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「正しさ競争」はほどほどに

 最近はとにかく svadharmaに注力していて忙しいせいか、他人から「誤解される」ということが、あまり気にならなくなってきたように思う。私は基本的に「説明厨」なので、いまでも自身の疑問をクリアにするために真摯に問うてくる人に対してはいくらでも「説明」するつもりはあるけれど、十分に言葉を尽くした上で、それでも誤解する人たちについて、差し迫った必要もないのにそのこと自体をなんとかしたいとは、あまり考えなくなったということである。

 たとえば先日の沼田牧師との対談キャスにおいて、いわゆる「加害性のある弱者」問題につき、私は「対応のレイヤーを分けることが肝心だ」という話をした。

 上掲のエントリでも述べてあるとおり、他者に対する加害的な言動が「非難されるべき」であるというマクロの規律を維持した上で、その種の人たちの他害的な振る舞いを個々に差し止める必要があることは当然だと私は考えている。そこで害される側の人々が、黙ってそれを受忍すべき義理も実益も存在してはいないだろうと思うからだ。

 他方で、そのように自身の加害的な言動を正当に非難された人たちが、そのまま放置され排除されるべきだとも私は考えていなくて、彼/女たちには人間対人間のミクロの関係に根差した「ケア」が、適切に行われることが望ましいという見解も、キャスの中では明示的に述べている。

 こうした「マクロの規律とミクロのケア」という両者のレイヤーを分けた対応が、必要でありまた有効でもあると考えられることに関しては、痴漢や麻薬の比喩なども適宜示しつつ、キャスの中でもnoteの記事でも、繰り返し語っておいたところである。

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