離人症のきっかけとこれから。

当初はここまで書かなくても良いのだけれど、自身の記録として残していました。

まず、最初に私はもう治っているので、
この症状はありません。

主治医に時々戻ってないか診てもらってます。

最初に書いたのは長文だし、
後から後から付け足したりしていたこともあり、
つらつら書いているだけなので、
きっと読むのも疲れると思います。
正直、読まなくても良いぐらいです。

お伝えしたいことを書きます。

発達障害の方々は、
特に何かあったら、一人で抱え込まず、相談すること、人に頼ること。

謝るべきときには謝ること。

特にasdの場合、人に相談することが苦手なので、今、もし悩んでいる方がいらしたら、抱え込まないでほしい。

asdは記憶力の良さから苦しみます。
忘れ去ることがないのです。

そして、嫌な記憶は楽しい記憶よりも心に残りやすいのです。asdの特性上、自分がなく、その場その場の自分があるそうなので、自然と離人化しやすいそうです。
主治医から言われました。

そして,自分の心のキャパを越えると、体はここにいても心は違う空想の世界に行ってしまいます。
私の離人症の症状の一つがこれでした。

私の場合はビリーミリガンのような人格が何人も出てくるようなことではありません。

話が逸れましたが、
困ったことや辛いことがあれば、
ほんの少し勇気を出せば、
必ず、聞いてくれる人はいます。

私にも本当はいたのです。
その時は周囲が見えず、
心を開く勇気がなかっただけ。

そして、この記事だけ、
タイトルで興味を惹くのか、
意図せず人目に留まるらしいので、
正直言って自分で書いておいて何ですが怖くなりました。

自分のことを詳細に書きすぎなところもあるので、要約していきます。

その方が良いと思うからです。
日記に書くべきことまで晒してしまった。
頭の中がごちゃごちゃしましたが主なところ以外は削りました。

もし離人症で悩んでいる方がいらしたら、主治医の方からも言われているとは思いますが、全て今の自分が受け止めると思うと、改善します。
私がそうでした。

今は昔のことを思い出しても辛くありません。そういうことがあったなあ、という程度です。

複雑性PTSDからPTSGになりました。
嫌な体験から成長出来ました。

改めて発達障害の診断を受けて、
二次障害の診断及び治療を受けて本当に良かったです。

私の人生はやっと始まりました。


以下、7月22日の記事です。
書かなくてが良いところは削除しました。わざわざ晒さなくてもね。
よく覚えているなあ、とつくづく思います。

小学四年生の時、
私は小さな嘘をついてしまった。
犯罪でも何でもない事だが、つい最近まで私を苦しめていたことの一つ。

たまに遊ぶ友人達がいた。
私は他の同級生と違い、学校から帰るとランドセルを置いて直ぐに遊びに行くことが出来ず、何故か、一旦自宅で休憩してから遊びに行っていた。

思えばasdの症状で、学校から帰る疲れてしまいホッとして自分の時間を作っていたのだ。必ず帰宅後は1人の時間は必要だった。自然と身についた今でも必要な習慣だった。

あの日は違った。
幼稚園も同じで偶然小2から同じクラスになった友人から、私がすぐに公園に来ないのは、本当は一緒に遊びたくないからだと言われたので、びっくりして違うことを証明するために、ランドセルを置いてすぐに公園に向かった。無理して出かけた。

私が出かける時、母からは今日はすぐに出かけるの?と尋ねられたのを覚えている。

公園のそばには少し高くなった場所に線路があった。私は前々からその線路の向こうには何があるのか興味があった。その日でなくても、あの上に行ってみたい、と言うと線路があるだけだよーと言われて終わった。

しかし、その日は、私が直ぐに来たので友人はとても嬉しかったらしく、あの線路に行ってみようよ、と言ってくれた。賛同者が他に2人いた。男の子と女の子。友人とその女の子は私よりもとても仲が良かった。
他にも公園にいた友達がいたが、その子は悪い事だからいかない、とはっきり断っていた。私たちは小さな冒険のつもりでいた。

私を入れて女の子三人、男の子1人の合計4人。嬉しかった。しかし、私は途中で急に怖くなってしまい、「やっぱり帰ろう」と何度も言ったが、「え。いこうよ、大丈夫だよ」と言われて、そのまま線路に行った。

小高い丘を登ると線路は何本かあった。本当にただそれだけだった。複数の電車が止まるような場所になっていたのだ。

そして、4人でしゃがんで小さなところに隠れた。場所は覚えていない。私は寡黙な時とおしゃべりな時が混じっているのだが、この時も会話に交じれず黙っていた。

元々asd受動タイプなので積極的は会話をしないのだが他の3人は会話を楽しんでいた。現に一緒にいた男の子は私がいた事を覚えていなかった。その子はその場に私がいた事を、後から思い出すぐらい、私の存在感はなかった。

私は一言二言会話をした記憶があるが、緊張がマックスになってきた。いけない事をしている、心臓がドキドキして気持ちが落ち着かない、ここは狭いし怖いし、もう嫌だ、帰りたい、そう思った途端、私は3人に何も言わず、3人の気持ちも考えもせず、瞬間的に抜け出して線路を通り抜け小高くなっている丘を駆け降りてしまった。

そして電車は止まった。
後から聞いた話だが私が駆け降りてしまったので、電車が止まってしまったそうだ。

時間が経過した。いくら待っても3人は戻ってこない。はっきり断った子と二人でしばらく待ったが来ないので帰宅した。

私のせいだ、そう思った。母親に言わなくちゃ。3人が心配だった。

帰宅すると、弟が「私がランドセルを置いて出かけるなんて初めてだね、楽しかったんだね」と言われた。弟がそんな事を言ってくれるとは思ってもいなかった。
今から思えば、弟は私がすぐに遊びに出かけない事を彼なりに心配していたのだ。そして、なんとなくその場の雰囲気で、私は弟のせっかくの気持ちを踏み躙ることができなかった。要するに言えなかった。情けない。

夜遅く、3人のうち、2人の母親が実家を訪ねてきた。私が逃げてしまったので駅員さんに注意されたこと。初めてだし学校にも警察には言わないが、逃げた子にも注意して欲しい、と言われたと聞いた。

その話を陰から私は聞いていた。母から聞いた記憶と混じっているかもしれない。でも、その場で、私が逃げました、ごめんなさい、と謝れなかった。
母には行ってないと言ってしまった。
嘘をついてしまった。

翌日学校に行った。二人の友人から散々攻められた。一生許さないと言われた。同行していた男の子は2人には、さっさと謝ってしまいなよ、と言ってくれた。

それなのに謝れなかった。
友人2人のうち、1人は優等生タイプで私立中学を目指していた。彼女の母親から、私のせいであの子が私立に落ちたらどうなると思ってるのか、と責められた。どうしようと思った。これも今思えば、学校にも警察にも言わないし注意だけ受けたので、そんなことはないのだ。

私が謝らないでいるうちに、話がどんどん私に不利なように大きくなっていった。とうとう、私が首謀して先導して3人を連れて行ったことにされていた。同行した男の子が話がどんどん大きくなっているよ、収集つかないくらいの悪者にされているよ、と教えてくれた。

確かに私は前から行ってみたいと言ったが、計画したわけでもなく、首謀者と言われるのは違うと思う。

要するに、彼女達2人で結託して、逆に話を都合の良いふうに話を作り変えていたのだ。逆に嘘をつかれた。私が招いた事で責められないが、彼女達は私が一方的に悪いと近所に言いふらした。

そして、私のせいで、親同士でも揉めてしまった。
彼女達が私の事を私が「行こう行こう」と煩いから付き合ってあげたのに逃げた、というので、私の母は「あの子が自分から率先して言うかしら」と言ってくれたのだ。

2人の母親も私が積極的ではない性格を知っていたので、友達2人に言ったそうだが2人が言うから本当だと反論されて、お互いの親が自身の子供の言い分を聞くことになってしまった。

私の父親は誰がなんと言おうと私が行かなかったということを信じると言ってくれた。本当は違うのに。信じてくれているので辛かった。
とても申し訳ないことをした。
言い出す勇気が出なかった。

今は克服したので、そんな事をしないが、
嫌なことがあると、後ろに私は自分自身の心は人前からすっと引く癖が出来てしまった。本当は私自身が受け止めなくてはいけないのに、だ。

心が壊れないように自然と防衛してしまうらしい。複雑性PTSDなので、様々な要素が絡み合い、小学校と中学校の生活が大きく私の人格形成に良くない影響を与えていた。人が怖くなってしまった。

そして、ますます謝れなくなってしまい、5年生のクラス替えの時期が来た。2人の友達(もう友達ではないけれどあえて書きます)のうち、1人と同じクラスになってしまった。

私にとって悪い事が重なり、色々な事が起きた。線路事件の友達は周囲と上手くやっていけるので友達作りが上手だったし何かあると庇ってくれたりしたが、当然、今はそんなことはしない。

逆に悪口を言われた。当然だ。謝ってないのだから。徐々に障害の特性も出てきたことも相まって、私だけクラスで1人で浮きはじめていた。

当時は発達障害という言葉がなかったので、性格だと思っていたが、私は揶揄われたりすると上手く言いかえなかったし、特に班の中で意見をいう様な場所では声が出なかった。場面緘黙を起こしていた。

少し話すクラスメイトはせっかく出来ても、ASD特有の人の気持ちが分からず、ガールズトークが苦手だったので、会話が続かなかった。

小6になった。その頃から体はここにいても心はここにはいないように自然となっていた。

のちに、といっても先月だけれど💦複雑性PTSDからくる離人症として、あまりにも現実が辛すぎると心が受け止めきれず、心を守るために、自然とそうなると、本を読んで知った。

当時や症状が治るまでの頭の中では、彼女たちに謝ってみんなとまた仲良くしている学校に通っている世界を作っていた。

手紙などを書いて謝れば良かったのに。実際、手紙も書いた事があるが、脅すと言われた事が頭にあり、家族に迷惑をかけてしまうと心配し、asd 特有の思い込みもあり、出来なかった。

何で謝れないのか、自分でもわからなかった。asd特有のこともあるが勇気がなかったのだろう。

これが離人症の始まりだと思う。

離人症の症状はフラッシュバックもあるとかなり辛い時があるが、今のこの世界から抜けることが出来る便利さもあるのだ。その間は受け止めて生きていないことになるので、ぼーとしている。

離人症というと多重人格を思う人もいると思うが,私の場合は主治医いわく内在性解離と言って年齢ごとに分かれており、それぞれの年代の自分がいるらしい。

話が逸れたが、私も私立中学受験を目指していた。小4から成績が伸びて挑戦したい気持ちが出て来ていたのだ。

しかし、あの時の同級生の友達は私が私立に行ったら嘘をついた事をバラしてやる、私が文が好きだったので文で身を立てたいと思っていたが、そのことも文を発表したら、嘘つきだとバラしてやると言われていた。要するに脅されていたと思う。

当時は私には未来や夢をみる権利はなく、そこまでのことをしたのだと思っていた。今は2人の気持ちは分かるがasd特有の反論する事が出来ないのを良いことに、行為はやり過ぎだと思うし、脅迫と脅し、いじめだ。

そして私が私立を受けず公立に行く事が分かった時、2人とも2人の親の前で喜んだと聞いている。彼女達のうち1人の父親からは、「私立に行って反省してほしかった。これだと逆に恨まれてしまうではないか」と言われた。

そこまでするかと今は思うが、当時は謝っていないから当然だなと思い、asd の特性も相まって間に受けてしまい、私立を受けなかったし、文も諦めた。文は私の夢だったのだ。

私の両親は私立を受けないと伝えた時、とてもびっくりして悲しませた。

公立が私に合わない事を知っていたこともあると思う。
ある日、小6の担任は私に残るよう言い付け尋ねた。
線路事件のことではなく、
小学5年生の時のイジメのような出来ことで聞かれた。

「あなたを見ればあなたがどんな子か分かります。あのとき何があったのか言いなさい」と、と尋ねた。

理由は、お昼休みに隣のクラスの人と遊ぶ約束をしただけのことだが、変に拡大解釈され、それをネタにして噂されイジメにあったのだ。

そのことを聞きたいと言われた。

その場には担任以外の先生もいた。
隣のクラスの担任の先生だった。
その先生は低学年時から私の作文を褒めてくれている先生だった。

事情を聞いた私の担任は、隣のクラスの担任に「よくある話よ。聞いていた話と随分違うわ。いつもぼんやりしている子よ。」と話しているのが聞こえた。

その先生からは私が小5の時。当時の担任に勢いで私立受験をしないと言ってしまっていたので、「君みたいな子は私立に行ったほうが良い。公立は色んな小学校から生徒が来る。今よりも、もっと辛い目にあう」とアドバイスをしてしくれた。

ここでも小4の時の嘘をついた件があるので、受ける資格がないと思い込んでいたので、受けないと断ってしまった。馬鹿だった。

担任からは、私の事をイジメた子たちの名前を言えと言われ、名前を出した。あの時の同級生が首謀者だった。担任は彼女達4人に注意した。

首謀者以外の3人は私に悪かったと謝ったが、首謀者の彼女は私が嘘つきの癖に担任にチクるなんて最低、と言われた。それでも私は黙っていた。

しかし、夏休みの課題の読書感想文で、私の感想文二作品が廊下に貼り出されると、クラスの人たちから賞賛の声が上がった。私という人間を理解してくれた。他のクラスの人達も読んでくれた。嬉しかった。過去にいじめた3人とも和解した。しかし、小4の彼女だけは別だった。

小学校2年から同じクラスの同級生は私が変わってしまった、と思っていたけれど変わってないね、と言われた。とても嬉しかった。

6年のある日、線路事件で同行した2人の友達のうち違うクラスになった子が私を訪ねて来た。私立入試の面談で廊下に張り出された私の作文の内容を使わせて欲しいと言ってきた。

それは違うのではないか,そう思った。受験は実力で入るものだ。受験を冒涜している行為だ。今でもそう思う。
彼女の行動は間違っていると心の底から今でも思う。そんなことまでして入りたいのか。ズルだ。

しかし、当時はその前に彼女の母親から私立に落ちることを心配されていたので、許してしまった。

後日、その子がやってきて、私の作文を自分の考えとして面接官に言ったら、こんなに素晴らしい考えの子が我が校に来てくれるなんて、と感激されたと自慢していた。彼女の母親の件があったので、良かったね,と伝えた。

私の作文で。私も私立を受けたかったのに。
まるで彼女に脅迫されて、お金を取り立てられているような気持ちになった。

彼女は小学校の同級生と結婚して子供もいる幸せな専業主婦になっているそうだ。私の母に彼女の母親が会う度に自慢してきたから知った。作文のことなんて何とも思っておらず忘れているだなあ、と思う。

もう1人の友達は娘がいることは人づてに聞いたが行方は分からない。

いかんせん、実家が比較的近所なので、否が応でも噂は耳に入ってしまうのだ。母親同士は時々会い挨拶程度はするそうだが、当事者同士は実家を出ていることもあり、出会うことはなかった。

彼女は私のことを30代まで色々言っている事は人づてに聞いた。そこまで嫌うのか、と思う。

しかし、と思う。
彼女はきっと私を許してあげたかったのではないか、私が謝るのを待っていたのではないか、と思った。

時系列がめちゃくちゃだが、小3の時、私が彼女と仲良くなるきっかけは、彼女から揶揄われた事で腹を立てた後、彼女が謝ってきたので、私が父親に諭されて許した事があるからだ。だから、彼女は私が謝ることを待っていたのではないか、と思っている。

小6の当時、卒業する時一言書いてもらうよう、サイン帳を回すのが流行った。クラスメイトに何か一言書いてもらう帳面が流行った。

小6の担任からは「サイン帳は一生残るものだから例え好きではない人から回ってきても決して嫌いとか書いてはいけない」と指導されていた。

迷ったが、彼女にもお願いをしてしまい、そこには「賑やかなところとおとなしいところが入り混じった性格。大好きだよ」と書いてあった。そして、その後、私に渡す時「気を使わせないでくれる?」と言われた。 

きっと彼女は本当は書きたくなかったのだろう。無理して書かせた。

彼女の気持ちを考えると、心の底から申し訳なさで胸がいっぱいになる。

私が若しかしたら謝ることを想定して、その後の事を考えて書いてくれたのだ。
だから、私のことがずっと許せなかったのだ。

本当に私は人の気持ちが本当に分からない人間だと思った。

彼女に謝りたいが、もう40年近く経過した。私は離人症やらで現実を見ない間に随分と時間が経過してしまった。

お互いの片親も亡くなっている。
今頃、謝ったら逆に気持ち悪がられるだろう。

このことは、母と家人と主治医には打ち明けた。

家人は当事者同士はどう思っているのか知らないけれど、他人から見たら子供同士のよくある事で、どうってことない事だよ、そんな事を今まで気にしていたの、気にしないでいいんだよ、と言われた。

母からは、私だって嘘をつくことあるのよ、これからは嘘をつかないようにすれば良い、それに彼女達も全て私のせいにしたのだから嘘をついている、私の作文盗用の件はとても怒ってくれた。

母は、この頃、小5の時、同じクラスだった彼女の母親を見かけないと話していた。出会ったら話しかけ謝りたい。

母の受容と家人の理解が心の底から嬉しく、
複雑性PTSDが緩まり離人症が治る瞬間だった。

もし、あの時謝っていれば、人生はかなり変わっていたかも知れないし、もし私立受験をして合格したとしても学校が合わなかったかも知れない。

合わない公立に通い、先生の心配通りもっと嫌な目に合わなくても良かったのかもしれない。

公立の中学校は教師含めて全てが最悪だった。
私は小6から中学生にかけて太ってしまったのだが容姿を徹底的に揶揄われ馬鹿にされ、大人しい私の弟までイジメの対象にされた。

他人は痩せてる時は私を持ち上げて、太ると馬鹿にするのか、中身は同じでも容姿だけで判断するのか、だったら、もう人とは関わり合いになりたくない。孤高を目指そうと思った。

弟の担任の先生に相談をしに行ったが、拒絶された。「自分が虐めた生徒に注意をするとか何か期待をしてきたのだろうが、中学校は勉強を教えるところだから来ても困る。自分のことは自分でやるように。2度と来ないように。」とはっきり言われた。

弟は中学生以降、大きな声で笑わなくなった。私のせいだ。
弟にまで迷惑をかけた。自分のことではなく、姉のことで揶揄われても反論出来なかったろう。かわいそうに。
教師も教師だ。
他にも色々あり、大人も信じられなくなってしまった。

地獄の中学を抜けたので、何か嫌なことがあるとあの時よりはマシと思うことにしている。

そして、今思えば、かも知れないことばかりだ。 

何よりもすぐに謝っていたら、2人と今でも仲良くなれたかも知れなかったのにと思う。

それが離人症のきっかけだった。

3人の友達には謝りたい。

彼女達が私にした嘘や酷いことは置いておいて、
私が嘘をついたことだけ、今は
心の中で謝ることにしている。

彼女達は離人症にもならず何事もない人生を歩んでいるのだろう。

そして、私に対して、そこまでしなくてもよかったのではないか、と今では思う。

小さな嘘が招くと大きくなるので、
謝る時には謝ってほしい。私のようにならないでほしい。私はあれ以来そうしている。

私はこれから子供の頃の夢だった文を発信していくことに切り替えていく。

弟は離人症にはならず、大声で笑うことはなくなってしまったけれど、人生を楽しんでいる。そこだけホッとした。

今、私は初めて人生が楽しい。

ここまで治してくれた主治医に感謝しつつ、asd特有の記憶力が良いため、過去のことは忘れられそうもないが、冷静に見られるようになった。 

そして、書くことで、ここまで書かなくても良いかもしれないが、私はかなり自分で自分を癒された。

今日限りで、過去のことは書かないことにする。決めました。

いろんなことを何とか乗り越えて、ここまできました。

私は私を良い加減に許そう。
線路事件のせいで、自分には幸せになる資格がないと責めるのはよそう。

ASDなので、コミニュケーションが苦手なのは今からでも勉強して、人の視線に注意を向けよう、少しは共感力を身につけられるようにしよう。

これから始めよう。

お読みいただきありがとうございました。


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