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出張三脳研究所:基礎クラス1限目「悟りとは何でしょう」講義

※サンプル体験その1です。ここは三脳研究所の基礎クラス講義室。あなたは受付で所長を名乗る奇妙なオカンと遭遇したのち、別室で研究所の説明を受け、基礎クラスに参加するよう促されてここに来ました。間もなくクラスが始まるようです。
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受付で見たオバサン、確かこの研究所の所長と名のっていた。あの人が白いひげを顔につけ、木の杖をついて立っていた。

ヨボヨボと身体をふるわせ、年寄りのように見せているが、明らかに演技だ。聴講席からは「またそのネタかー」「もう飽きたぞー」と口々にツッコミが叫ばれている。

しばらくすると講師は盛大なくしゃみをし「あの、鼻にヒゲが入るから外しますね」と言ってツケヒゲをもぎ取った。「威厳が出ると思ったんだけどなぁ」などとブツブツ言っている。

おもむろに壇上から、外したヒゲを聴講席に投げ込み、悲鳴や「投wwげwwwんwwwなwwwww」というツッコミが無数に上がるなか、しゃべり始める。

ネド「そもそも、悟りって何なん?っていう話です。

それがはっきりしないと方法論も見えない。悟りとそれ以外の精神状態の差は何なのか。本当に差があるのか。あるとしたら、どこが、どのぐらい、どう違うのか。

わたしはここから考えていきました」

ネド「まず、悟るという言葉には、智慧を得るというニュアンスがあります。わたし自身が悟っているかどうかはさておき、多くの体験談を調査してもそれはいわゆる『頭が良くなる』という事象では無い、と考えています」

聴講席からクスクス笑いが聞こえる。所長アホだもんな、とささやきあう声。その脇の空いた椅子の背板には、さっき投げ込まれたつけヒゲがくっつけられている。

ネド「悟りを得て身につく智慧とは、大学受験に合格するような類の知識では無いようです。計算が速くなるとか、辞書を暗記できるとか、そういう技術的な変化はありません。知識でなければ、感覚はどうでしょう。わたし自身、意識が変容してからの言葉で表現できない感覚として、例えば『みんなつながっているんだ』というものがあります。それは個人と個人がつながっているという意味ではなく、個人なんか無いんだ、という表現に近いものです」

ネド「そんなふうに、意識の変容につれて、世界に対する感覚や認識が変わってしまうということは起こり得ます。けれども、認識を変えたから悟りかというと、逆もまた真なりとはいかないようです。悟りとはこういうものだとすべての知識を得たとしても、悟りを体感することにはつながりません」

そこまで言うと講師は壇上の端まで歩き、口に手を添えて小さな声でささやいた。

ネド「はい。そこ。眠いですか。後ろのほうにフルリクライニングの寝椅子がありますから、寝ていいですよ。イビキもありです。おもしろいから」

講師がそう言うと、四〜五人の聴講者がいっせいに後ろへ移動した。幸せそうなイビキが聞こえてくる。

ネド「わたしの体感では、唯一、頭のなかの思考の声、自動思考と呼ばれる声が、有るか無いか。この違いだけが、明らかでした。自動思考がありますと、自意識の中心は『わたし』という個人にあります。自動思考が無くなると、自意識の中心は『身体のなかにある、体温のようなぼんやりとあいまいな感じ、感覚の広がり』の中にあります」

ネド「つまり、主語が変化します。強く確実な『わたし』という個が存在しなくなってきます。それは透明になり、さまざまなものがそこに透けて見えるので、毎瞬変化し、毎瞬流れ去る感覚に過ぎないものとなっていきます」

ネド「これは、意識が、思考という脳の現象のなかから外に出たと言えるでしょう。思考から外に出て、身体感覚とより強く結びついている状態です」

ネド「このことと、妄想状態との違いは身体感覚との結びつきにあります。妄想状態では身体感覚との意識的な結びつきがありません。感情や感覚に対して受け身になります。妄想状態は自動思考のなかにあります。外に出ていると想像しているだけで、実態は自動思考のなかにあるのです」

ネド「ですので、当研究所においては、この“自動思考”、頭のなかの言葉による思考の声、自分が考えていると思い込んでいる思考の声に、対象を絞り込んでアプローチします。この自動思考の有る無しこそが、悟りという意識変容の始まるスイッチになるのです」

たたみかけるように語った講師は、ここで一息ついてニッコリ笑う。

ネド「よって、当研究所で言う『悟り』とは『自動思考が限りなく少なくなった状態』から始まる意識変容であると、仮に定義づけたいと思います」

ネド「それは知識ではなく、体感であり、状態です。悟りについて数多くの知識があっても悟りとは言えません。自動思考の有無を体感で理解し、自動思考の無い状態を体験し、それを持続させるよう進んでいくこと。これが当研究所の目標とする『悟り』への方法論です」

ネド「そしてこの定義である『悟り』状態は、脳の機能のバランスによって現れると考えています。自動思考がほぼ消えたのちに、『悟り』と感じられる、独特の脳のバランスが現れるのです。また、体内の酸素の量も関係してくると予想していますが、これは今後の研究ではっきりしてくるでしょう」

講師は、ここで黙って室内を見回す。心地よく寝息を立てている者、熱心にメモを取っている者、もう何百回も聞いたのだが‥‥という顔で腕を組んでいる者、初めてこの講義を聞いたのか、口をぽかんと開けている者など、さまざまな顔がそこにあった。

講師は満面の笑みでうなづいて、小さく「は~楽しみ!」とつぶやく。

ネド「このクラスではこの後、脳とその機能について、先ほどの定義に沿って、基礎的なことを少しずつお話します。そこを理解できることが、意識の変容を先へ進めてゆく鍵となります。ぜひ、しっかりと学んでください」

あのぅ、さっきのヒゲを返してもらえませんか。
聴講席へ向かって講師がもじもじと声をかけると、皆がキョロキョロと探し、預かっていた誰かがツケヒゲを手渡したようだ。
おおきに、と笑顔で受け取った講師は、改めてそのツケヒゲをつけ、顔を上げるとともに盛大にくしゃみをし、

「では、次の講義でお会いしましょう」
と高らかに言い残して壇上を去った。
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