見出し画像

仏の教えが生み出し、父子のすれ違いが未来につなげた「初恋の味」―山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』


1.カルピスが生まれた源流は「仏教の危機感」だった

「初恋の味」から広がる世界は途方もないスケールだった。

カルピスは日本人なら誰もが飲んだことがあるだろう。「初恋の味」というコピーとともに長い年月にわたり親しまれている。本書はこのカルピスを作った稀代の経営者、三島海雲の評伝だ。

単に三島の生涯を追っているだけではない。彼の人生にまとわりつく様々な歴史人物、近代の日本仏教、モンゴルと日本、戦争、当時の世相など、あらゆる事柄がぎゅうぎゅうに詰まったカルピスの原液のような濃ゆい本である。

三島は浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)の寺の跡継ぎとして生まれた。実際に僧侶の教育を受け、僧侶として中国にわたり日本語教師として活動している。そのかたわらでビジネスを手がけた彼が出会った土地がモンゴルだ。モンゴルで乳製品の効用を知った彼は日本に帰り、乳酸菌飲料のカルピスを作ったのである。

明治時代、日本で仏教がどのような立ち位置にいたかは彼の足跡をたどる上で非常に重要だ。実はこの時期、日本の仏教は「最大の危機」をむかえていた。

当時、国は神道を国教にし、キリスト教は積極的に布教活動を行っていた。特にキリスト教が脅威だったのは教育や医療の事業に参入したことだ。単純に思想を持ち込むだけじゃなく、欧米の知見を活かした教育・医療活動といった社会インフラの整備への貢献は日本におけるキリスト教の勢力拡大をもたらしていた。

この危機に対して西本願寺も様々な手をうった。特に三島の人生に大きく関係あるのが「教育の充実」、「海外への進出」、「積極的な戦争協力」の3点だ。

まず「教育の充実」である。キリスト教系の同支社の設立に刺激を受けた西本願寺は、文学寮という「僧侶のエリート教育機関」で仏教・僧侶教育に力を入れた。三島はここで教育を受けている。そしてここに通っていたことで中国行きのチャンスを得たのだ。

西本願寺は、仏教のすばらしさを海外に宣伝しようと積極的に大陸へ進出を図った。布教活動はもちろんのこと、法主である大谷光瑞の肝いりで大谷探検隊を結成し中央アジアに派遣した。欧米諸国に先駆けて「仏教に理解のある」我々がアジアにある貴重な仏像や経典を調査して仏教の価値を高めようといった試みである。このような「海外への進出」により西本願寺の関係者が海外で活動することになり、その縁で三島に中国での日本語教師の誘いが舞い込んだのだ。

日露戦争が起きた際、大谷光瑞は西本願寺の長として次のように声明を出す。

日本がロシアに宣戦布告すると西本願寺の法主大谷光瑞は次のような声明を出した。挙国一致して戦争に向かわなければならない。真宗門徒は死を覚悟して兵役などに積極的に協力し、軍費も惜しまず出しなさい。それが国民としての役割であるとともに「王法」を重んじる真宗門徒の本分である。教団として戦争に協力しなければならないのだ、と。

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p96

「積極的な戦争協力」を明確に打ち出したのだ。組織内に臨時部をつくり、国への資金協力、兵士の送迎、留守家族の慰問、戦死者の葬儀など日本の宗教界では際立った協力を行った。さらにはまるで戦国時代の一向一揆を想起させるような兵士への活動も実施された。

西本願寺の戦争協力で、特筆すべきは従軍布教使と呼ばれた僧侶たちの存在である。
「お坊さんを戦地に送り出した。とはいえ、お坊さんが直接戦ったわけではありません。従軍した僧侶たちは戦地で軍事布教を行いました。『ここで死んでもお浄土に行ける』と兵士たちに説いたんです。日清戦争に出征した従軍布教使は一三人でしたが、日露戦争では一〇倍以上の一五〇人もの僧侶を戦地に送り出した。いかに教団が日露戦争に賭けたか、分かるのではないでしょうか」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p98

さて、戦争で日本に必要だったものが軍馬である。ここで三島の登場だ。彼の会社にも馬の買い付けの依頼がくる。そこで彼が調達のために向かったのがモンゴルなのだ。そして彼は乳製品と出会うことになる。

このように三島の人生を追っていたつもりが、彼の周辺に話が進んで当時の世界が立体的に現れてくる。ここでは「近代の日本仏教(特に西本願寺)」を取り上げたが、これと同じくらい濃い話がいくつも出てくる。この本にのめり込んでしまう魅力のひとつだ。

2.仏教の精神と自己投資の思想

本書を読み進めるほど僕は三島の魅力にひかれていった。他の経営者とも違う唯一無二の個性と思考をもった人物だ。なぜ違いが生まれるか。それは彼の思考の根底には仏教の教えが根付いているからである。

彼の特異な経営哲学に「必要なときに金はどこからか出てくる。金が出てこないのは、それは必要な金ではないからだ」というものがある。会社の経営には当然お金は必要不可欠だ。しかし三島は生涯にわたりこの浮世離れした経営哲学を貫いた。

これは彼が学生時代に学んだ仏教学者・前田慧雲の教えに影響を受けている。前田は次のように三島に語った。

「世の中ではね、金をえることは大変難しいことのようにいうが、案外たやすいものだ。必要な金はどこからか湧いてくるものだ」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p279

三島の哲学は、現代にも通ずるある思想につながっている。それが「自己投資」だ。彼は社員にボーナスを支給するときにこう語った。

「君たちが努力してえたお金だから、貯金なんてしたらいかん。自分のために、自らを教育するために使ってほしい。必要なとき金は必ずどこかから出てくるものだから」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p279

受け取った金はあくまで自分のもの。だから自分のために使うべし。三島はこの「自己投資」の考えを社員だけではなく、家族、しかも幼い子供にも徹底する。

三島がお年玉をあげた孫に対して後日何に使ったかを聞いたときの話だ。母親に貯金してもらったと答えた孫へのいらだちを隠さずこう返した。

「お年玉は貯金のためにあげたんじゃない。君が何にお金を使うか知りたかったからあげたんだ」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p292

そんな三島が生まれ育ち、いずれ住職になるはずだった寺は、彼が後継を放棄して中国へ行ったため、別の僧が後を継いだ。現在の住職である塚田博教さんは、寺にゆかりのある三島についてこう評している。

ペンを手にした塚田は本堂に置かれたホワイトボードに向き合った。〈覚行窮満〉。太い文字でそう書いた彼は「これは、かくぎょうぐうまんと読む仏教の言葉です」と続ける。
「意味は、悟った通りに行動すること。つまり思ったことをすぐに行動に移す。それが、私たちが理想とする仏さまの姿なのです。海雲さんは、この寺を出て、中国に渡り、カルピスを開発した。ほかにも様々な分野に挑戦して、常に次のことを考えて実践してきた。海雲さんは、覚行窮満を貫いた人だったのではないか――そんな気がするんです」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p24

思ったことはすぐに行動する。必要なものや結果は後からついてくる。まずは動くことが先だ。未来の住職の座を捨てたとしても、三島は生涯徹底して仏教に生きる人だったのである。

3.すべては愛するカルピスのため

さて、ここまで僕は三島の人生とそれを取り巻く世界、三島自身が非常に魅力深いものだと書いた。しかし光があれば影もある。外から見た三島の魅力が光だとすれば、それに押し出されるように影になったものがある。それが家族、特に血を分けた唯一の息子である三島克騰との相克だ。

克騰はカルピス社の専務まで登りつめたがとうとう父親の後を継いで社長になることはなかった。こう書くと克騰はさぞ暗愚であり、おかざり役員だったのだろうと思うかもしれない。

だがそれは違う。三島は唯一無二の魅力と個性を持つ経営者だ。それは会社を発展させることと引き換えに、社内では誰も彼に物申せない環境を作ってしまった。そんな三島にただ一人反論できる社内の人物が克騰だ。たとえその意見に対して三島が怒ったとしても克騰は臆することなかった。

この父子が大きく対立したエピソードが本書に記されている。三島は、日露戦争の日本海海戦で大活躍した戦艦三笠のために新聞1ページの広告を載せることを決定する。もちろん社内の人間は誰も止めない。それを後から知った克騰が父の決定をひっくり返して広告を取りやめたさせたのだ。

これは父が戦争賛美で、子が戦争反対という単純な話ではない。三島は日露戦争の時代を肌身に感じている。ロシアという大国に日本が蹂躙される危機感、それを跳ね返した日本。三島にとって日露戦争は日本が平和がつかみ取った出来事だった。だからこそ平和を祈って三笠の広告を出そうとしたのだ。

では克騰はどうか。太平洋戦争の終戦時、彼は満州カルピスの社長として家族ともに満州にいた。そこで彼が見たものは「青酸カリを入れて自決をする」ために自分の家へカルピスを求める人々の姿だ。その人々の頼みを受け、彼は工場までカルピスを取りに行き皆に渡したのだ。自分を頼りに逃げてきた若者がはソ連兵に射殺された。自分も家族と一緒に満州から命からがら引き揚げてきた。戦争が生んだ地獄を見てきた克騰には、カルピスを戦争に結び付けることは自分のすべてを賭けてでも止めなくてはならないものだったのだ。

三島父子はともにカルピスに平和を託した。しかし託す思いは同じでも二人はすれ違い続ける。克騰は暗愚ではなかった。独裁者になり得る父を止める勇気と頭脳もあった。しかし父にとって息子の能力は後を継がすにはどうしても物足りないものだった。そして息子も自分の足りなさを自覚していた。

二人のすれ違いは三島が亡くなるときまで続く。彼が危篤のとき、克騰はタイミング悪く妻と海外旅行中だった。どこまでも交ざり合わない親子だ。しかし三島は孫たちがかけつけるとこう言った。

「カツか、カツか」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p339

危篤状態で呼び続けたのは後継指名をあきらめ、最後まですれ違った息子の名前だった。その後、三島は自らの手で酸素吸入器を外して最期の言葉を叫ぶ。

「カツ、すいません!」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p342

三島は息子に何を伝えたかったのか、何が「すいません」だったのか、それは分からない。そして息子である克騰がこの父の最期を知って何を思ったかも本書からは読み取れない。

克騰は、三島の存命時に家族から早く会社を継ぐようにせっつかれたことがあるという。だが彼はきっぱりとこう答えた。

「社長になんかならなくてもいいじゃないか。カルピスが愛されることが一番なのだから」

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』p322

三島海雲は、決して魅力ばかりの男ではない。まばゆい魅力の影には彼に振り回される者たちも少なくはなかった。しかし間違いなく彼が素晴らしいものを残した。

ひとつは「初恋の味」カルピス。そして一人は誰よりも、ひょっとしたら三島本人よりもカルピスを愛した心優しき息子であった。

本の購入費に使わせていただきます。読書で得た知識や気づきをまたnoteに還元していきます!サポートよろしくお願いいたします。