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「卒論合同」感想⑤ 〜V 怨みのレヴュー/競演のレヴュー〜

引き続き、感想を綴ります。過去のものは以下です。
① I Introduction, II 皆殺しのレヴュー
② Ⅲ 大決起集会
③ Ⅳ station zero
④ Ⅹ ワイルドスクリーーンバロック

5-1. 「幼馴染との付き合い方に関する関連性と傾向 「怨みのレヴュー」を通じて」 ビーン(@bean_vanilla21)氏

引用されている諸作品を見たことがないのであまり言えることはないが、概ね「そう」だと思う。「「過去」の文化をなぞりながら、「未来」へ向かうため互いに完全なケリをつけようとしている」という点に関して言えば、劇場版におけるレヴューはそれぞれ外部からの引用が多いといえるであろう。「競演のレビュー」では多くのスポーツ、「狩りのレヴュー」では床に描かれる無数の引用、「魂のレヴュー」では『ファウスト』がそれである。「本歌取」的に外部の文脈を借りてきて豊かさを持たせると同時に、それを自分たちの文脈に「再生産」しているのだと言い得るであろう。


5-2. 「セクシー本堂における仏教的モチーフから読み解く「怨みのレヴュー」についての考察」 John(@Jack_O_H_Nielse)氏

面白かった。仏教の背景知識を多分に生かして作中のモチーフを丁寧に読み解いており、新たな発見が多かった。まず、阿弥陀仏のモチーフに関して、本作の主題の一つである「死」に結びつける視点が興味深かった。説得力があるように感じる一方で、作中を貫く「死」のモチーフはキリスト教的な「死」であるのに対して、阿弥陀仏が喚起する「死」のイメージは仏教的である点が少し気になった。また、阿弥陀仏が連れていってくれるという「極楽」とは何なのかも気になった。しかし、仏教的な「死」は輪廻を思い起こさせるものであり、それは本作の主題とも共鳴するものであることは確かであろう。

それとの関連で、「怨みのレヴュー」は双葉と香子が「何度も繰り返しその度に和解してきた衝突の一つ」という指摘は非常に的を射ているように思われる。本稿で述べられていたような二人の文脈においてのみではなく、本作全体の文脈においても適合的であるからである。つまり、反復・回帰しながら前進するという螺旋状の運動の上に、二人の「痴話喧嘩」も乗っているのではないかという指摘にも読めるのである。

また、鉢のシャンパンタワーに関する考察も印象深い。本稿では最上段の大鉢に香子が入っていることは双葉への供物でであることの暗喩であると解釈されている。それを踏まえると、これがシャンパンタワー状に積み上がっているのは、「供物の連鎖」であると捉えられるであろう。つまり、ある時に糧を得て「再生産」された者は、時間が経てば今度は自らが「供物」となり、他者の「再生産」の「糧」となる、と考えられる。


5-3. 「『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』に関する考察 〜 ふたかおとじゅんなななのレヴューから読み解く 〜」 K.M(@F0QApb20NRKhij6)氏

第一に「怨みのレヴュー」について。一緒に落ちたことが重要であることが重要であるという指摘は納得できる。それを踏まえると、落下時に噴き上がった桜の花びらは二人に対する「祝福」なのだろう。また、「降りる」と「落ちる」の違いは非常に重要であると考えられる。香子は「降り」ようとするも双葉に止められ、その後に「落ち」た。双葉は「降りる」気はなかったが結果として「落ち」た。降りるのは意図的な動作であるのに対し落ちるのは意図しない動作であることを踏まえると、降りるのは本稿その他で指摘されている通り「舞台(演劇)の道から身を引くこと」であると解釈される。一方「落ちる」ことは、互いの本音を吐露し「しょうもない」ことを認め合うことだと解釈できるのではないか。

次に「狩りのレヴュー」について。(すでに誰かが指摘しているが、)純那がななの武器を我が物にしたことは、「他人の言葉の受け売りをやめた」という観点からだけではなく、直接接触による戦闘になったという点でも重要である。純那は進路相談の段階で進学を希望し、演劇論(学問)という「飛び道具」によってトップスタァになろうとしていたわけであるが、この「飛び道具」性が純那の武器である弓と重なっているのである。そこにおいて、武器を刀に変えることは、飛び道具に頼らなくなったということであり、その意味でも重要であるといえるだろう。


5-4. 「「SCCで映った種目は東京オリンピックで調子良かった種目説」の検証」  ケロクマ(@kerokuma_0212)氏

視点がすごい。そして根気がすごい。スポーツ関連には明るくないので細かい部分の妥当性検証は諦めてしまったが、よくこれだけのデータを集めたなぁという感心しかなかった。

本稿を読んで初めて気づいたのが、各競技と歌詞の対応関係である。この対応が何を意味するかは不明だが、スポーツに明るい方々が何か面白いことを発見してくれることを願う。


5-5. 「舞台少女たちは何をどう演じているのか」 トラス(@subtract_x)氏

本作の構造と構成というマクロ的な視点を脇に置いた場合、私が現在最も関心を持っているのは露崎まひるというキャラクターの描かれ方についてである。もちろん「推し」だから、という理由もあるが、それと同じくらい「演じることと演じないこと間の曖昧さを担わされている」点が理由としてある。これは彼女の演技の持ち味からもわかることであろう。

本稿では、以上のようにまひるが担う「演技」概念が読解されていた。特に冒頭の『広辞苑』における「演技」の定義が興味深い。というのも、①〜③の意味が「競演のレヴュー」に全て含まれているからだ。「競演のレヴュー」は、②体操をはじめとする様々な競技をモチーフにした①芝居の一種(レヴュー)であり、そのなかでまひるは③自分の「本心からの」振る舞いあるいは「自然な」振る舞いとは異なる振る舞いを見せる。この点で全ての意味が含まれていると考えられる。

あるいは、こうした意味の「区分」の境界を、「競演のレヴュー」の中で崩している、とすら言い得るかもしれない。そして、そうした意味の区分の解体と同時に、「演技」概念と「非演技」概念の境界の撹乱も可能になるのかもしれない。だからこそ、本稿の結論のように「演技」とは「偽りない姿」を極大化して見せることである、という解釈も可能になるのではなかろうか。


5-6. 「地下鉄車内とスタジアム 空間と色から読み解く大場ななと露崎まひるの輪郭」 片抜手カツオノエボシ(@kurage_noebo)氏

地下鉄のシーンに関する解釈が特に面白かった。座る位置と「次の舞台への意識」の対応関係はとても納得がいくものだったし、地下鉄の扉「7A/7B」はそうとしか考えられないほどよくできているものだと感じられた。そしてこれを踏まえて、ひかりのロンドンの地下鉄のシーンではどのようなことが言えるのか気になった。

また「競演のレヴュー」の空間的特徴に関しては、本稿で指摘されていたことのほかに「全方位が観客で埋め尽くされていること」が挙げられるだろう。通常の演劇の舞台では舞台が一つの壁に面しており従って観客も正面(場合によってはそれに加えて左右)にしかいない。一方スタジアムにおいては全方向観客で囲まれており、従って「観客から遠ざかる」ことができない。こうした空間的な構造も、「熱量を集中させること」に寄与していただろうと考えられる。


(この記事に関する意見や指摘等があれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)


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