『ヒーローショー わたしが躓いたすべてを当事者研究から眺める』第1章.12

【第1章:ここまでを当事者研究から眺める その1】
さて、ではここまでを一度、当事者研究のテーブルに並べて、眺めてみようと思います。
まず、ここで改めて、当事者としての研究テーマでもある、「自己病名」を書きたいと思います。私が考えた自己病名は、
「うつ病&不眠症 ヒーローショー型 出来損ないのスーパーマン症候群」
です。何故こんな名前になったかは、少しだけまえがきにも書きましたが、ここでも触れていきたいと思います。
まず、現在私は通院している心療内科の主治医から、うつ病と診断を受けています。うつ病の症状のひとつとして大きいのが、夜に眠ることが出来ない不眠症があります。その為、抗うつ剤と他に、精神安定剤、睡眠薬、向精神薬を処方されていて、それらを夜眠る前に飲んでいます。なのでとりあえず自己病名として、うつ病&不眠症、とつけました。
それから、ヒーローショー型、とつけたのは、まえがきでも書いた通り、好きなアーティストの楽曲のタイトルと歌詞からきています。ではここで、それがどのような歌詞かを書いてみます。
”決心 生まれ変わって まともなひとになりたい 変身ベルトを巻いて 戦うひとになりたい”
この歌詞は、このヒーローショーという楽曲の最初の部分にあたる歌詞です。私はこの歌をはじめて聴いた時、これはまさに私の事だと、そう感じました。何故なら、私はいつもいつも、家族との関わりの中で、”ヒーロー”や”スーパーマン”になりたかったからです。それはどういうことかというと、まず母親の境遇から感じたものが大きいと思います。
まだ20代後半、息子と娘の私達もまだ幼い頃に、母は大病を患います。良性の脳腫瘍と、脳の血管に出来た動脈瘤が、ほとんど同時に見つかったのです。大きく膨らんだ動脈瘤の影響で、母は全身痙攣発作を起こし、救急車で運ばれ、検査結果として、動脈瘤と、脳腫瘍が見つかったのでした。脳腫瘍の方は良性だった為か、自覚症状が本人には無く、既にある程度大きくなっていたそうです。良性とは言っても腫瘍は腫瘍なので、そのままでは脳を圧迫していくし、転移も考えられます。また、動脈瘤のほうは、破裂寸前だったようで、緊急手術となりました。母は、この動脈瘤と脳腫瘍摘出の手術中に、心肺停止の恐れもありましたが、それを免れました。手術が成功しても、意識が戻るかどうかもわからないし、最悪は植物状態になる恐れがあると、父は主治医から告げられていましたが、母はなんとそれも免れ、意識を取り戻したのです。しかし、右半身麻痺は、残りました。それも母は、リハビリを頑張り、上半身の麻痺はほとんど回復し、下半身についても、リハビリによって、掴まり立ちか、杖があれば、一人で歩けるまで回復しました。私はこれは、母の家族を想う気持ちがもたらした努力による回復だと思っています。しかも母は当時、まだ若かったことも、幸いしていたと思います。しかし、後々早い段階で、母は車椅子生活になります。先天性の股関節脱臼が見つかり、無理なリハビリや歩行で、股関節の軟骨が磨り減って、全く無くなってしまっていたのです。それまではなんとか、家事をこなしたり、2階へあがったり出来ていた母が、股関節の痛みのせいで、(プラス、当時住んでいた借家が狭すぎたのも関係して)リビングに置いたパイプベッドから、廊下一本挟んだ先の、トイレにしか、自力では移動が出来なくなりました。当時は家が狭すぎて、更に段差などもあった為に、家の中では、車椅子を使用出来なかったのです。それによって多くの不便が母をおそいました。まず、家事が出来ない。そして、お風呂場へ自力で行けないから、入浴が出来ないことです。また、トイレにはなんとか自力で行っていましたが、それもかなり危険な移動でありました。廊下で足を滑らせて、転倒してしまうことなどがあったからです。更に、私が6歳になる年から同居していた祖父が代わりに洗濯だけは行っていてくれましたが、その不満を、私と母に言葉の暴力としてぶつけてきたのです。それによって私も母も、ストレスに苛まれていました。いや、多分一番ストレスが大きかったのは、自力でほとんど何も出来ない、母だったと思います。
さて、そんな母の為に、父が私達子供にずっと口すっぱく言っていたことがあります。
「俺達が、お母さんの為に、何でも手助けするんや。家族で力を合わせるんやで。」
「お母さんに何かちょっとでも異変があったら、すぐにお父さんに言うんやで。」
という2つでした。兄は、どう思っていたか分かりませんが、私にとっては、家族の中で生きる上で、最上級の”使命”のように思われました。その”使命”をやりきる為には、まだ幼かった私は、母の為に、母の為の、”スーパーマン”、もしくは”ヒーロー”になろう、ならなきゃいけないのだ、と自分に呪いのような言葉を植えつけてしまいました。その日から私は、ヒーローであるべく、振舞いました。
まず、私はもう小学校にあがったお姉さんだから、と言われれば、泣き言ひとつ、わがままひとつ、言わないように努めました。学校に居る時や遊びに出かけている時でも、常に母の身を案じていました。家に居る時は、テレビや漫画を見ながらも、母に何か頼まれれば、それを優先しました。まだ小学生だった私は、まだ料理や洗濯などの家事が覚えられず、ヒーローなのに出来ないことがあることを、悔しく思いました。それでも、高学年になる頃には、料理は、出来るようになっていました。母はそのことを褒めてくれたし、これも母の、家族の為だと思えば、私は正しくヒーローとしての務めを行えているのだと思って、つらいことがあっても、めげませんでした。わがままを言えば、母の手料理が食べたかった。所謂”おふくろの味”というものを、私は知らないのです。いや、それを食べていられたのは、本当に幼児期だけだったので、覚えていないのです。覚えているのは、父が作る豪快な男料理だけでした。とにかく、質よりも量だ、みたいなもやし炒めばかり。それでも私は、わがまま言わずにその男前なもやし炒めを頬張って大きくなりました。(そして、太りました...)
しかし、当時私は様々な形でSOSを大人達に送っていました。どれだけ頭でヒーローなのだと思い込んでも、精神的には、まだ幼かったので、色々精神的には不安定だったのです。当時私がどんな行動に出ていたかというと、無意識に”失踪”したり、わざと給食の余りで持ち帰ったコッペパンを、ランドセルの底や、勉強机の抽斗の奥で腐らせてカビさせたり、わざと洋服を汚したりと、とにかく、父が怒るであろう行動をわざと、しかし無意識に行っていました。コッペパンをカビさせては父に怒鳴られ、
「お前みたいな悪い奴はうちの子やないわ!」
と言われる度に、私は、父に見捨てられる、外に捨てられて、死んでしまうというような恐怖感に苛まれ、
「なんでもする!なんでもするから見捨てないで!許して!」
という文言を泣き叫んで、父の太股にしがみ付いていました。大人になった今だから分かりますが、これは、所謂「共依存」的な関係性だったのです。私は親にSOSに気付いて欲しくて、解って欲しくて、構って欲しい、振り向いて欲しいという一心で、何かしら大人が怒るであろう問題行動をやらかして、わざと大人を怒らせて叱られて、それでいて、見捨てられ不安が強いので、泣きながら懸命に縋り付く...。大人である父は、ただの問題児だと思って怒鳴り散らして、お前はもううちの子ではない、とまくし立てる。何かがおかしい筈なのに、両者共に、その立ち位置から逃れられない、共依存。なんと不健全な関係性でしょうか。私は特にですが、愛情欲しさ故のこの問題行動を、小学校低学年の間―祖父からの精神的虐待に苛まれていた間―、やめられなかったのです。とても、見捨てられ不安が強い子供でした。
また、失踪というのは、一番はじめに起こしたのは、保育園に通っていた頃のことでした。保育園のお散歩の時間に、列に並んで歩いていたのに、いきなり、先生の目を盗んで列から飛び出し、気付かれぬままに、失踪したのです。先生が気付いた時、大慌てだったらしく、お散歩の時間は中断になり、先生一同で保育園の周辺を探し回ったそうです。そしたら、私が見知らぬおじさんと手を繋いで歩いているところを発見したそうです。すぐさま先生は私を保護しようと、そのおじさんに事情を話したら、そのおじさんは何ら悪いことをしようとしていた訳では全く無く、私が無言でにこにこしながら突然手を繋いできたので、そのおじさんも、戸惑っていたらしいのです。おじさんはただの保育園の近所に住むおじさんでした。急に私が近づいてきて、にこにこしながら手を繋いできたので、おじさんはびっくりして、
「どうしたの?保育園の子だよね?先生は?お母さんは?」
と私に尋ねたらしいのですが、私は全く何も返答せず、ただただ、にこにこしているばかりだったとか...。おじさんがどうしようかと困っているところに、保育園の先生が見つけてくれて、何とかなりましたが、とても危険な行為を私は冒したのです。それがあって、先生から、両親に報告と、これは見過ごせない問題行動だから、どこか専門家に相談に行ってみてはどうか、という話がされたらしいです。両親は驚き、困惑したでしょうが、専門家などは利用しませんでした。とりあえず、様子見ということになったようでした。しかし私は、その数年後に、また失踪します。小学校低学年の頃だったと思いますが、夕方まで友達と公園で遊んでいた時に、たまたま公園で知り合ったお姉さん(おそらく成人しているか、いないかぐらいの)に、
「私の家にはピアノがあるよ。うちに遊びにおいでよ。」
と言われて、そのままその見知らぬお姉さんの家まで、歩いて付いて行ったのです。帰りは公園まで送ってくれるというので、自分の自転車は公園に停めたまま、行きました。そして、子供の足ではかなり歩いた場所にお姉さんの家があり、あがらせてもらって、言葉通りピアノがあって、私達はピアノに興奮気味で感激して、鍵盤を触ったり、出された紅茶とお菓子を頬張りながら、時間を忘れて過ごしていました。そうしていると、もう日が暮れていて、夜になっていました。お姉さんは、疲れきった友達をおんぶして、私と一緒に公園まで約束通りに送ってくれました。友達とお姉さんとバイバイして別れた後で、私は停めていた自転車が無くなっていることに気付きました。お父さんが買ってくれた大切な自転車。私はてっきり、自転車泥棒にでも遭ったのかしら、と焦りながら帰路につきました。さて、家に帰ってみますと、門限をとうに過ぎていたからか、玄関には鍵がかかっていました。私は大声で、
「お父さん、ただいま。玄関開けてー!」
と叫びました。すると、リビングに面している窓を父が開けました。
「お前、今まで何処ほっつき歩いてたんや!探しに行っても、公園にもおらんし、警察呼ぶところやったぞ!」
と、怒り心頭の父が顔を出して怒鳴りました。私ははっとなって、窓の下のエアコンの室外機の前の方を見ました。盗まれたと思った自転車が、そこにはありました。聞くと、父が心配して公園まで探しに来てくれたものの、私はそこにはおらず、とりあえず自転車だけ、父が持って帰ってきてくれたそうで。私はしまった、と思いました。これは父はなかなか許してくれないやつだぞ、と...。思ったとおり父は帰りが遅いだけではなく、見知らぬお姉さんにひょいひょい付いて行った私を叱りましたし、なかなか許してくれず、玄関もなかなか開けてもらえませんでした。
「門限も守らん、知らん人に簡単に付いて行くような悪い奴はうちの子ちゃう!家には入れへんからな!!」
と父に怒鳴られ、私はボロボロ泣きじゃくりました。優しいお姉さんだった、不審者ではなかったことが伝わらない悲しさと、ああ、私は今度こそ、父に見捨てられるんだ...と思うと涙が止まりませんでした。私は何度も、あのお姉さんは悪い人ではなかったと父に説明しても、それは結果論でしかなく、もし連れ去られて殺されでもしていたら、という両親の心配した可能性だって十二分にあったのですから、父が簡単に許してくれるわけはありません。何より、一番心配したのは、自分の足で歩いて外へ娘を探しに行けない母だったので、父は母を想って、余計に怒っていました。
「お母さんがどれだけ心配したか、わかってないやろ!」
と怒鳴られた時に、そのことにやっと私は気付いたのです。ああ、母は、私が失踪した時、私を探し歩くことが出来ないのだ。それがどれだけ、不安なことか。私は、父にも、母にも、泣きじゃくりながら必死で謝りました。何十分、一時間でしょうか、そんな玄関先での攻防が続いた後、ついに私はこういう時のとっておきのカードを使ったのです。不本意ながら。そう、トイレに行きたくなったのです。もうそこからは、尚更激しく玄関の扉を叩き、
「お父さん!反省したから、トイレに行かせて!」
と泣きました。それでも父は、ギリギリまで玄関を開けてはくれませんでした。父が最終的にしぶしぶ、玄関を開けてくれた時、ほっとしておしっこを漏らしそうになりながらトイレに駆け込みました。用を足した後、改めて父と母に謝り、母に抱きかかえられました。母が一番、居ても経ってもいられなかったに違いありません。申し訳ないことをしたな、と反省しました。それからは、遊びに出かける時は母に、誰と何処で、何処まで遊びに行くのかと、何時には必ず帰宅するかを毎回確認し合い約束して、出かけることに努めました。それも、小学校の間まででしたけれど、母は一応それで安心はしてくれたみたいでした。
しかし、私の、この謂わば「機能不全家族」へのSOS信号は、他にもありました。
私は祖父に精神的虐待を受けるようになってからというもの、自分の髪の毛を触り、自然に抜けた毛を更にブチブチと、指で細かく千切る癖や、怪我をした時にできたかさぶたをすぐに剥がしてしまう、という癖が出るようになりました。どうしてそんなことをしていたか、当時の記憶は曖昧ですが、大人になってから、それらの行為は”自傷行為”なのだとわかりました。けれども、うちの大人達は、それが自傷行為だとは、気付きませんでしたし、止めるようにとめられたこともありませんでした。
以上のような不安定な精神状態で、私は保育園・小学生時代を過ごしていました。母の為のスーパーマン、お助けマンになるべく動いていたことは事実ですが、それ以上にSOS発信の為の問題行動が顕著でしたので、これでは出来損ないのスーパーマンだぞ、と今では思います。けれど本当は、良い子でいたかった。両親が笑顔で喜ぶ良い子でいたかった。母や父を救うヒーローになりたかったのです。この頃から既に、自覚は無いものの、完璧主義的思想があったと思います。完璧に良い子になれない私は駄目な人間だと、思っていました。祖父に罵られる私は本当に死んだ方がいい人間なのではないかと、毎日思っていました。考えてみれば、今の私に、うつ病になるような精神的な大きなダメージを最初に与えたのは、こういった”機能不全家族”だったのではないかと、思います。けれど、子は家庭を選べませんから、私はこの運命から、逃れることは、不可能だったのかもしれません...。せめて、私の問題行動、SOSが、大人達に届いていれば、なにか違っていたかもしれませんが...。
こうして、”出来損ないのスーパーマン”は誕生しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?