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細かなところへのこだわりを見つけ作る

日頃散歩をしているとき、視界を少しずらすだけでちょっとした思い入れが感じられる。なんかこの植物の、この角度好きだなあ。あの木の裸で奇妙にねじ曲がった形と、手前の木の茂み方のコントラスト、好きだなあ。さまざまな身体感覚が出てくるような、さまざまな情景がある。この人の声、なんとなく落ち着くなあ、このソファ、ザラザラしているけど少し冷たくて良いな。

勉強しているときに、完璧に最初から最後までやろうと頑張ってしまう。本を読むときも、最初から最後まで、基礎から応用まで習得しようと頑張ってしまう。まるで、歴史の教科書を一番最初から何度も初めて、アウストラロピテクスロブスッスという言葉の並びだけ覚えてしまうかのように。私は、今まで何度もこういう挫折を繰り返してきたように思う。

勉強で、小さなこだわりを作る。自分だけの思い入れを、一つだけ見つける。細かなところへのこだわりを見つけ、作るのだ。

ヴォルテールが、一日40杯から50杯もコーヒーを飲んでいたことのような。私はコーヒーが大好きで、外出したら必ずブラックコーヒーをいただくと決めている。コーヒーを飲むと、幸福感が増す。そういう、ちょっとした思い入れがコーヒーにはある。そして、そんな共通点をヴォルテールに見る。ヴォルテールは典型的な啓蒙主義で、自由主義的な政治的発言をした思想家であるが、私は啓蒙主義などに全く共感していないわけで、そんなときに小さな自分だけのこだわりがあると良い。ヴォルテールは、最善は善の敵だと哲学辞典で語って、イギリスの思想に強く影響を受けていた。そんなことも芋づる的に引き出るようになる。

自分なりに好きなところ、もしくは偶然開いたページでも良い。何か、自分にしかわからないようなオリジナルのこだわりを作るのだ。偶然というのは、自分の人生の上でしか見えない。アイデンティティーは偶然によっても作られている。最初から天職など望むべくもないように。なので、一番はじめの無意味なこだわりは、その無意味さがゆえに偶然に身を委ねてしまってもよい。どう一番はじめの一歩を踏み出すかが重要だ。

愛着感、それが一番大切なんだ。私は、ジョジョの奇妙な冒険の第7部、SBRのキャラクターである「リンゴォ・ロードアゲイン」が好きだ。
「ようこそ……『男の世界へ』……」
信念にかける高潔さ、誠実さが、人間的成長にかける行動が好きだ。小さい頃に「長男なんだから」と言われたことを思い出し、公平な人柄に強く心惹かれるのだ。長男に生まれたことも、親がそういうことを言う人だったことも、単なる偶然である。ただ、それが私の愛着に強く繋がっている。傷が、歪みが、愛着を生むのである。

他にも、奇妙に愛着が湧いているキャラクターがいる。第6部の敵、ケンゾーじいちゃんである。ドラゴンズ・ドリームという風水を極めたスタンドを操る、新興宗教の教祖だ。最終的にアナスイのダイバー・ダウンによって、足をバネに変化させられ敗北を喫するのだが、その不格好で不気味な、負けたことに気づかない耄碌さが妙にハマっているのだ。そして、ケンゾーの汗でFFが鏡を作るシーン、その構図の、特に鏡をつくるという突飛さなど、心が落ち着くほど。

この愛着は、このバトルがある特集巻(コンビニで売っているような、複数の巻がまとまってそうなやつ)だけが家にあったことによる。ずっとこの巻だけを繰り返し読んでいたから、このバトルに強い思い入れが生まれてしまった。単なる偶然だろう?だが、だからこそと言うべきか、これは私の大切なシーンだ。偶然が私の脳に傷をつけ、良くも悪くも人生を規定する、その美しさ。

こういう自然に生まれた愛着感でなくても、自分なりにこだわりを作ったり見つけることができる。今まで、詩集には全く興味がなかった。意味が無いとばかりに実用書ばかり読んでき、小説もあまり手に取らなかった。最近、詩の独特な言葉同士の飛距離から生み出される決して形容できない不思議な身体感覚に強い興味が生まれ、詩集を勉強しようと思い至った。岩波から出ている、声でたのしむ 美しい日本の詩を買った。

当然詩の愉しみ方など皆目検討もつかない。小説ですらそうだったのだから。このとき、偶然開いた良い詩との出会いに、自分のこだわりを築き上げるということをしていた。
私が特に好きな詩はこれだ。

死の側より 照明せばことに かがやきて ひたくれなゐの 生ならずやも

斎藤 史

死を持って生を輝かせる。それこそ有限の受容であり、生きること、苦しみを引き受ける態度が眩しかった。そして、ひたくれなゐという言葉。鮮烈な紅、そのシンプルでビビッドなイメージがまさに刺さった。メメント・モリ、どう生きるかに興味がある。この実存的な問い。

斎藤 史氏は、幼馴染が銃殺刑に処されたり、夫や母を10年以上介護した後に看取ったりしている。そう間近で見てきた背景が、詩のコントラストをより高める。

こういう自分なりの、これが自分だけのものだ、という状態が重要なのである。脳は、未知を既知につなげることで学習する。精緻化という学習方法があるが、それは事象を自分の言葉で説明し直す学習方法だ。自分の言葉で作り直す、これも一つの思い入れだし、自分の物感である。その延長に、自分だけのこだわりを積み上げていく行為がある。

些細なこだわりを作る。ハーケンを打ち込む。その鉤状になった道具を、本に、教科書に、漫画に打ち込んでいく。知識の範囲を一旦最小限の、それも自分だけのところにとどめておく。出会いによるこだわり、自分だけのこだわり。

こだわりは勝手に増殖してしまう。なんとなく親近感が湧く。だって、この人は私の好きな人/境遇が似てる人なんだよな。そこから学びを広げていけるのだ。引っ掛け、登り、進んでいく。徐々に高度が上がっていく。一枚岩かと思われたその断崖絶壁が、実は自分なりのこだわりで少しずつ登れることに気づいていく。

いずれ、小さなこだわりが大きな塊として重力を持つようになる。崖が、登りやすい階段になっているように感じられる日も、来るかもしれない。きっと、その階段を登っていくのはとても面白いことになるだろう、と思う。少しずつ変化していくこと。ほんの少しだけれど気づいて、見え方が変わっていくことはきっと楽しい。繋がりが増えて行って、自分なりの道筋を作り上げていくやり方、ということになるだろう。

具体から積み上げていくのだ。ほんの小さな風呂敷を広げて、たたむ。ほんの少しずつ、自分だけのだと思えるような広がりを作っていく。自分の生がにじみ出ていくような、ちょっと面白さを感じてしまう淫らな学びがあるはずである。いきなり最初から、概要を無理やり叩き込むみたいなやり方は難しく、少なくとも私にはできないものだった。あまりうまく行かない。

深く差し込める場所があれば、安定する。知識空間と自分のコアの間に風穴を開け、風を吹かせることができる。コアに繋がっているような知識は、使う文脈が多い。生きた知識として、その分野全体を感染させられるような、徐々に自分のものにする強欲な学びをしていきたい。閉じられた世界で禁欲的な学びをするのもよかろう。だけれど、私はもっと強欲に、自分の生と呼応した学びをしていきたいと思う。皮膚を肉に、肉を骨に。

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