初心者のためのセルフ・コンパッションの手引き書、nickwignall.comのThe Beginner's Guide to Self-Compassionの翻訳


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この記事の著者であるNick Wignallは臨床心理士、ライター、講師、ポッドキャスター。ダラスにあるテキサス南西メディカルセンター大学で臨床心理の博士課程、シカゴ大の社会科学で修士号取得、ダラス大の英文学で学士号を取得。American Board of Professional Psychology(ABPP、アメリカ専門心理士認定機関)の認定を受けている。the Academy of Cognitive Therapy(認知療法・行動認知療法家国際認定組織)の認定取得。Association for Behavioral and Cognitive Therapies(アメリカ行動療法認知療法学会)とニューメキシコ心理学会の会員。

北カリフォルニア出身、現在は妻と3人の娘とジャーマンシェパードと一緒にアルバカーキで暮らしている。


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懐疑主義者のための*セルフ・コンパッションの手引き書

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*今、元記事を見ると「skeptic(懐疑主義者)のための…」が「初心者のための…」に書き直されていた、ので、それに伴い少し本文も修正されている模様…、食い違う部分は自分で調べてね
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多くの人がセルフ・コンパッション(*自分を気遣うこと)やセルフ・ラブ(*自分を愛すること)、「Be Kind to yourself(自分に優しくせよ)」、などのような用語を聞いたことがある、そして自問した:

 「セルフ・コンパッション?」「セルフ・インダルジェント(自己を耽溺させること)な戯言だろ!」

言わんとするところは私にもよくわかる。

セラピストとして働く前は、私も似たようなこと(セルフ・コンパッションのような考えはただの中身のない言葉であり、口から出たプラセボであり、セラピストとグル(教祖)が顧客・信者の気分を表面的にだけ良くさせて金を巻き上げるためのものだ)と思うことがよくあった。

だが、私が、毎日、人々の治療するようなって、その考えを見直すきっかけとなったのは:

多くの人たちが、自分自身に対して、純然たるジャーク(jerk、間抜けなクズ)だった、こと。

セラピストとして働けば働くほど、私はこのセルフ・コンパッションの欠如が、長期的にみて、いかに破滅的であるか、目の当たりにした:

慢性的な苛立ち・短気、恋愛関係・人間関係の破局、生産性の喪失、怠慢を伴うよくある諸問題に至るまで、あらゆる人生の場面で、我々のセルフ・コンパッションの欠如は破壊的作用を持つ。

私はこのガイド(手引き)でセルフ・コンパッションとは何なのかを、実践的かつ直接的に説明する。

だが、より重要なのは、私は、特に、そもそもセルフ・コンパッションという考えについて少し(もしくは、大いに)懐疑的である人たちに向けてこれを書いている。

もし、あなたが、セルフ・コンパッション懐疑主義者であるなら、この記事をチャレンジ(挑戦)として考えてほしい:

私は、この記事の終わりには、「思っていたよりセルフ・コンパッションの構築は遥かに実践的で有用なスキルだ」と、あなたを説得できていると思う。

もし、あなたがセルフ・コンパッション懐疑主義者ではない場合は…、うむ、あなたはセルフ・コンパッション懐疑主義者を知っているだろうから、その人たちに広めてもらっても構わない。

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セルフ・コンパッションとは何か?端的で無駄のない説明

技術的(そして冗長)な定義はそこここにたくさんある。

その内のいくつかは技術的にはとても良いが、難解さから人々を回れ右させることも多い。

ということで、私はシンプルで地に足の着いたセルフ・コンパッションの概念を提示したい:

セルフ・コンパッションとは、つらい時に、自分自身に対して、あなたが親友に接するように、接すること。

わかりやすいようにいくつかの例を…、

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駄目人間ジェフ

私の過去のクライアント(ここでは彼のことをジェフと呼ぶ)の話。

彼は診療に訪れた時、私に対し、いかに自分が失敗作のように感じられるかを語った。

彼は懸命に努力して手にした自分の念願だった仕事からレイオフ(一時的な?解雇)されたところだった。

診療の日に至るまでの一週間、彼はずっと過去二年間に自分がした失敗を再生していた。

彼のセルフトーク(独り言、自分への語りかけ)は過度に辛辣で断罪的で、自分自身に対し、

「お前がこんなに怠惰でなければ、今でも仕事を続けていただろうに(*解雇されることはなかった)」

「これでは人から、自分はハイレベルな(高い水準が求められる)仕事に対応できない、と思われる、もう良い仕事に就くことはできないだろう」

というようなことを言っていた。

診療の終わりに、私はジェフにちょっとしたエクササイズをさせた:

私は彼に、あなたの親友の誰かが解雇されたと想像してほしいと求めた。

そして、彼のその親友が自分自身に対して同じように否定的で自己批判的なことを言っていると想像してほしいと求めた。

そして私は次のことをジェフに言った:

もし、あなたが、その友人がそのつらい状況について話すのを聞いていたなら、彼にどのように声をかけるだろうか?

 ・あなたは彼に、「へえ、お前マジめちゃくちゃだな、あーあ」と言うだろうか?

 ・あなたは彼に、「ああ、なんでお前はもっとしっかりできなかったんだ?!」と言うだろうか?

 ・あなたは彼に、「最悪だな…もう別のいい仕事を見つけるのは無理だろうよ」と言うだろうか?

もちろん、そんなことは言わない!

そして、私はジェフに追加の質問をした:

あなたはどのようなことを解雇された友人に言うだろうか?

彼は一瞬考えてから、いくつかの答えを述べた:

 ・自分は彼に:「くそ、本当に残念だ。きついなあ…」と言うかもしれない

 ・自分は彼に:「今は絶望かもしれないけど、君には良いところがいっぱいあるし…絶対すぐに別のことが見つかるよ」と言うかもしれない

 ・自分は彼に:「俺も自分の最初の仕事を失った時のこと、覚えてる…がっくりきて打ちひしがれてた。でも時間が経てば楽にはなる」と言うかもしれない

ジェフは自分と同じ目に遭った友人に自分が伝えるかもしれないことをいくつか列挙した、そして、私は彼にミリオンダラークエッション(重大な質問)を聞いた…

もし、あなたが仕事を失ったことについて、自分自身に対して、あなたが解雇された友人に対して話しかけるように、話しかけてみたらどうなると思いますか?

ジェフにとって、これが頭の上で電球が点灯した瞬間だった。

周囲の人たちはジェフに対して、彼に思い出せる限り長い間ずっと、あなたは自分に対してもっと優しくする必要がある、そんなに辛辣に自己批判的になる必要はない、と言い続けていた。

だが、ジェフにはその意味がわかっていなかった、このシンプルな考えに気づくまでは:

セルフ・コンパッションとは、あなたが既に他者に対して向けている気遣い・思いやりの基準を自分自身に対しても適用する、という意味である。

別の言い方をするならば、それは、ゴールデン・ルール(黄金律、キリストの山上の垂訓「人に自分が求めることを、自分も人に対してせよ」)の逆、である:

他人に接するように、自分自身に接する。

素晴らしいことに、コンパッション(気遣い)は、あなたがおそらく既に持っているスキルであるということ…

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コンパッションとは、あなたが既にどうすればいいかを知っているものである。

我々のセルフ・コンパッションの葛藤に関する大きな皮肉とは:

セルフ・コンパッションで葛藤している人は、往々にして、他者に対しては、とてもコンパッショネイト(気遣いがある)である。

これは良いニュースだ。

セルフコンパッションは、実際に、あなたが一から習得する必要のある新しいスキルではないということ。

そして高い確率で、それはあなたが既にとても上手なスキルである。

あなたはそのスキルを自分自身と自分自身のストラグル(葛藤、苦闘)に適用することについて上達すればよいだけ。

では、これから実際にどうすればいいのかという段階に移りたい。

だが、その前に、私が耳にしたセルフ・コンパッションの構築についての拒絶反応と批判のうち最も一般的なものについて答えておきたい。

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一般的な懸念と批判

多くの人たちがセルフ・コンパッションについて、かなり強力な拒否反応を持つ。

これらの一般的な共通する批判は、通常、以下の4つの懸念に当てはまる…

1.「セルフ・コンパッションとかいうものは全部、ヒッピーの戯言だ」

この批判の要点は、思うに、セルフ・コンパッションという考えは真剣さと厳粛さを欠いているように見えるということ、ーー例えば、フォーチュンクッキーの中に書いてあるものような、もしくは、Snapple*の蓋の裏に印刷されているような類のもの。

(*テキサスの清涼飲料メーカー、瓶のキャップの裏に「Real Fact(本当の話)」というが実際には信ぴょう性に難があったりもする文言が印刷されている)

だが、フォーチュンクッキーとSnappleの蓋には、ーー良い考えが書かれている時もある!

セルフ・コンパッションという用語が、気の抜けた実体のない真剣さを欠く他の用語と語感が似ているからといって、同じ問題を持っているわけではない。

セルフ・コンパッションを連想で判断しないでほしい。

事実、セルフ・コンパッションが多大な恩恵のある姿勢でありスキルであり、特に、メジャーな(よくある)感情の葛藤に対し、一つ一つ取り組むことにおいて有用、ということを示す実験研究による非常に強力な根拠がある。

(*オックスフォード大学プレスの「オックスフォード・ハンドブック・オブ・コンパッション・サイエンス」という本の27章のKristin NeffとChristopher Germerによる 「Self-Compassion and Psychological Well-being(セルフ・コンパッションと心理学的健康)」という記事のPDFへのリンク)

例えば:

慢性的な抑うつ状態の治療法として最も厳密に研究されたものの一つである、ーーマインドフルネス・ベースド・コグニティブ・セラピー(マインドフルネス瞑想を基盤とする認知療法)は、セルフ・コンパッションを、核となる原則として利用する。

もし興味があるなら、この本("The Mindful Way Through Depression: Freeing Yourself from Chronic Unhappiness"「マインドフルな方法で抑うつ状態と一つ一つ向き合う:自分自身を慢性的な不幸から解放する」)は、よい概要を与えてくれる。

Kristen Neff博士の著書を見るのも良いだろう、彼女は実験心理学者としての自分のキャリアのすべてをセルフ・コンパッションの明確化、研究、そして、人々にセルフ・コンパッションについて教育をすることに捧げた。

彼女の著書である「セルフ・コンパッション」はその研究の偉大な源泉であり導入である。

ということで、セルフ・コンパッションはふわふわした無用なもの聞こえるかもしれないが、実際には、その有用性を裏打ちする実験データがある。

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2.「セルフ・コンパッションはナルシズムへと至る危険な下り坂である」

私が人にセルフ・コンパッションに取り組むことを提案した際に耳にした中では、これが最も一般的な批判かもしれない、ーー「それってナルシストに至る下り坂でしょ」

彼らは自分たちの激しい自己批判をほんの少しでも緩めれば、どういうわけか、即座に、もう一方の極端へと陥り、怠惰になり、セルフ・サボタージュ(自己破壊的)になり、責任回避のナルシストとなるだろうと、心配している。

私はその仮説について絶対的な反証はできないものの、数百人に対し、より深いセルフ・コンパッションを持つ人となれるように共に取り組んできた年月から、私は、このナルシストに陥るという問題に近づきかけた人すら見たことがない、と言える。

事実、セルフ・コンパッションは、実際には、セルフ・インダルジェンス(自己を耽溺させる)とナルシズムに対し、緩衝材となって守ってくれるものであると言いたい。

手短に、私の理論を説明すると…

 ・ナルシズムとは、通常は、深い部分にある不安・恐れに対するコーピング・ストラテジー(対処法)である。例えば、人が常に自分のことを尊大に自慢する必要を感じているとする、その原因は、彼らは心の奥底では、自分が矮小でちっぽけなものだと感じているからだ。言うなれば、自分自身のことを、申し訳なく思う・恥じる、ことがナルシストになる方法である。

 ・セルフ・クリティシズム(自己批判)とセルフ・ジャッジメント(自己判断)は、あなたに自分のことを、より申し訳なく思わせる、より恥じさせる。そして自分のことを恥じるほど・申し訳なく思うほど、あなたは自分を修正するために、より多くの時間とエネルギーと注意力を費やすことになる。すべての時間とエネルギーと注意力を他人に対して使うことができなくなる。

 ・一方で、もし、あなたが自分に対して気遣い・思いやりを持つなら、あなたは自分の失敗や不足に執着しない。その結果、あなたは他人に対し上の空ではなくなり、向き合い注意を払えるようになる、ーーナルシズムの真逆である。

自分の過ち・欠点や失敗に執着することは、自分の強さと成功に執着するのと同様にナルシスト的である。

セルフ・コンパッションは、自己嫌悪と自己中心さとの健全な中間である。

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3.もし、私が自分に厳しくするのを止めたら、私は自分の「エッジ(優位、長所)」を失ってしまう

結果を出し、成功し、実績を積み重ね、素晴らしく生産的なgo-getters(ゴーゲッター、元気で成功する決意に溢れ新しかったり難しかったりする状況にすぐに順応できる人、敏腕)の血統は存在し、彼らは自己批判を糧として結果を出し実績を得ている。

彼らを自己判断に駆り立てる核となる信念は、私が「モチベーションの鬼軍曹理論」と呼ぶものである。

我々は皆、ひょろひょろの新兵たちが基礎訓練で、雑魚さを晒す映画を見たことがある。だが、数週間、鬼軍曹が彼らに「厳しく接する(基本的には、常に罵声を浴びせ彼らの貧弱さを指摘する)」、すると、魔法のように彼らは男らしくなり、英雄のような戦いへとおもむいてゆく。

残念ながら、この理論は迷信である。これがしつこく残っているのは、昔からよくある相関関係を見て因果関係を根拠のないままに想定してしまうという統計学的な罠のせいである。

言い替えるなら、多くの人たちが学校と仕事において自分自身に厳しくしながら育ち、成功を手にし、そして、この二つの事象には相関関係があるので、前者(自分に厳しくすること)が後者(成功)を生じさせたに違いない、と想定してしまう。

偽りである。

今日、私はもう一杯だけ余分にコーヒーを飲んだ、すると、株式市場が値上がりした。これは私が毎朝、一杯余分にコーヒーを飲めば、株式市場が値上がりするという意味だろうか?もちろん、そんなことはない。

同様に、成功に関して問題なのは…、

ほとんどの成功した人は、自己批判にも関わらず成功したのであって、自己批判によって成功したのではない。

事実、私が何年も多くの成功者たちを相手に仕事をしてきた中で、彼らが、ようやく重い腰を上げて勇気を出してそんなにも自己批判的であることを止め、少しのセルフ・コンパッション(自分への気遣い・思いやり)を実践した時、共通して自分の生産性と仕事の「finding another gear(もう一段上のギアを見つけた)」と報告することがわかった。

言うなれば、少しのセルフ・コンパッションはあなたを、より生産的にする、生産性を下げるのではなく。

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4.「セルフ・コンパッションを試したけど、ちょっと難しすぎるよ…」

セルフ・コンパッションという思想に賛同する人たちもいる、だが、彼らが実際に葛藤しているのは、セルフ・コンパッションを、実際に、常に、やり続ける自分の能力を信じること(つまり、よりセルフ・コンパッションな人間になること)に対してである。

私がよく耳にする反論としては:

 

 「私は、失敗した時に自分により優しくなろうとした、でも、自分の思考が自己批判と心配に戻り続ける。セルフ・コンパッションは自分のDNAに含まれていないとしか思えないよ…」

正直になるなら、これほど下らないセルフ・コンパッションに対する反論はない。

私は、よりセルフ・コンパッション的になることができない、だって難しいから。

は?!

そりゃあ、難しいでしょう!

あなたはこれまでの人生を通して、激しい自己批判と自己判断の習慣を作り上げてきた、そして、あなたは新しい、正反対のセルフ・コンパッションという習慣を作り上げることを簡単だと予想している?

もしくは、あなたの古い習慣がすべて、即座に、引き下がって脳から出て行ってくれると?

次のように考えてほしい…

 ・ある兵隊が戦闘で利き腕を失ったとする、そして、利き腕ではない方の腕でフォーク(と、その他あらゆる道具)の使い方を覚えなければならない、あなたは、彼がそれを簡単なことだと、もしくは、すぐに自然にできるようになると、予想すると思うだろうか?

 ・もし、あなたが、ピアノを習うと決めたとする、あなたはそれが簡単なことだと、そして、すぐに自然にできるようになると、予想するだろうか?

 ・もし、あなたが、自分の子供が話や指示を聞かない時に、これからはもっと我慢強く接すると誓ったとする、あなたはそれが簡単なことだと、すぐに自然にできるようになると、予想するだろうか?

 ・もし、あなたが、新しい仕事に就いたとして、すべて簡単に事が運ぶと、そしてすぐに自然にできるようになると、予想するだろうか?

当然、このすべての答えは、「もちろん、そんなことはない!」

では、なぜ、よりセルフ・コンパッション的になることを学ぶことは、それらとは異なると?

結局のところ、セルフ・コンパッションはスキルの一つにである。

最初から上手くいかない場合、最も明らかで可能性の高い説明は遺伝子の欠陥でも、才能の欠如でも、宇宙があなたを罠にかけようとしているわけでもない…それはただの練習不足である。

新しいスキルを身につけるのは苛立たしく不格好で時間のかかるもの。

なぜセルフ・コンパッションはそうではないと?

セルフ・コンパッションに関して神秘的なことは何もない。

その他のスキルと同じスキルの一つである。

あなたがそれを身につけたいのなら、繰り返し練習するしかない。

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セルフ・コンパッションの恩恵

セルフ・コンパッションの能力を高めることには、それが僅かであっても、とても実践的で強力な恩恵がたくさんある。

その中でも大きな恩恵を紹介しよう…

1.よりよい気分

これは当然だとは思うが、あなたが自分に対し、間抜けなカスとして接した場合、あなたはあまりいい気はしないだろう…

・もし、あなたが常に自分を他人と比較して「自分が劣っている」と自虐しているなら、あなたは定期的にたくさんの不安と恥と後悔を感じる。

・もし、あなたが、自分に対し、常に、如何に自分が出来損ないか、如何に自分が未来において絶対に失敗するか、言い聞かせた場合、あなたは、多くの時間を、とても落胆し、悲しみ、そして絶望さえする。

・もし、あなたが、大なり小なり、常に、自分を批判し、自分の出来に対して粗探しをしている場合、あなたは慢性的に苛立ちを感じ、自分に失望する。

端的に言うと…

自虐ばかりしていると、気分が悪くなるばかり。

一方で、悪い気分を明るくする最も効果的な方法の一つ(そして、そもそも悪い気分を避ける最善の方法の一つ)は、肩の力を抜いて気楽にすること。

確認しておきたい、私はあなたに、毎朝、鏡の前に立って、鏡に映った自分に向かって、如何に自分が偉大か、如何に皆があなたを愛しているか、についてポジティブな詠唱をするように言っているわけではない…

過剰なポジティブさ(*自信と希望に溢れた前向きさ)は、過剰なネガティブさ(*物事を悪い方にだけ考えること)と同様に無用なものである。

私が言っているのは、過剰な批判主義と非生産的な自己判断の削減は可能だということ。

そして、毎日20パーセントだけ自己批判を減らせれば、自分の気分の悪さを20パーセント削減できるだろう。

気分の悪さを20パーセント削減してくれる即効薬があって、それを売ったらいくら儲かるか想像できるだろうか?

自分自身に対する批判を少し弱めることに取り組みつつ、自分自身をもう少し気遣うことを実践するのは、薬を飲むことのようには簡単ではない。

だが、正直、マラソンを走ったり、月に宇宙船を着陸させるほどでもない。

少しのセルフ・コンパッションは、安定してより良い気分でいることに大いに役立つ。

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2.より良い人間関係・恋愛関係

これは少し直感に反するかもしれない、だが、自分に厳しくし過ぎることは、他の人間に対して厳しくし過ぎることにつながり易い。その結果、人間関係を険悪にさせる。

例えば…

あなたは仕事でうまくいかなかった日があった、ーーあなたは大きな失敗をした、そして、そのことが頭を離れず、自責自虐をした。

夕食の時、あなたの息子が言った、「お父さん、仕事の後なんでいつもそんなに疲れてるの?」

さて、自分の仕事での失敗の心配に加えて、仕事でのストレスを家族の時間に持ち込んでしまったことで、あなたは自分に対して恥ずかしさと失望も感じている。

だが、あなたの気分はさらに落ち込んだので、あなたはさらに考え込んでしまい、自分と家族の距離をさらに遠ざけてしまった。

自己批判は、あなたの目を自分自身に向けさせ、自分の大事な人たちと真に向き合い、気遣うための自分の能力から目を背けさせる。

その一方で、あなたが、仕事がうまくいかなかった日の後で、次のことをしたらどうだろうか…

仕事が終わって家に帰って駐車場に車を止めた時、少し時間をとって立ち止まって振り返る。

あなたは、自分は仕事のことについて考え込みたくない、自分は息子と庭でキャッチボールをしたいんだ、と決める。

さて、あなたは少しのセルフ・コンパッションを実践した…

・あなたは、失敗をした後にがっかりするのは尤もなことだ、と自分に言い聞かせる。そして、その失敗に対して苛立ってはいるが、苛立ちを感じたことに苛立つ必要はない。

・あなたは、誰でも失敗をする、と自分に言い聞かせる。そして、これまでを振り返っても、自分は、躓きをうまくバネにして立ち直ってきた。

・最後に、あなたは自分の仕事のストレスを家族との関係にまで持ち込みたくない、と自分に言い聞かせる。そして、あなたは、仕事について少しぐらい申し訳なさを感じても気にせずに、良い夕方から夜の時間を過ごせるようにしよう、と誓う。

大金を賭けてもいい、もし、あなたが仕事で失敗をした自分に対して思いやりを持つ習慣を持てば、「仕事は仕事」と割り切るのがとても簡単になるだろう。その結果、あなたは、自分の人生で一番大切な人たちと真摯に向き合うことができる。

少しのセルフ・コンパッションはあなたを解放し、一番大事な人たちと真摯に向き合えるようにする。

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3.より高い生産性

前述の通り、多くの人たちが(まずは学校で、その後は職場で)成功し上手くやるためには自分に厳しくする必要があると信じるように育った。

だが、現実は、ほとんどの成功者たちは、自己批判と自己判断にもかかわらず、成功したのであって、それによって成功したのではない。

怠慢の問題を例にしてみよう、(我々は皆それぞれ、何らかの葛藤をこれに対してする)

仕事で大量の報告を書くことになったとしよう、期限は金曜、あなたは何となくそれを後回しにし続けている…。

毎朝、あなたはパソコンの前に座ってその仕事を始めようとする、だが、なぜか他にやることを見つけてしまう。

この状況は、皆に共通するはずだ。

つまり、我々は皆、その状況に居たことがある!

だが、ほとんどの人が自分の大事な仕事を後回しにする習慣について気付いていないことがある、それは:

怠慢は、セルフ・ジャッジメント(自己判断)によって強められることが多い

いいですか、あなたが怠慢をしたいという欲求を持った時、もし、あなたが注意して観察していれば、即席のネガティブ・セルフトーク(悲観的な独り言)が頭に浮かんでいるいることがよくあることに気付くでしょう:

・なんでお前はそんなに怠惰なんだ…、いいからやれよ!

・もうこれ以上怠けてる場合じゃないだろ…、さんざん先延ばしにしてきたじゃないか

・ああ、自分は一体どうしてしまったんだ?デスクに座った瞬間に、怠けたくなっている!

さて、これらは大したことではないように思えるかもしれない、だが、これらのごく微量の自己判断が、実際に、集中することをとても困難にしている、そして、通常、酷い怠慢の原動力である。

その理由:

・あなたが怠けたい欲求を感じる時、それは、僅かな重力があなたを仕事から引き離すような感じである。

・だが、あなたがそこに少しの自己批判と自己判断を加えると、即座に、追加のつらい感情があなたの体験に加わる(通常は、罪悪感、恥、もしくは、自分に向けられた怒りという形で)。

・さて、今やあなたはさらに申し訳なさ・恥を感じている、これは、あなたをソーシャルメディアや同僚とのおしゃべりの様な安い気晴らしに没頭させる力を意味する。その結果、あなたが怠慢し集中を欠くことになる確率がさらに高まる。

その一方で、この最初の怠けたいという欲求は、実際には、驚くほど簡単に乗り越えられる、あなたが、すぐに自責して、難しい感情の束をそこに加えることさえしなければ。

あなたが怠けたいという欲求を感じた時に、少しのセルフ・コンパッションを実践すれば、あなたは、遥かに高確率で、怠けるという誘惑に抵抗し、仕事に戻るだろう:

 ・自分の思考が自分に何か別のことをやらせたいと思っても、それは道理である、なぜならば、これらの報告書は本当につまらない。だが、私はわかっている、集中してこれを片付けてしまえば、もっと楽しめる仕事に取り組める時間が増える。

 

 ・皆、誰でも怠けたいと思うことはある。それで私が怠け者になるわけではない。それは私の性質に関することと言うよりは、私がやらなくてはいけない仕事の種類に関しての話だろう。

代わりに、あなたは自分自身に、ちょっとした、もしくは、少しの時間の怠けを許すかもしれない、そして、比較的早く仕事に戻るかもしれない:

・ちょっといいかな…、今日は長い一日だったんだよ。この怠けたいという欲求は、私の心が少し休憩したいと言っているだけかもしれないよね?10分間、散歩に行ってポッドキャストでも聞くかな、それから戻って仕事を再開しよう。

いずれにせよ、要点はシンプルだ:

セルフ・コンパッションは、セルフ・ジャッジメント(自己判断、自分で自分を評価・批判すること)よりも遥かに、あなたに、集中力と生産性を維持させる。

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4.より良いセルフ・エスティーム(自信、自己肯定感)

私が気に入っているセルフ・エスティームの定義は、ツイッターのプロボケティアー(*agent provocateur:人をそそのかして違法行為をさせようとする人、工作員、扇動者、ここでは仕掛け人というニュアンスか)であるNaval Ravikant(*インド系アメリカ人起業家・投資家。起業や起業の初期段階に投資する個人投資家や求職者の支援ウェブサイトであるAngelListの共同設立者、ウーバー・テクノロジーズやツイッターなど200以上の企業の初期段階に投資した)によるもの:

セルフ・エスティームは、自分が自分自身に持つ、ただの評判・一般的見解にすぎない

もう少し嚙み砕いてみよう…

 ・セルフ・エスティームの低い人たちは、自分自身を信じていない:彼らは自分が十分に、良い、もしくは、価値がある、もしくは、愛されるだけの価値がある、などとは信じていない。

 ・この否定的な自己信念はどこから来るのか?うむ、おそらくは、幼少期のどこかで始まった:冷たく、思いやりのない親、もしくは、それに類似する何か。

 ・だが、低いセルフ・エスティームの原点がどうであれ、あなたが、いまだに低いセルフ・エスティームに苦しんでいる理由は、今現在の何かがそれを維持しているからだ。

 ・そして、低いセルフ・エスティームを維持させる大きな要因の一つは、ほぼ常時行われる、自己批判的で自己判断的な思考にある。

 ・あなたが信じるもの(あなたが自分自身について信じていることを含む)は、あなたの考え方の結果である。

 ・なので、あなたが、常に、自分自身のことを批判的に考えているなら、当然、あなたは良いセルフ・エスティームを持つことはない。

Navalの言う、セルフ・エスティームは自分が自分自身に対して持つ評判、という考えに戻ると、

 ・もし、あなたの人生で、みんながあなたの事を悪く言っていたとする、その場合、他人のあなたに対する評判は酷いものだ、そうでしょう?

 ・ふむ、これと同じことが自分自身に対しても言える:もし、あなたが、常に、自分自身に対して悪いことを言っていたなら、あなたの自分自身に対する評判はとても酷いものになるだろう!

で、この自己批判と低いセルフ・エスティームの泥沼に対する解毒剤が、セルフ・コンパッションである。

もし、あなたが自分自身に関する良い評判を築きたいなら、自分が尊敬する何かをすることを始める必要がある、そして、自分自分に対し敬意を持って語り掛ける。

だが、あなたが、それをしていると、とても厳しい時が来るだろう、もし、あなたが自分自身を常にボコボコに叩き潰すことに対して中毒・依存症になっていた場合には。

一方で、もしあなたが、自分に対して、もう少しだけ親切、思いやり・同情的になるという習慣を持つことができれば、あなたは、自分が誇らしいと思えることをすることを始められるだけの、たくさんの元気と精神的余裕を持っていることに気づくだろう。

そして、それは自分自身のことをより良く思えることにつながり、やがては、より高く、より健全な、セルフ・エスティームへとつながる。

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5.より良い自己認識

セルフ・コンパッションが上手くなることによる、大きな恩恵の最後としては、あなたを、より自己認識的にさせること。

私は、「好奇心は、純粋な知識獲得と、さらには知恵の獲得においても、原動力である」という考えの相当に強固な信奉者である。これは、私の経験からだが、人が自分自身に対し、外的な理由から、情報を学び、吸収することを「強いる」時、頭に残りにくいように感じられる。

一方で、純粋な好奇心から、情報を学び、吸収しようとする人たちは、遥かに大きく、そして豊かに、その情報を自分の中に取り込める傾向にある。

私が、学習における好奇心に注目したのは、自分自身について学ぶことは、生物学や数学や音楽理論を学ぶことと同様に重要なことだと考えるからだ。

自己認識は、自己(に対して)興味・好奇心(を持つこと)から始まる

あなたが、自分自身の思考や感情、信念、性格、気分、自己性、期待、そして、それ以外のあらゆるあなたの側面について、純粋に興味と好奇心を持つ時、とても簡単にそれらを深く理解できる。

だが、重要なのは

自分自身に対し好戦的である場合、自分自身に対して興味を持つのは難しい

もしあなたが、常に、自分自身と、そして自分の思考と、戦争をしていた場合(自分自身を、些細な失敗について、軽蔑し、ヤジを飛ばし、自分を裁く時)、一体どうして、自分自身に対して真に好奇心を持つ余地があるというのか?

そして、自分への興味もなしに、どうして純粋な自己認識を得ることができるというのか?

セルフ・コンパッションは、あなたが自分自身に対して興味を持てるようにあなたを解放することで、自己認識を改善する…

 ・自分の不安に対して、すぐに、悪いものとラベルを貼って、コーピングスキルの道具箱に手を伸ばしそれを消去しようとする、のではなく、その代わりに、セルフ・コンパッションは、自分の不安と寄り添い理解しようとすることを可能にする。

 ・腹が立ったからといって即座に自己判断をする代わりに、セルフ・コンパッションは、あなたが「自分の怒り」に耳を傾け、その役割を理解することを可能にする。

 ・後悔の念に苛まれることから、即座に、自分の注意を逸らす代わりに、セルフ・コンパッションは、あなたが、自分の悔しさに寄り添い、そこから学びを得ることを可能にする。その結果、それにうまく対処・管理できる健全な方法を学習する。

自分をより良く理解することができるようになって初めて、自分をより上手く管理できるようになる。

だが、自分自身を常に攻撃していた場合、あなたは自分を理解することはできない。

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セルフ・コンパッションの練習方法:5つの実践のコツ

ここまでこの記事に4000文字以上を費やしてきたが、思い出してほしいのは、セルフ・コンパッションは特別に複雑なものではないということ:

セルフ・コンパッションの意味とは、つらい時に、自分自身に対し、あなたが親友に対して接するように、接すること。

ということで、セルフ・コンパッションの実践・訓練が実際にどんなものか、そして、上手くやるためのコツはどんなものか、を詳しく見ていこう。

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1.痛みを認知すること

本能により、我々は痛みを回避しようとする。

熱いストーブに手が触れてしまった時に手を引っ込めること、自分の後悔をアルコールに溺れさせること、痛みを避けることは至って普通の本能である。

そして、危険を告げる(熱いストーブに手が触れた)痛みに対しては、避けることは適切な戦略だが、一方で、痛みが危険ではない場合においては、実際には、無用なものである。

例えば、どれだけ喪失のつらさが酷く感じられたとしても、悲嘆・悲痛はあなたを傷つけることはできない。

だが、もし、あなたが、常に、それから逃げている、もしくは、それを除去しようとしているならば、あなたは自分の脳を、それが危険なもの、もしくは、悪いことであると信じるように訓練している。

つまり、おそらくは、悲嘆さに加えて、あなたは恐怖と恥・申し訳なさを感じる。

この感情的な痛みの合成という悪循環の解毒薬は、自分の難しい感情を、避けるのではなく、認知すること。

例えば:

 ・破局、もしくは、離婚から数か月後、何かがあなたに別れたパートナーのことを思い出させた、あなたは悲しみに圧倒された。すぐに自分の注意をそこから逸らそうとするのではなく、その代わりに、「私は今とても悲しい。そして、痛みと怒りも少し感じている」と言うことによって、あなたはその感情の痛みを認知することもできる。

 

 ・十代の息子がパーティーに出かけている時、息子がするかもしれない様々な不味い選択が頭をよぎり、あなたは不安を感じ始める。自分の不安を取り除くために、繰り返し、彼に電話をかける(安心させてくれる言葉への希求行為)のではなく、その代わりに、自分自身に対して「私はベンのことが心配だ、私はとても不安で恐れている」を言うことによって、あなたは自分の不安と恐怖を認知することもできる。

さて、これは、一見すると、簡略化しすぎ(ただ自分の気持ちを認知するだけ)に思えるかもしれない。だが、以下の二つの点を念頭に置いてほしい:

 1.これは、セルフ・コンパッションの、初歩に過ぎない、まだ先はある。

 2.たとえ、これがあなたに、感情の痛みからの即効の安堵をもたらさないとしても、それを避ける代わりに、それを認識することは、長期的には、遥かにより力強いことをする:それはあなたの脳を、痛々しい感情を恐れないよう訓練する。言うなれば、感情的な自信を作る。

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2.痛みを承認する

自分の痛ましい気持ちを、明確に言葉にすることによって、認知することができれば、次なる一歩は、それらの気持ちを承認すること。

自分の気持ちを承認するとは、自分自身に対して以下のことを思い出させること:

 

 1.あなたの気持ちの感じ方に問題などないということ。難しい感情は、恥じ・申し訳なさ・嫌な気持ちを感じさせるが、その感情が悪いものであるという意味ではないし、あなたが悪いわけでもないということを、自分自身に思い出させること。

 

 2.あなたの気持ちの感じ方は尤もである・道理に適っていること。その気持ちが理に適ったものであろうがなかろうが、もしくは、完全に納得できようができまいが、あなたが、その気持ち・感情を持ったことには、何かしらの原因・理由はある。

以下、自分のつらい感情を承認するということがどういうことか、明確にするためのいくつかの例:

仕事の会議が終わってその場を去った後で、あなたの頭に思考が浮かぶ、同僚の話に対して自分が言った冗談は自分が思ったようには良く受け取られなかった。

もしかしたら、彼らは自分に対し本当に怒っているかもしれないな。

その結果、あなたは本当に不安と恥を感じ始める。

だが、あなたは我に返り、思いとどまり、不安と恥を感じたことを認知する、それから以下のことを自分に語り掛ける:

 

 「う゛あ、私はこんな不安と恥を感じるのは嫌だ、でも、私がこういう気持ちを持ったことに問題はない(不安と恥を感じることは私を傷つけない)。

それに、これは、配慮が欠けたことを言ってしまったかもしれない時の普通の反応だ

というか、事実、良いことかもしれない、なぜなら、それは私に同僚に確認させてくれる、もし失礼だった場合は謝罪させてくれる」

自分のつらい感情を承認する別の例:

あなたは自分の伴侶と、自分の成人した子供がこれ以上実家に住み続けることを認めるかどうか激しい議論になった。

あなたは自分が怒り、傷つき、自己防衛的になっているのを感じた。

だが、あなたは、それらの感情をキャッチして(捕まえて)、認知する、そして自分に語り掛ける:

 「オーケー、こんな気持ちを持つのは楽しいことじゃない、だが、私が自己防衛的になっているからといって、私は怒りを行動に表したり、何か辛辣なことを言ったりする必要はない。

難しい会話において少し自己防衛的になるのは普通のことだ。

事実、もちろん私は自己防衛的である、ーーというか、自分の確固たる信念を批判されて、守勢にならない人なんていないだろう?」

留意しておいてほしいのは、このすべての自分のつらい感情を認知し承認するプロセスは、長かったり、時間を浪費したりするものではない。

ほとんどの場合、文字通り、数秒のセルフトーク(独り言、自分への語り掛け)である。

認知は、何かが申し訳ない・恥・悪いと感じられたからと言って、それが悪いことではなく、また、あなたがそれを感じたことが悪いことでもないという考えを強化するだけでなく、それに加えて、感情の抑圧に対する減圧弁のようなものでもある:単純に自分の感情を認知し承認・肯定することはその感情の激しさを弱める(多くの場合、劇的に)。

3.建設的な比較

自分を他人を比べることは、ネガティブ(否定的)なこととされる場合が多い:ソーシャルメディアでのセルフ・エスティームが抜き取られてしまう比較から、仕事の同業者とのやる気の削がれる比較に至るまで、それらに共通する助言は、ほとんどいつも、「自分を他人と比べるのはよせ」である。

だが、不健全な場合があるからと言って、常にそうであるとは限らない。

そして事実、セルフ・コンパッションにおいては、他人と比べることは、とても有用なことになりうる。

建設的な比較とは、自分の葛藤を他人の葛藤と比べることによって、その葛藤をしているのは自分だけではない、自分自身に思い出せること。

例えば:

 ・あなたは、数か月前に始めたハウス・プロジェクト(新築の計画?)をなかなか終えられない。

 あなたはそれについて怠けていて、怠けていることについて申し訳なさ・恥を感じている、それによってさらに終わらせるためのやる気が削がれている。

 自分の怠けたいという欲求を認知して承認することに加えて、あなたは自分に、誰でも怠ける時はある、と思い出させるかもしれない。

 そして実際、自分が気づいているよりもずっと、他の人たちは怠けているかもしれない、なぜなら、怠けは自慢したいことでも見せびらかしたいものでもない。

 ・もしくは、あなたは仕事で講演をすることになっていて、自分が本当に緊張していて心配しているのを感じているとする。

 おまけに、否定的なセルフトーク(独り言)が頭に浮かんで、これまで何度もやってきたことなのに、こんな風に感じるのは馬鹿げている、とあなたに語り掛ける。

 こういう瞬間、セルフ・コンパッション的な部分は、建設的な比較を使おうとする、あなたの友人と同僚(彼らのプレゼンの技術をあなたは尊敬している)が「プレゼンの前はいつも緊張する」とあなたに秘密を漏らしていたことを思い出させる。

建設的な比較は、我々に、自分だけではない、と思い出せてくれる、ゆえに、セルフ・コンパッションの鍵である。

そして、ほぼ常に、我々の感情の葛藤の大部分は、自分だけが、という気持ちに関するものである。

我々は、他人の感情の葛藤の例をたくさん目にすることはないので、自分だけが違う・異質であると思い込む。

そして、これは、申し訳なさ・恥を感じた時に、自分は何か間違っているのではないか、という無用の信念を強めるだけ。

だが、少しの建設的な比較は、自分の葛藤における孤立感・孤独感を弱め、そして、自分の挫折に対してより思いやりを持つのために、とても有用となる。

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4.自分の価値(バリュー、自分にとって大事なこと)を明確化する

自分のつらい気持ちの認知と承認が済み、そして、少しの建設的な比較を済ませれば、セルフ・コンパッションへの次なる一歩は、自分の価値を自分に思い出させること。

さて、バリュー(価値)というのは、大きく、多くが詰め込まれた用語だと思う。

私がここで言っている「自分の価値を明確化する」とは、単純に自分に「私は、本当は、何をしたい・求めている、のか?」と問うことである。

ほら、申し訳なさ・恥・気分の悪さを感じることに関する大きな試練の一つは、我々が、非常にネガティブなマインドセット(否定的・悲観的な心構え)に陥りがちなことだ。

たとえ、あなたがセルフ・コンパッションの有用な部分である、自分のつらさを認知し承認すること、自分にその辛さを感じているのは自分一人ではないと思い出させること、を実行している時でさえ、あなたは、まだ、自分がやりくないことに集中している。

そして、常に、何が間違っているのか、に集中していると、過剰にネガティブなマインドセットに陥り易くなる。

一方で、少し時間、意図的に、自分の価値(あなたにとって本当に大事なもの)について鑑み、明確化するならば、あなたは自分の注意をポジティブな未来へと向ける。

そして、これがセルフ・コンパッションの最高の行いの一つである。

なぜなら、それは自分自身の思考に対して、あなたは自分の問題とつらさだけではない、と意思伝達をする。

あなたの現在の苦しみ、もしくは、葛藤が酷いものであるのと同じ様に、あなたには葛藤以外のものもある。

あなたには目標があり、願いがあり、価値があり、求めるものがあり、そして夢がある。

さて、あなたの価値を明確化することは必ずしも壮大である必要はない…

 

 ・それは、忍耐は、あなたが何よりも大事にしていて、成し遂げたい美徳である、特に、自分の伴侶との難しい話においては、と自分自身に思い出させることのように単純なものにもなりうる。

 

 ・それは、成長と学習は自分にとって重要だ、と自分自身に思い出させることかもしれない。そのどちらもが何かしらの過ちや失敗なしには起こりえないものである。

セルフ・コンパッションとは、ネガティブなことに対して優しくある、というだけではない;自分自身に対してポジティブなことを思い出させることでもである。

もう一度言う、「自分の価値を明確化すること」は特別に複雑なことではない。それは、ただ、つらい時、もしくは、あなたが葛藤・奮闘をしている時に、自分にとって一番大事なものを思い出すことが、とても有用となりうるということ。

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5.肯定的に行動する

おそらく、セルフ・コンパッションの究極の形はアサーティブネス(*申し訳なさ・恥・気分の悪さを顧みず、自分の価値に乗っ取った行動をする勇気を持つこと)だろう。

例えば、アサーティブに行動するという意味は:

 

 ・あなたが不安を感じていても、自分自身に対し、この講演をするのは重要であり、自分にとって有意義である、そして自分は、いずれにせよ、それをする、不安であろうがなかろうが、と思い出させること。

 

 ・腹を立てていても、自分自身に対して、自分と妻との関係は、何かについての意見の相違よりも大事である、だから、自分は舌を抑えて、皮肉を言うのを控えるのだ、と思い出させること。

 

 ・自分の創作の趣味で怠けたいという欲求を感じていても、自分自身に対して、自分の想像力を表現することがどれだけ自分にとって大事なことか、そしてわくわくしなくても、やる気がなくても作業をするんだ、と思い出させること。

価値の明確化と同じように、アサーティブネスもセルフ・コンパッションの重要な要素である。

なぜなら、それは「我々は、その時々の自分の気持ちではなく、それ以上の存在である」と思い出させてくれる。

それは、我々の価値と目標が、少なくとも我々のつらさと苦しみと同じだけ、我々を定義するのだ、と思い出させてくれる。

自分の気持ちに関わらず、あなたが自分の価値を追うことを決断した時、あなたは自分自身に対し、お前が求めているものはお前が求めていないものと同じだけ大事なんだよ、と意思伝達をしている。

そして、あなたは、瞬間的な思い付き・気まぐれや衝動に関わらず、自分には自分が希求する人生を生きる価値がある、という信念を増強する。

アサーティブネスはセルフ・コンパッションの行いの一つである、なぜなら、それは我々に、我々は自分たちの問題だけではない、それ以上の存在(遥かにもっともっと価値のある存在)だと思い出させてくれる。

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最後の雑感

とにかく、私が望むのは、このガイドが、あなたがセルフ・コンパッションに対して少し違った考え方をする役に立ってほしいということ。

私は、これがあなたに、少しの優しさと思いやりは、自己批判と自己判断よりも、遥かに物事を前に進める力がある方法になることが多い、という観点に立たせることを望む。

そして私は、これが、少なくとも、あなたが自分の人生において、試しにもう少しセルフ・コンパッションを持ってみるか、という気持ちにさせることを願う。

最後に、セルフ・コンパッションは難しくないことを覚えておいてほしい…

「セルフ・コンパッションとは、つらい時に、自分自身に対して、自分が親友に接するように、接すること」


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