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ネパールで考える人権のこと


一ヶ月に渡るネパール滞在の間、現地協力団体のスタッフが「娘の誕生日で家に帰るが、一緒に来るか」と訊ねてきた。確かその前の年も彼の家にお邪魔していた気がする。そう思い出しながら、私は二つ返事で頷いて、一緒に彼の家に滞在させてもらう事にした。ネパールの人達の距離の近さがとても好きだ。

誕生日パーティーまでの時間に街に買い物に行って、よく懐いてくれる彼の娘さんと遊んだり、生まれたばかりの赤ちゃんをツンツンしたり、惰眠を貪ったりした。
時々台所に行って、料理の様子を見たりもした。

パーティーが始まり、ケーキのろうそくに火を付けて、バースデーソングを歌いながら火を消す。とっても欧米風な誕生日の祝い方だが、日本でも同じように祝うし、今のアジアはどこも似たようなものだろう。唯一の違いは額に赤の染料を塗る事だろうか。

ケーキを切り分けて、いつもより豪勢なご飯を食べながら(こういう日は料理に肉が出てくるがカーストによっては食べれない人もいる)、パーティーの為に集まった親戚の人達と喋る。
みんな酒を飲んでいて、仕事の事、家族の事、文化の事(海外から来た私たちがいるので結構盛り上がった)などをわいわいと話す。
その時の言葉だった。

「結婚はお見合いだったんだ。良い年になってきたし、「結婚したい」と親に言ったらお見合い相手を探してきてくれて。娘も生まれて、今年息子も生まれて、しあわせだよ。家に帰ったら、むすめと奥さんがいて、これが最上の幸せだろう?」

酒を飲んで赤ら顔の彼はそう話した。周りの酔っ払い達も彼に同調する。私は何故か胸が痛くなって、思わず隣に座るフランス人の留学生の横顔を見た。

価値観の違いだ、と言ってしまえばそれまでなのだろう。だけどそれで突っ張れないのは、私も心の奥底ではその幸せを信じているからなのかもしれない。

彼は幸せそうだった。彼の奥さんも、可愛らしい娘さんも、赤子も、赤子の世話をするおばあさんも、みんな幸せそうだった。ただ、あるべきものとして、そこにある。
それが今の私のあり方を無言で否定しているようで、私は勝手に傷ついたのだ。
恐らく私を否定しているのは、彼らではなくて自分自身なんだろう。私は彼らを鏡として、自身の歪みを見つけただけだ。

愛すべき、守るべき存在がいて、愛され、認められ、そうして生きていくのは幸せなのだろう。それを幸せと思うように、私たちは出来ているのだから。
御託ばかり捏ね回して、その幸せを否定しようとする私たちは愚かなのかもしれない。じんわりと込み上げてくる目元の熱を、胸の痛みを、私は水を飲んで誤魔化した。


この国の女性たちは、今先進国で叫ばれている女性の権利だとか平等性だとか、そういうのとはきっと対極にいる。
社会的な活動をするのは男性で、女性は家で家事、子守、畑仕事だ。
だけどこの国にいると、それも幸せなのだろうと思う。だって私が見た女性たちは幸せそうだったから。

過去の価値観の中で幸せになれないのは、私がそういう人間だからだろうか、それとも今の社会が私をそうしているだけなのだろうか、と私はよく考える。
もし社会が私をそうしているだけなのだとしたら、それはとても不幸な事なのかもしれないと思う。

幸せ。幸せって何なのだろう。
私たちは皆幸せになりたいと願っているが、幸せになる方法は一つでなく、しかし私たちは一つしか選べない。
道は完璧じゃないからこそ幸せは永続するのだし、それで良いと諦めてしまう事が、巧く生きるコツなのだろう。完璧になれなくとも、より幸せになろうと努力する人は、美しい。

結局何を考えているのか分からなくなって、私は考えることを止めた。
私は信じることが苦手だから、女性が男性と同じ社会ロールを演じることが絶対正義だとは思えないし、反対に女性のあり方を社会が固定してしまうのもそれは不自由なものだと思う。

自分のやりたい方を選べる社会であれば良いというのが最終結論になるんだろうけど、本当に自分のやりたいことを見えている人がこの世界にどれほどいるのだろう。
男女同権が行き届いていない国の人たちよりも、先進国で同権を叫んでいる私たちの方が自分のやりたい事が見えていると、どうして言えるのだろう。

痛みに敏感になってしまえば、痛みを避ける事、見つける事にしか思考が向かなくなる。
それが本当に幸せへと繋がっているのか、私はきっといつでも自分に問い続けなければいけないのだと思う。

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