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たゆたう私とつややかなガラスの目

国立科学博物館、まっくらな空間に展示を照らす青いライトだけが明るくて、まるで深海にいるみたいだなといつも思う。深海は私の想像を絶するほど暗く、こんなもんじゃあないことをちょうど目の前に展示してあるのだけれど。

我々人類がたどってきた偉大なる歴史や、美しい星々の一生を、我ながら感心するほど熱心に見てまわるのだが、数時間・数日経って覚えているのはいつも、ガラス玉の黒い艶めきだけである。それは地球館の最上階に並ぶ剥製たちの目玉。神秘的なライトを反射して、濡れたように光っている。

じっと見つめていると、動き出さないことの方が不自然とも思われる剥製たち。何度来ても、誰と来ても、ここにいる時だけは時間を忘れる気がする。今日私は1人でここへ来た。前に来た時は2人、その前に来た時も2人。どちらも、その時好きだった男の子だったけど、1人は展示に興味がなくて、もう1人は私にも興味がなかったな、といやなことを思い出した。過ごした時間の楽しさや、帰って思い出すその時間の充実度はもちろん毎度違うけど、思い出すのはいつもこれ。私は今日も、鹿みたいな体をした、鹿よりもっと大きなツノを持つ生き物の、ツヤツヤな黒い目と見つめ合っている。

シカ、ブロングホーン、リードバック、ハーテビースト…どれがどれで、何の仲間か、それらの知識を吸収するつもりはない。ただなんとなく、飾られているものより、その説明の方が私は好きみたいで、どの展示室に行ってもキャプションばかりを読む。初めに目を引かれるのは動物たちの目で、じっと見つめ合ったあと、名を尋ねるように視線を落とす。名札があると安心する。

私は思い出を場所に託して、しばらくしてからそれを取りに帰る、ということがよくある。この場所も思い出の場所。1番大好きな人と行った場所は、2番目に好きな人とも、3番目に好きになった人とも行く。1人で行くと、その場所に置き去りにした感情が重すぎて持って帰ることができない気がする。国立科学博物館には1番大好きな人と行ったあと、何度も訪れたから、残された感情はほんのひとつまみ。今日は最後のひとつまみを持って帰るつもりで来た。

博物館に行こうと思いたったのは、知的好奇心の旺盛な、尊敬する友人の趣味を羨ましいと思ったから。いいよね、なんかハイソで。ちょっと賢く見えるね、私。そんな感じで訪ねる場所を選び始めた。

今、特別展で宝石展をやっているのは、浅草線の看板で見たから知っていた。例の友人も行ってたし、私、好きな作家の影響で鉱物が大好き。よしここにするか、と思ったけど1人で行くのに2000円は少し高い。悩んだけど、今日はやめにしようと常設展だけみることにした。博物館に行くなら、友人みたく何個か巡ってみようと思ったから、ひとつめに選ぶのは思い入れの強いここが適切かな、と選んだわけである。

感想。なんか、いい。それくらいシンプルで結構だよなあと思う。本の感想とか、映画の感想とか、諸々。長い言葉を使ってそれらを話す時、常々考えるのは「この感想の何割が、自分から出てきたものなのか」である。まず、自分の意見。その根拠は他の人の研究だろうが、歴史の結果だろうが、なんでも構わないのだけれど。それが、自分には必要かなと思っている。

思い出の中でも私が座っていた腰掛けで、トナカイの剥製に向き合って休んでいた。こいつの目はあの日と同じようにツヤツヤしている。今日は胸が痛くならない。振り返るだけであんなに苦しかったし、その苦しみはずっと消えないと思っていたから、図太くなったなあ、と感じた。最近ますます肉がついてきた腰回りといい勝負だ。このまま帰れば、きっと今日こそ、「国立科学博物館の」感想を書き留めることができる気がした。

そこに行ったのに、そこじゃなくても書ける感想しか抱けない日々が嫌だった。ある人と行ったこと、それを思い出して感じたこと、科博に行けばいつもそればかり。今日も結局9割くらいは思い出に浸ってしまったんだけど、あの、ラブカっていう深海魚の模型は、なんか、よかった。

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