『ヒーローショー わたしが躓いたすべてを当事者研究から眺める』―第一章.08

更に同じ時期に、たまたま同じ中学校から一緒だった女の子とも、一緒に入った部活の件で揉めてしまい、私は完全に人間不信と対人恐怖を抱えてしまった。人間不信といっても、他者だけでなく、自分自身への嫌悪感も深めてしまい、毎日学校の教室で孤立し、目の前がぐにゃぐにゃと歪むように見えていました。この教室には私の居場所なんてないし、誰も信頼できない、自分自身も気持ちが悪い…などとばかり感じていました。そんな時、過去に父方の祖父から受けた暴言を思い出してしまった。
〝お前なんか産まれて来なければ良かったんだ…″
〝お前は最低最悪の女だ…″
当時の私の心境にその言葉は重過ぎるくらい響いてしまい、何故だかあの祖父の暴言がまるで真実かのように思われました。私の思考は負の連鎖に陥ってしまったのです。コミュニティ不全→人間不信→自己嫌悪→人間不信→コミュニティ不全…というふうに。私は自ら孤立していき、ついに父親に、
「高校、辞めてもいい?」
とまで聞いてしまった。すると父は顔色も変えずにあっさりと、
「そんなもん好きにせえや」
と言ってのけたのです。丁度和室で二人でジグソーパズルを熱心にやっていた時でした。父はパズルに夢中でそんなふうに言ったのではなく、本当に“好きにしろ”ということだったのです。私は父の言葉に従い、高校を中退することを決心しました。けれど、担任の先生からは、一度三学期末まで休学して、その間に考え直さないか?と提案されたので、まずは休学することになりました。まあ実質的に、そこから学校には一度も通わなくなり、退学するわけだけれど。
 学校へ行かなくて良くなっても、負の思考の連鎖は続いていました。学校に行かなくなった代わりに、家事と母の介護に専念するようになり、そのストレスは溜まっていく。母とよく口論になるし、夜にはビールで酔っ払った父とも口論をしていました。そのやりとりがうるさいからと、兄からはキレられていました。キレた兄は、拳で箪笥を殴って、穴を開けたりしていました。とても怖かったのを覚えています。それから、自由にトイレや入浴が出来なくなっていた母からの八つ当たり、仕事の疲れでイライラした父からの怒鳴り声、兄の喚き声…。どうして私ばかりが家族の負の感情の捌け口にされているのだろう、と私はひとりで悩み、誰にも話せずに抱え込んでしまいました。やっぱりみんな私のことを必要の無い存在だと思っているに違いない、私は最低最悪の人間だ…などとばかり考えていました。実際には、みんなの食事を作り、洗濯をし、介護までしていたのだから、むしろ私が居なくなってしまったら、あの時家庭はうまく回らなかっただろうと、今では思えます。今なら、冷静にそう思えるけれど、当時は何事もネガティブにしか考えられなくなっていました。次第に、家事と介護とスーパーへの買い出し以外は、ほとんど自分の部屋に引きこもるようになっていきました。買い出しへ行くのにも、道で人とすれ違うと、気分が悪くなったり、吐き気がしていました。とりわけ、学生服を着た同年代の子供とすれ違うのが怖かったのを覚えています。同じ高校の生徒でもないのに、何故か私を見て嗤っているように感じられたから。この脱落者!と…。
 

今思えば、高校に行かなくなってからのこの生活が、“うつ病”の始まりだったと思います。人間不信や対人恐怖に加えて、何でもマイナスにしか捉えられなくなったことなどが、状態を悪化させてしまったのでしょうか。もっと何でも前向きに考えられていたら、こうはならなかったのかもしれない…。それでも当時はまだ、愛猫ネオンさんという癒しがあった。猫には珍しいらしいけれど、首輪にリードを付けて、まるで犬の散歩の様にしていました。ネオンさんも散歩が大好きで、喜んで首輪を付けさせてくれた。毎日朝夕と、ネオンさんから散歩の催促(全身でアピール&鳴き声)があったので、一緒に家の近所を散歩していました。その度に私はネオンさんを携帯のカメラで撮影してはよく眺めていました。同時期、青空の写真ばかり撮影してもいました。今になって振り返るに、あれは所謂“中二病”だったようにも思うのです。毎日散歩しながら空に向かって携帯のカメラでぱしゃりとしては、撮れた写真をいつまでも眺めていました。

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