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「ネタ」を「ベタ」にやるスキル

 昨日の記事では「加点法で考えているかぎり、さほど不快にはならない」といった話を書いたのだが、もちろんそのように考える私はきっと少数派に属するのだろうという点について自覚はある。

 mentaneさんがこのように書かれているのはたぶんそのとおりで、私がキャバクラのようなものが苦手なのはおそらくこれが原因だし、ミッキーマウスにしても「そういうものとしてミッキーを楽しむというロール」をプレイして見せることは可能であるが、それはあくまで「お芝居」としての楽しみ方である。そして、舞台の上で役柄を適切に演じきるということにはそれなりのコストが伴うから、無償どころか金を払ってまでそういうことを敢えてしたいという人たちに関しては(批判ではなくて純粋に)「私とは違うのだなあ」と思っている。

 とはいえ、私ほど極端ではないにしても、事実とは異なる「お芝居」について、そういう「お約束」と理解した上で、意識的にロールプレイをするということであれば、大人なら日常的に当たり前にやっていることだろう。たとえばミッキーマウスにしても、本当に心からあれがそういう生き物であって、中に人が居ることなどあり得ないと僅かの疑念もなく確信している大人というのは、非常に少ないに違いない。

 もちろん、事実を皆が知っていても、それでも互いに「お約束」を守り、呼吸を合わせて「お芝居」をやりきってしまうというのは大人にしかできないことであり、場合によってはとてもカッコいいことでもあると私は思う。ただ、それはその場にいる人が全て「ネタ」を知りながら敢えて「ベタ」を演じてみせることからくる「粋」なのであり、自分はあくまで「お芝居」をやっていると思っていた時に、実は参加者の半分くらいは、それをガチガチのリアルだと思ってやっていたことが明らかになったりすることがあると、これはいきなりホラーに転化してしまう。

 そういう「個人的なホラー案件」は、これまでの私の人生にも多くあった(ひょっとしたら、「人生」というもの自体がそうだった可能性もある)。しかし、他方で「お芝居」を演者として楽しむという時に、自分が芝居をしているという意識を失ってしまうほどそれに没入してしまうということは、むしろその歓びを十全に享受するためには不可欠のことであるのかもしれず、そんなことを考えていると、やはり「ネタ」を「ネタ」としてではなく「ベタ」として楽しめるということは、(私にはない)一つのスキルには違いないのだろうと思ったりもするのであった。

(※以下は、購読者向けのコメント。「ステマ」のこととか)

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