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ネクタル、睡眠退散、トマトに関する議論の軌跡

先日投稿した卒論合同感想note⑦をきっかけに、「ネクタル」「睡眠退散」に関する議論が月嶹ぽらるさん(@tsukipola)と盛り上がり、それがとても良い結論に達したように感じたので、備忘録としてここに残します。

きっかけ:ねぼろくのコメント

議論の対象となったのは、大道具室のシーンと「魂のレビュー」直前の楽屋のシーンに共通して登場する「ネクタル」と「睡眠退散」の位置付けに関して。「『睡眠退散』を飲むということ」という記事への感想・コメントとしてあげた以下のような文章に、ぽらるさんが反応をくださり、そこから数回のやり取りを経て、結論に落ち着きました。

一方で、雨宮の描写についての咀嚼がまだ十分にできていない。「決起集会前の雨宮は、不安や恐れを受け入れながら先に進むことに対するの躊躇いがあったから、「再生産」される前の状態にあった(決起集会のステージ上で「再生産された」)」と考えていたので、それと「ネクタル」を飲んでいることとは整合性が合わない。この点は少し考えたいなと感じた。(何か良い考え方があればぜひ教えてください。)

https://note.com/nebou_june/n/n10d22696290e

議論の下敷きとなっているのは、上の「卒論」とそれに対する上記コメント、そしてぽらるさんの以下の記事です。

ぽらるさんのコメント

〔引用者注:上のコメントの転記ツイートを引用して〕これに関しては僕も最近、以前の論は少し違うなという考えに落ち着いたのでちょっと思いついていることを書いていく

元の論はこちら 〔引用者注:上記記事のリンクを添付〕
ネクタルが舞台少女の延命装置のようなものという位置付けは変わらなくて、雨宮さんがそれを飲んだことの意味とネクタルの役割の考え方が少し変わってます。

ネクタルは雨宮さんに躊躇いを生み出している元凶なのではというのが自分の中の論です。 元の論にある通り果糖を含み追熟をする桃は「甘え」としての象徴と捉えることができます(これは皆殺しのレヴューで甘い赤色の液体が登場したことにも通じることです)。

元の論では「私たちはもう舞台の上」を追体験するものと解釈しましたが、むしろ舞台少女の甘え、現状のままでもよいという停滞感を与えてしまっていたのではと考えてます。

それでも前に進まなければ……という考えは睡眠打破を摂取することで生まれたものなのではとも考えてます。 これは作中で唯一皆殺しのレヴューで上掛けを落とされなかった天堂真矢が飲んでいたことからもおかしくはないと考えてます。

https://twitter.com/tsukipola/status/1722249382211551244

ねぼろく→ぽらる①

拝読して私もそのように感じました 一方で気になっているのは、ネクタルが、雨宮にとっては甘えの象徴だったのに対し、クロディーヌにとっては死と再生の象徴だった(論文参照)という点です。クロディーヌの"甘え"を見ることは不可能ではないですが、他の描写とあまり整合的ではないと考えています。→

睡眠退散とネクタルの位置付け(ポジとネガ)が逆転しているところに、何か一貫した解釈を与えられると良いのですが、あまりよくわかっていないという状況です。→

クロディーヌの"甘え"と見ることができないというのは、"どうぶつしょうぎ"的なもので真矢がひよこを取る(=殺す)ことを躊躇って完敗している点が根拠です。将棋の「駒をとって持ち駒として使う」というのはまさに「死と再生」であり、これが出来なかった真矢が負けたという解釈をしています。→

これと一貫させるなら、あのシーンは真矢をネガティブに、クロディーヌをポジティブに描いていると解釈すべきだと感じました。
(ふと思ったんですが、クロディーヌの独白(クロの再生産を示唆)が挿入されるのは決起集会のシーンで、これは二つのネクタルと睡眠退散の共通性と重なるかもしれないですね)

https://twitter.com/nebou_June/status/1722895034897572235

ぽらる→ねぼろく①

ありがとうございます! たしかにクロディーヌがネクタルを飲んでいる描写について考慮することを失念していました。 自分の論は『糖類と追熟』を起点に考えていたのでネクタルは甘えの象徴としてますが、死と再生としての意味合いも持つ点でネガとポジが逆転している点は悩ましいところですね…

昨日夜風に当たりながら色々と考えてたんですがなかなかいい考えが浮かばずうんうん考えていたら返信を忘れてました〔お辞儀のイラスト〕
ネクタルが甘えであるというのはやっぱり暴論で、死と再生に焦点を当てた飲料だとした方が辻褄は合いそうな気がしてきています

雨宮さんが「死と再生」を示唆する脚本を途中まででも書いていた点はネクタルによるものと考えていいと思います。 ただし、これは「私たちはもう舞台の上」であることを完全に理解する程のものではなく、擬似的な死と再生の認知に止まる効果なのかなと(故に脚本を書き上げることはできなかった)

舞台少女たちがレヴューを通じて他人との関わり合いの中に自己を確立したように、1人で缶詰になっていては完成せず、眞井さんをはじめとした舞台創造科との関わり合いが生まれて初めて「私たちはもう舞台の上」に辿り着くと考えた方が自然だと思いました。

ネクタルは「私たちはもう舞台の上」を擬似的に認知できる。ただし「私たちはもう舞台の上」になるためのものではない。そうなるためには直接本人が執着にケリをつける必要がある。

それが雨宮さんにとっては「一人で脚本を書き上げなければ」であり(諸説)、決起集会で壇上に上がり本音を晒すことがケリをつけることに繋がったとするのが良さそうに感じました(なんだか元の案にやや戻ってきた感じです)。 あまり頭の整理がしっかりついてないのでなんとも言えないですが

https://twitter.com/tsukipola/status/1722966014386733205

ねぼろく→ぽらる②

ありがとうございます。妥当で納得できる考察だな、と思いながら読む一方で、「甘え」の議論や元の論文の「睡眠退散」の「不死」のモチーフも魅力的で捨てきれず…とぐるぐる考えていたのですが、かなり良さそうな解釈(以下)ができた気がします。→

ぽらるさんのnoteと元の論文で話題になっていた「ネクタル/睡眠退散/トマト」というのを並べてみると、それぞれ、ネクタル:甘い/死と再生、睡眠退散:甘くない/不死、トマト:甘くない/死と再生、となります。→

これらは、それぞれ、ネクタル:「たとえ死んだとしても復活すれば良いのだ」、睡眠退散:「死なず生き続けるしかないのだ」、トマト:「死んで復活するしかないのだ」という含意だと解釈できます。→

こう解釈すると、雨宮のネクタルに関してはぽらるさんの二つの解釈を両立させる(死と再生のイメージを感知することで脚本を部分的に書けたが、そこには甘えもあった→ステージ上での再生産が必要だった)ことも可能ですし、→

それと矛盾なく楽屋のシーンを解釈できる(どうぶつしょうぎ的なもののシーンは「クロディーヌの勝ち」というよりむしろ「不死にこだわるあまり真矢が負けた」とすれば良い)のではないかと思います。→

雨宮の開けられていなかった睡眠退散は、「ある種の永続性」に対する失念のようなものを読み取ることができるのではないかと思います。つまり、「最後の聖翔祭」という終着点を見据えていてその先を考えられていないというようなところの象徴でもあるのではないか、ということです。

https://twitter.com/nebou_June/status/1724347283700129843

結論:「甘え、不死、覚悟」

こうして眺めてみると、作品の中でキーアイテムとして描かれているトマトは、「ネクタルの死と再生のモチーフ」と「睡眠退散の甘くないというモチーフ」を組み合わせたものがトマトである、と言うことができます。つまり、トマトには「死と再生」のモチーフや「甘くない」という含意が込められているが、それは「もし死んでしまっても生き返ればいい」という甘えたものや、「死なずに生き続けなければならない」という無理難題なものではなく、「不可避的に訪れる「死」から「再生」することによって生き(返り)続けなければならない」というものである、ということです。

これを裏から捉えるならば、トマトを齧ることは、「甘え」や「不死への欲求」を断ち切ることである、となります。つまり、ネクタルの持つ甘えた要素や、睡眠退散の含意する不死という無理難題への欲求を断ち切る、ということです。確かに、「死んでも生き返ればいい」という甘い言葉や、「死なずに輝き続ければいい」というストイックな目標は、とても強く我々の心を惹きつけます。しかし、現実はそう単純ではない。生きて死んでまた生き返るというのを何度も繰り返して生きていくしかない。卒業を前にした舞台少女たちは、そう覚悟して前に進んで行ったのだと思います。

そして、これを書きながら、それはこの一連の議論にも当てはまるのではないかと感じました。一度生まれた解釈を捨てて、新たな形でまた拾い上げて…といった形で新たなイメージを物語に付加していく。そして、そこから得られたエネルギーを糧にこの世界を生きる。舞台少女が決意した、まさにそのような過程を、行なっているのだと実感しました。

だからこそ我々は、この作品を読み続けるのでしょう。

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