)
5 ?
6 ?
7/19 和菓子屋岡埜栄泉の一門と岡埜庭園の写真について(小川宗也)、神長瞭月について(熊井貴子)
9/20 子規庵界隈の研究<小林高壽>(桜井瑞雄)
10/17 伯父平井寛について<宝塚星組鞠村奈緒さんのHP「昭和からの贈りもの」より>
11/21 子規と根岸(福岡)、浜野矩随について
12/12 打ち上げ

2009(平成21)年

2/15 ?
3/15 子規の俳句で巡る根岸
4/19 ?
5/17 ?
6/21 ?
7/20 小説のなかの根岸①
饗庭篁村「松の雨」「今年竹」(小川宗也)
大町桂月「東京遊行記」/河合徳三郎について(李栄恵)
寺田寅彦「根岸庵を訪ふ記」(稲子)
8 暑気払い
9/13 小説のなかの根岸②
樋口一葉「琴の音」(福岡)
幸田文「流れる」(熊井貴子)永井荷風「腕くらべ」(秋庭)有吉佐和子「針女」
10/18 小説のなかの根岸③
司馬遼太郎「坂の上の雲」(稲葉)
田山花袋「一日二日の旅 東京近郊」(寺島紀子)高浜虚子「柿二つ」(金森利行)
11/15 小説のなかの根岸④ 佐多稲子「私の東京地図」(竹下恵子)
根岸生まれのSF作家今日泊亜蘭について(李栄恵)
12 小説のなかの根岸⑤
    吉村昭「東京の下町」(桜井瑞雄)
    村上信彦「根岸の空」(内田)石川達三「ろまんの残党」

2008(平成20)年

1 岡野知十について(金森利行)
2/17 富田木歩について(奥村雅夫)
3/16 八石教会の歴史と根岸の出張所~幽学資料館の資料について(小川宗也)
4/20 オモトヤ(肴舎)と万年青
5/18 合同散策会 正岡子規「車上所見」に沿って
6/15 御行の松と玉垣の名前チェック(熊井貴子)
7/21 正燈寺について(李栄恵)
8/17 暑気払い
9/21 ?
10/19 天保根岸鳥瞰図の青雲堂<西谷観空>について
11/9 二世柳川重信について(李栄恵)、坂昌成について
12 上野郵便局前「うなぎの宮川」にて忘年会

2007(平成19)年

1/14 迅速測図について(奥村雅夫)、根岸の年表について(金森利行)、近傍図を読む①(小川宗也)
明治31年4月御箪笥町火事消失跡道路取壊しの件~東京市区改正委員会議事録より(小川宗也)
1/21 もと猫~文政期天王寺化け猫の話(奥村雅夫)
2/12 近傍図を読む②(小川宗也)昭和7年煙突男が東京市庁舎で下谷区と日暮里町の合併を訴える
3/11 近傍図を読む③(小川宗也)岡野知十について
4/1 天王寺と化け猫事件現場検証とお花見
4/15 江戸図と根岸①(奥村雅夫)
5 江戸図と根岸②(奥村雅夫)私の根岸<根岸のレジャー系ホテルについて>(一宮)
6 江戸図と根岸③(奥村雅夫)
7 江戸図と根岸④(奥村雅夫)私の根岸(秋庭佑吉)
9/9 江戸図と根岸⑤(奥村雅夫)私の根岸(内田)
10/21 地域調べ発表①<風呂屋、魚屋、八百屋>
11/18 地域調べ発表②<小祠>
12/2 上野郵便局前「うなぎの宮川」にて忘年会

2006(平成18)年以前

1999 平成11 2月 第1回 根岸文化フォーラム 吉田漱(子規庵保存会理事長)
1999 平成11 11/23 第2回根岸文化フォーラム 谷中からみた根岸~子規・天心・鴎外 森まゆみ

2004 平成16 12/12 根岸の地図を読む会 一般向け講義開始
2005 平成17 第Ⅰ期スタート
2006 平成18 第Ⅱ期スタート
2006 平成18 1/22 迅速測図について、根岸及近傍図を読む(1)
2006 平成18 2/26 迅速測図について、根岸及近傍図を読む(2)
2006 平成18 3/26 迅速測図について、根岸及近傍図を読む(3)
2006 平成18 4/16 寺社の由来と歴史を班ごとに調査(元三島、猿田彦)
2006 平成18 5/20 寒川鼠骨「散歩」
2006 平成18 6/18 加賀屋敷周辺の景観~台東区史(社会文化編)昭和40年版より
2006 平成18 7/23 ?
2006 平成18 9/10 フィールドワーク 子規葬送の路を辿る
2006 平成18 9/18 根岸前田邸近傍図について
2006 平成18 10/15 八石教会について
2006 平成18 11/19 「下谷根岸」(下町風俗資料館編)「朝あるき」(坂本四方太)を読む
2006 平成18 12/17 日暮里駅前「千葉屋」で打ち上げ

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