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聖蹟桜ヶ丘 現地レポ②

以前に出しておいた聖蹟桜ヶ丘のレポートの続きだ。
前回も思ったが、人が住んでいるところについて「レポート」という言い回しはなんとも偉そうで収まりが悪い。特に今回は「永山五丁目」付近の話で、聖蹟桜ヶ丘周辺以上に思いっきり居住地区であるため、結構やりづらい。

なるべく言葉を選ばねばならない難しさが、現地に赴いてから1ヶ月近く書きしぶった原因の一つでもある。
記事が大幅に遅れた原因は、ほかにもSHHis実装で情緒が狂わされたことにもあるのだが、あらかじめ浅倉透についての記事を先んじて書いておきたかったという意図によるところも相当大きい。

なぜそれにこだわったかと言うと、永山五丁目付近を歩きながら同行者たちと話していたことの多くが浅倉透の話だったからだ。
ちょうどその直前から僕は浅倉透に狂い始めていて、そのことはみんなに共有していたし、そもそも浅倉と樋口の家について築年数やら間取りやらDiscordで3時間話し合った仲間なのだから、永山五丁目で透のことばかり話したのは必然と言えば必然だった。

だから、僕の永山の記憶はほとんど透に紐づいているし、みんなと別れたあとに駅ビルの喫茶店で書きなぐったメモもだいたい透を通したものとなっている。
この記事が透に関連させて永山の話をするのも必然と言えば必然というわけだ。


京王永山→永山五丁目

まずは京王永山駅に集合して、そこからバスで移動した。

バスで。


浅倉透も乗っているであろうバスで。


企画者さんのプランニングが早速光ったポイントだ。

別に【10個、光】のネタバレをするつもりはないのだが、さすがにバスの描写があることくらいは察せられるだろう。

その時に透が見ていた景色がいかなるものであるか、というのを確認することができた。どっち方面から永山五丁目に来たかによって景色は変わるので、この時の場面と整合するかどうかは確定しないとしても、透がなんども眺めているはずの景色であるということが景色に圧倒的な意味を付与する。

世界に意味が満ちることがアイマスをやっているなかでの一番の生活の変化であり、醍醐味でもある。何が言いたいかというと、バス乗ってるだけで超楽しかったということだ。


永山五丁目

上の写真ではバス待ちの方がいてフレームから外しているのだが、右の方に階段がある。あの階段をどうしても登りたかった。

元から背景画像を平板だとは思っていなかったが、いざ、そのイラストに描かれていた場所に潜り込んでいき、歩んだ先から新たな視界を獲得してみるとバス停のイラストにはかつてない奥行きが生じる。

階段を登るだけで感動するなんてこともあるんだから分からないものだ。

ちなみに透のWINGで、この上にはベンチがあるという話をしていた。

あった。



さて、この近辺は団地と一戸建て住宅街がすっぱり区分されていて、計画的に整備された街という雰囲気だ。(実際そうらしい)
住宅街でも、似た雰囲気の家々が並んでいると思いきや道を挟んだ反対側はまったく性格の異なる雰囲気だったりする。

聖蹟桜ヶ丘でも感じた、場所が変わると印象ががらりと変わるという特徴はこの辺りにも該当するようだ。今回は行かなかったが、多摩方面へ行くと区域によって自然の取り入れ方などに違いがあって、やはり歩くたびに景色が変わるという話を聞いた。

場所により雰囲気はそれぞれだが、一貫して感じていたのは空間が広いということだ。個人的に団地や住宅街に抱いている印象は「狭苦しい」というもので、家がミッチリ並んでいたら歩いていても息苦しくなかろうかというものだった。別に自宅近所でそのように感じないのだから、よそ者の勝手な印象でしかなかったのだが、わざわざそのような印象を抱いていたと思い出したのは、しっかりと覆されたからだ。

住宅街はなるべく写真を撮らないようにしていたから写真は残っていないし、ネット上にあげるつもりもないが、道幅がやたらと広く、背の高い建築物が密集してもいないから空が広く確保されていた。植えられている植物も種類が変えられている様子で、初めて歩く分にはとても楽しい道だった。

歩道はこの辺りの目立った特徴でもあるらしく、車道と完全に分けられて続いている。ここで言う歩道とは車道の脇にある細い道ではなく、陸橋やそれに続く道が車道よりも高い位置に伸び広がっている道のことだ。
これも教えてもらった話だが、多摩のあたりまで車道に降りずに歩いていけるようになっているという。なんというか、随所に設計思想を感じる街だ。


団地街

この付近を歩いていてすごく気になったのが、街並みが立体的だということだ。高低差を感じさせると言えばいいのだろうか。

バスが走る道も切り崩したような、V字に両サイドが高くなっていた道路が多かったし、歩道に登るための階段がいたるところにあった。そういえば永山五丁目のバス停横もそうだ。

これは家ではなく交差点の写真なので許されるかなと思っているのだが、こういう場所が多い。右に見える陸橋を渡ってここまで歩いてきたときの写真だ。

そして、ここからもたしか見えていたのだが、一番高低差を感じさせるのが団地だった。

丘の上に背の高い団地が立っていたり、縦に伸びているものもあったし、何棟かが横にどしんと広がっていても階段状に高低差が作られている。同じ高さの棟が横に並んでいたという記憶はあまり残っていない。

高さに注目していたからか、どこにいても多くの窓が視界に入ってきて、特に上方にあるものだから見られているという感じがしていた。


そして言葉を選ばねばならないと意識させ続けている個人的感想なのだが、歩きながら「パノプティコン」を思い出していた。

パノプティコンとは、フーコーが『監獄の誕生』において取り上げた監視システムだ。人の住んでる場所を監獄に喩えているので弁明しなくてはならないのだが、そのためにまずはフーコーの議論を再構成させてほしい。

パノプティコンというのは、中央に高い塔があって、それを取り囲むかたちで囚人の居住場所がある監獄だ。ポイントは監視者が塔の一番上にいて、囚人たちがどこにいてもそこから見えるということだ。裏を返せば、囚人たちからは常に塔が見えているということで、必ずしもそこに監視者がいるとは限らないのだが、外から塔の内部は見えないので、囚人たちは見られている可能性につねに晒される。

その仕組みが、監視者を囚人たちの心の中に内包させて更生させるに至るのだ、というのが(ベンサムによるパノプティコンの紹介を元にして)フーコーが進める議論だ。

監獄に限らず誰かの視線は、悪事を後ろ暗いものと感じさせたりするもので、そのことをある意味では良心の芽生えと言い換えてもいいのかもしれない。
フーコーの議論の要点は、(鞭打ちなど身体へのアプローチと異なり)権力が主体の精神面に働きかけ従順な主体を作る仕組みがパノプティコンによく現れており、それは学校や会社などの集団でも働いている論理であるということだ。要するに、近代の主体形成に関する見通しをパノプティコンの分析から得ている。

僕のおぼつかない理解に基づけば、ひとの視線(誰かに見られている可能性)が規範を植え付ける、といった話にしてもいいのではないかと思う。職場でツイッターを開くのは人の目があるから憚られるけども、そういう振る舞いを許してくれる友達の前では話しながらツイッターを開いたりする。そもそも、人と話してるときに携帯をいじってはいけないという規範は携帯ができてから発生したもので、それを正当化せしめた経緯があるはずだ。それが携帯をいじってるときに怒ってきた人がいること、ひいてはそうした人の目であることはそんなに不自然な話ではない気がする。

なぜこうも大幅に脱線しているかというと、監獄のことを思い出したからと言って、そこでの生活が監獄のようだと主張しているとは思って欲しくないからだ。
どれくらい弁明に成功しているのか自信がないのだが、少なくとも言っておきたいのは、視線が人間を従順にせしめると述べたときの批判対象は学校どころか人がいる場所全般にまで広がってしまうし、社会生活を営むうえでの最低限のルールを教えること自体は必要なことでもある。批判と言っても必ずしも存在否定ではないということをなんとかご理解いただきたく言葉を重ねた次第だ。

そして、くどくど弁明しつつもこの話をしたかったのは、どこにいても視線を感じたという経験を大事にしたいからだ。

なぜ視線が大事かと言うと、浅倉透は天塵や感謝祭をはじめとする様々な場面で視線について言及しているからだ。それはあたかも今まであまり感じてこなかったものであるかのように言及される。
そうしたことが引っかかっていたために、僕がこれほどまでに視線を感じた場所も、透に対しては視線に対する麻痺・盲目へと至らしめる環境だったのではないかと思いついたのだ。

透が自分のことを見ているとはっきり認識できているのはノクチルや家族とプロデューサーくらいのような気がしている。たとえば、『アジェンダ283』で缶蹴りをしていたことからも真乃の気持ちを汲んでないような節がある。これを、真乃がどのような気持ちで缶蹴りをする透たちを見ることになるかに対して盲目である、と言い換えたくなる。

個人的に、視線に鈍感そうということと基本的にウチら内部での規範しか持ち合わせていなさそうなことは結びつくと思っている。この話は追ってしたいと思っているのだけど、今回ひとまず、視線を感じさせる場所であるということで逆説的に考えさせた透の人物像についてのあれこれを簡単に披露してみた。



最後の方は、永山の話というよりも永山で考えた話になってしまったのだが、その場ではじめて気づけたことだと思う。
場所が思考を方向付けるというか、やはり人間は身体的な存在でもあるんだなと思ったりした(大げさすぎるか)。

ともあれ、個人的にはとても刺激的な経験で、楽しくて楽しくて本当に行けてよかった。

(一緒に巡ってくれた方々には、この場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました)

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