見出し画像

説明厨が治らない

また長大な記事を書こうとしていたので、ハッと気がついて全て消した。そもそもnoteの最初の記事は、「ぐにゃぐにゃ作戦」だったはずである。そのようにユルい感じで書いていく場所であったはずなのに、気がついたら大きな問題を頭の中に浮かべていて、それを説明するために、いちいち段階を踏んだ解説文を書きはじめてしまう。これではいつまでたってもぐにゃぐにゃできない。

こういう自分の病気のことを、私は「説明厨」と呼んでいる。何かについて語る時には、まず「一般的な日本人の認識」というのを仮想的に頭に浮かべて、彼らが抱くであろう疑問をいちいち前もって列挙した上で、それらが文末までに全て解決されるように、文章を組み上げていこうとするのである。それはあたかも、大きなレゴ作品の完成形を脳裏に浮かべて、一つ一つのブロックを組み合わせていくようなものだ。だから私の話は、いつも結論からすると、「なんでこんなところから」という、迂遠な地点から開始されるのが常である。

これが聞き手の反応をダイレクトに見ることのできるインターネット放送等であれば、前提や論理の階梯を多少飛ばしても、現在の聞き手が理解できているようなら普通に話を進めていけるのだが、文章の場合は自分自身のツッコミだけが相手なので、細かい論理の穴や、想定される疑問に全て答えようとしてしまい、それでどんどん言葉の量が増えるのである。

この「説明厨」という持病を治すために、毎日書くことで文章を軽くしようと試みているのだが、それで結局、毎日重い文章を書いているのでは世話はない。とくに仏教に関するきっちりとした説明は、『仏教思想のゼロポイント』で、既にいったん完結しているのだから、それをここで再びやってどうするのか。

というわけで、少なからず反省し、瞑想について書いていた長大な解説文は全て消した。明日からは、ミャンマーの仏像の顔のように、ほよんとした感じでやっていきたい。


ここから先は

0字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?