見出し画像

途切れた記憶をつなぎあわせる

昨年末から、久しぶりにカウンセリングを受けている。
どれだけの人にとってカウンセリングというものが身近なものなのか、または得体の知れないものなのかは知らないけれど、私にとってはとても身近なもので、アメリカのドラマで登場人物がカウンセラーのところに何かあると行く、みたいな感覚で、結構普通に利用している。

不登校だったころからいろんなカウンセラーにお世話になって、やめたり通ったりしながら、結局自分の問題を身近な人に話して、その人に迷惑をかけたり、誤解をされたり、関係がわるくなりたくないし、むしろプロに話した方が整理できるし、守秘義務もあって安心して話せるからと、しんどくなると頼れる場所として今でも時々利用させてもらっている。

カウンセリングの目的は色々あるけれど、私にとってカウンセリングの大きな目的は自分すら気づいていない自分の感情に出会うことや、知らず知らずのうちに身についていた価値観や思い込みに気づくことや、忘れていた自分の記憶に出会うことだったりする。
もちろん日々感じる心の空虚さや、しんどさをなんとかしたいというのもあるけれど、自己探求の面白さを一度知ってしまって結構はまってしまったというのが本当の理由かもしれない。

ちなみに今は分析系のカウンセラーの方から境界線パーソナリティ障害の治療のためのカウンセリングを受けている。特に過去のことに絞って話をしつつ、パーソナリティ障害や愛着障害についての知識も教えていただいたりしている。

今のカウンセラーさんに過去のことを色々聞かれるうちに、私は子どもの頃の記憶があまりない、と気づいた。記憶喪失のような記憶がないというのではなく、途切れ途切れには覚えているし、どんなことがあったのかおおまかなことは情報として覚えているという感じで、いくつかの印象的な場面を短い動画のように記憶しているだけでそれらは全く繋がっていない。
話そうとすると、うまく出てこなくて、自分が具体的な記憶をほとんど覚えていないことに気がついた。


子どもの頃に虐待や辛い経験をすると、記憶のスプレッド化と言うのが起きるそうで、私もそうなのかもしれないそうだ。

これがカウンセリングが進んでいくと、記憶の統合というのが行われてひとつながりの記憶として自分の過去を振り返ることができるらしい。

私は私でしかないから、今までずっと子どもの頃の記憶があまりないことを昔のことだし、こんなものだろうと、特に不思議に思っていなかった。
全くないわけではないし、どんなことがあったかということは覚えているし、いくつかの場面というかその時見えた景色は匂いや音はよく覚えている。

隣のマンションの屋上、干してあった洗濯物がひらひらしていてその向こうには青い空、室外機の羽が回る音がずっと聞こえている。コンクリートの床に防水塗装が塗られていて、つやつやとした濡れたような灰色をしていたこととか、

転んで擦りむいた膝から赤い血が滲んでくる様子。網の目のような皮膚の皺に沿って血液がゆっくりと広がっていくところ、とか。

あまり登場人物のいないような、そんな感じのいくつかのシーンは思い出せる。
でもお母さんが怖かったはずなのにそのことについてはあまり覚えていなかったり、お母さんが働いていたとき預けられていたおばさんの家の娘さんにいじめられて泣いていた写真はみたことがあったけど、実際の記憶はなかったり、あまり覚えていないというか変な感じで、情報として知っているみたいな感覚でしか自分の中に残っていない。

それでもこの数ヶ月カウンセリングを受けてみて、過去に関する話しをすることが多かったからか、カウンセリングの後はいろんなことが思い出されそうな不思議な感覚になったり、実際に思い出しもしなかった映像がふっと記憶に浮かび上がってきたりした。

それで心がざわざわしたり、イライラしたり、どこか不安定になったり、悲しい気持ちにもなった。

心って不思議だと思う。
効率とか、論理的なこととか、そういうこととは全然違う仕組みなんだなあという気がする。

うまく言えないけど、よくわからない生き物の全体像をゆっくり知っていくような、それはこっちから無理矢理どうにかできるようなことじゃない、自分のことのはずなのに別の生き物をその生き物が動く速度や角度にあわせて、こちらが覗き込んだり、ぐるっと回ってみたりして観察していくような、そんなふうにしていかなければ分かり得ないような、そしてそれでもなお完全にわか?なんてことはできないような、そんな感じがある。

こんな歳になって、今更昔のことをわざわざ思い出さなくても、と、思うかも知れないけれど、そして私もそう思っていたのだけれど、自分自身を含めて何かを知っていくというのはとても面白いし、カウンセリングの後はいつも少しぼんやりして、まるで少しの間旅に出ていたようなそんな非現実的な感覚になるのだ。そしてその感覚が結構好きだ。

勝手な想像だけど、もしかしたら多くの人にも、理由があって、思い出せない記憶というのがあったりするんじゃかいかと思う。

もしかしたらそれは幼い自分が、誰にも気づかれずにこっそりと目立たない場所に隠してしまった、実はとても大切だった記憶の一部なのかもしれない。

私と同じように、自分がどこか空虚だなと感じるなら、どこかで自分自身にリアリティを強く感じられないことがあるのなら、もしかするとあなたにもそういうなにかがあるのかもしれない。

大切な記憶を、生きる火種になるべきだったかもしれない記憶を、小さな自分がどこかにこっそり隠してしまったのかもしれない。

その記憶のいくつかに、人生の通り過ぎてきた幾つかの瞬間、気づかずに触れては、見過ごしたり、何かしら感じて心を乱されたりしていたこともあったかもしれない。

わからないけれど、この前カウンセリング受けて2日たった今日、ふいにわけのわからない悲しい気持ちが、多分過去に感じたはずの悲しみがじわっと身体に広がってきた。必死に何かを握りしめるような切実な悲しさだった。とても悲しくて少しの時間泣いた。泣いた後も、今もまだ仄かに悲しい気持ちが残っている。


途切れた記憶をつなぎあわせたら、今見えている世界は少し変わるのだろうか。

今いる私はどこか変わるのだろうか。

私はどこかで、というより必死に、それを願っているような気がする。

それは私自身の声というよりも、私が忘れてしまった記憶の、向こう側にいる私からの必死の叫び声のような気がする。
私はこのことをこのままにしたまま、死んではいけないような気がしている。

何が変わるのかはわからないが、私の一部が向こうから必死にノックをしているなら、私はそれに応えなければいけないような気がする。

わたしを忘れないで、と向こう側の私は言っているような気がする。

そして同じだけ、多分こっち側の私も、必死に助けを求めているのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?