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合意と多様性


近頃、多様性の話題をよく聞くようになった。
古今東西様々な場所や状況で議論がなされ、支持や懐疑が飛び交っている。

その議論の一つに、「多様性を認めないという多様性を認めるか」といったものがある。

とてもややこしいのでもう少し紐解いて説明すると、多様性というものは全ての意見を認めるのだから、「多様性を認めない」という意見も認めるべきなのではないか、ということだ。
人の権利を認めるのならば「殺人の権利」も認めるべきだ、といった議論と近いものを感じる。

後者の議論は、「(他人の権利を犯さない限り)個人の権利を認める」という括弧書きがついて一応の解決がなされるわけだが、多様性の前に同じような、(他の多様性を侵害しない限り)という括弧付けをしたら、果たしてそれは正しく「多様性」と呼べるのだろうか。


多様性の議論では、私はよく多様性の定義から始めることが多いので、今回もそうする。

多様性の定義とは、「幅広く性質の異なる群が存在すること」、すなわち「多様な集団が存在していること」であり、集団の中に多様性があることではない。
多様性を認めるということは、性質が異なる集団が存在することを認めるということだ。
であるならば、「多様性を認めない」というのは、他の集団の存在を認めない、ということになるのだろう。

そして、「他の集団の存在を認めない」集団の存在を認めるか否か、というのが今回の議題だ(入れ子構造のようになってる)。


普通の感覚で考えれば、「認めるべきではない!」と即答できるものだが、その集団の性質がどうであれ、集団の存在を認めないということには変わりがなく、そうであるならば多様性の定義に反するのではないかというパラドックスが生まれる。

このままでは答えを出すことが難しいので、パラドックスがなぜ生まれるかの理由について深く探っていこう。


そのパラドックスの本質は、合意と多様性の相反した関係にある

別の性質を持った個体・集団が存在し、そしてその間に関係が生まれる場合、私たちは大なり小なり"合意"を取って関係を紡がなくてはいけない。
何故なら、違った価値観のまま関係していては摩擦が生まれ、人間間での摩擦は争いを生むからだ。
合意は謂わば、争いを避けるための潤滑剤として働く。

古い時代、人間社会の合意は「宗教」によって為され、宗教同士がぶつかることによって今度は「哲学」にその役目が降ってきた。

人は争いを避けるために「合意」の範囲を広くするように動いてきた。
「多様性を認める」という合意もその一つだ。


しかしこの合意には、意思の均一化という側面がある。
意を合わせるという感じからも分かる通り、合意には常に均質化の側面があり、厄介なことにこの均質化という側面は多様性と相反する性質になる。

そしてここに、合意がある以上すべての多様性を内包することは不可能だが、合意がなければ人は(平和的に)関わることができない、という状況が発生する。


さらにもう一つ、合意が必要になる場面を掘り下げてみる。

合意が必要になる場面というのは、価値観などが対立している時だ。
であるならば、対立が存在しない限り合意の必要性は生まれず、上記に挙げた矛盾も生まれないということになる。

しかし、対立というものは常に存在する。
何かが確立した以上、それに呼応して対立立場も生まれ得るからだ。

多様性を例に使うと、「多様性を認める」という価値観が確立した以上、その反対立場「多様性を認めない」という価値観は自然に生まれるのだ。
矛盾した価値観というのは、大抵背中合わせで存在する。

「我思うゆえに我あり」理論と同じように、その対立構造には終わりがなく、だからこそ二つが接触する場合には合意が必要になる。

そしてその合意がなされた瞬間にまた対立する立場が生まれ、それを解消するために合意が必要になるという無限ループが生まれる。


このような状況下で、議論は「より多くの多様性を内包する合意はなんだろう」というものになるのだが、先に言った通り対立構造に終わりがない以上、その議論にも終わりがない。

私たちの合意は、常に更新する必要があるということだ。
更新の社会コストが途絶えることはなく、だからこそ人は「議論を決着させたい」と望むのであるが、議論の決着は不可能なのだ。


そんな中、最近の多様性のムーブメントの一つ「無関心」について考えてみたい。

「無関心」というものは、そもそも違う社会との関わらないという態度であり、関わりがないのであればそこに合意の必要性も生まれず、上で散々語った矛盾も生まれなくなる。

人類の歴史の中でなぜこの解決策が出てこなかったのかというと、そこには地理的・物理的な制限があったからだ。
共同体が大きくなれば別の共同体とぶつかり、だからこそ共同体間での合意が必要になる。
別の社会と関わらないという選択肢すらなかった。


しかし現在、それも変わりつつあるように思う。

物理的な制約は変わらず存在するが、「住み分け」というものが高精度で可能になった。
インターネットではこれを「ゾーニング(zoning)」という。

同じ場所に違う価値観を持った人が生きていても、その人に関わらずに生きていくことが可能になったのだ。

この場合、見たくないもの、関わりたくないものはシャットアウトすればいいので、摩擦もほとんど起こらない。

今のインターネットではまだゾーニングが進んでおらず、色々と炎上をしたり、面倒なレスポンスが返ってきたりするが、それでも「鍵垢のみで会話する」「LINEなど閉じたSNSでコミュニケーションをとる」「検索に引っかからないように隠語を使う」など、様々な形でゾーニングが生まれている。

そしてこれは、機械学習の発展により更に高精度になるだろう。


これは個人的な意見だが、全てを内包するような「合意」を更新するよりも、「無関心・無接触」のゾーニングを進めた方が合理的なんじゃないかと思う。

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