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wi(l)d-screen baroqueとは何だったのか、ワイドスクリーン・バロックを読んで考えた

0. はじめに

『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、様々なジャンルから無数のモチーフを引用している。野菜で構成されたキリンはジュゼッペ・アルチンボルドの絵画を下敷きにしたものであるし、『スーパースタァスペクタクル』には映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』からの引用が見られるという。そんな本作の中でも、最も明示的に、かつ印象的に引用されているのが、本作の中心に位置する「wi(l)d-screen baroque」であろう。これは明らかに、ブライアン・オールディスの持ち出したSFジャンルの一角「ワイドスクリーン・バロック」からの引用である。そこで本稿では、「ワイドスクリーン・バロック」の元祖となった小説『パラドックス・メン』を読み、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』と関連づけながら考察を加えることで、「wi(l)d-screen baroque」とは何だったのかについての手がかりを得ることを目指す。

1. 「ワイドスクリーン・バロック」とは何か

オールディスは、「ワイドスクリーン・バロック」とは何かの説明として、以下のように述べている。

絢爛華麗な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍に満ちた、自由奔放な宇宙冒険物

『十億年の宴』

(引用者注:作者自身の好みのSF作家を上げる中で)
 第二に挙げたいのは、寡作なチャールズ・ハーネスである。(中略)
 私自身の好みは、ハーネスの『パラドックス・メン』である。この長編は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深淵であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版に寄せた序文で、私はそれを《ワイド・スクリーン・バロック》と呼んだ。

『十億年の宴』

ワイドスクリーン・バロックでは、空間的な設定に少なくとも全太陽系ぐらいは使われるーーアクセサリーには、時間旅行が使われるのが望ましいーーそれに。自我の喪失などといった謎に満ちた複雑なプロット。そして"世界を身代金に"というスケール。可能と不可能の透視画法がドラマチックに立体感を持って描き出されねばならない。偉大な希望は恐るべき破滅と結び合わされる。登場人物は、理想を言えば、名前が短く、寿命もまた短いことが望ましい。

『パラドックス・メン』訳者あとがき(引用元はオールディスの著作)

以上をまとめると、「ワイドスクリーン・バロック」とは、「広大なスケールの時間・空間の枠組みの中を縦横無尽に往来し、派手な場面や劇的な描写によって可能と不可能の境界が不明瞭になるような作品」であるとでも言いうるであろう。

2. あらすじ

※本節には『パラドックス・メン』の重大なネタバレが含まれています※

以下に紹介する『パラドックス・メン』の紹介は、本作を読んだ後だと荒唐無稽なように思われる。それは、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』のあらすじが荒唐無稽に思われてしまうのと同じことである。しかし、のちの議論の参照点として前提を共有するため、作品の魅力を大きく削いでしまうことを承知の上で、大まかなあらすじを記す。

物語は、異常な身体能力を備えた〈盗賊〉アラールが、アメリカ帝国の心理学者・シェイ伯爵のもとに盗みに入るところから始まる。主人公のアラールは、五年前に不時着した謎の宇宙船から記憶喪失の状態で現れた男であり、アメリカ帝国大学教授にして〈盗賊〉の一員たるジョン・ヘイヴンとマイカ・コリップスにその能力を見込まれて〈盗賊〉の一員となっていた。

シェイ伯爵宅への強盗ののち、彼らはアメリカ帝国宰相:バーン・ヘイズ=ゴーントによる襲撃に遭い、アラールは、ヘイズ=ゴーントや帝国保安大臣:ターモンドらによる包囲網が巡らされた大学を抜け出し、宰相宮殿へと逃げ込む。そこで彼は、失踪中の〈盗賊〉の設立者:キム・ケニコット・ミュールの元夫かつ宰相夫人のケイリス・ヘイズ=ゴーントと出会い、彼女のトインビー派歴史家のフリをして舞踏会へと紛れ込むが、正体がバレそうになるとケイリスの指示で焼却炉へと身を投げて逃走を図る。

しかし気がつくと檻の中で、アラールはシェイによる拷問を受ける。その後彼は解放されるが、今度は彼が所属していた〈秘密結社〉からスパイの疑いがかけられ、裁判で死刑を宣告される。裁判において彼は、外部から光線を受け取って脳内で像を作るシステムを逆向きに利用して、目からスペクトル線を照射することで照明を打ち消し、その隙に脱出を試みる。裁判所から出るとケイリスと出会い、彼女に導かれるまま天文学者・エイムズのフリをして月へと向かう。

アラールは月に着いた後、シェイに拷問を受けたケイリス、ヘイヴン、〈盗賊〉の一員のゲインズと合流し、彼が不時着した際に手にしていた「航海日誌」を見せられる。そこには行方不明のミュールの筆跡で、一週間後の日付が記してあった。またそれとの関連で彼らは、二つの並行世界、超光速によるそれらの行き来、あるいは超光速による時間の遡行の可能性に関する議論を交わした。

その後、ターモンドらの追跡を逃れるため、アラールはケイリスらと別れて太陽基地:ソラリオンへと向かう。ソラリオンには、事故を機に全能となった人間:メガネット・マインドから情報を受けたシェイやターモンドも潜伏しており歴史学者に扮するアラールの命を奪おうとするが、シェイとの対峙は目から放つスペクトル線を生かして彼を自殺に追い込んで勝利、ターモンドとの対峙は致命傷を負いながらも電撃を利用した勝利する。そうしている間に、ソラリオンは太陽の中心部へと落下し続けており、ソラリオン内部の温度は上がり続けていた。

そうしている間に地球では、ヘイズ=ゴーントやケイリスも含めたアメリカ帝国の閣僚たちが集まる会議が開かれていた。そこでは、アラールの生死やミュールの生死について、メガネット・マインドへの質問を織り交ぜながら議論がされていた。そこでメガネット・マインドが主張するところによると、真か偽かの二値的でアリストテレス的な世界観を離れて考えれば、アラールは生きていて、しかもこの場にいるとのことであった。また、メガネット・マインドは、長らく行方不明になっていたミュールである、ということが示唆されもした。

そのように会議が紛糾する中で、ヘイズ=ゴーントたちは東方連邦がアメリカ帝国に宣戦布告したことが知らされる。それを聞くや否やヘイズ=ゴーントは超光速での移動が可能な宇宙船「トインビー22(T-22)」に乗って脱出を図る。妻・ケイリスとペットのメガネザルのような生き物(アラールが不時着したときに時に同乗していた)を乗せて飛び立とうとする直前、ケイリスは自ら命を断ち、その隙にミュール(=メガネット・マインド)がそれに乗り込む。その結果、ミュールはアラールへと「進化」、ヘイズ=ゴーントはメガネザルのような生き物へと「退化」し、五年前の地球へと不時着したことが示唆されている。これは、過去にヘイヴン博士が行った実験の結果と同じであった。

時を同じくし太陽のアラールは、急速に降下するソラリオンの中で重力に耐えかね、高温の中で死んでいった。しかし同時に彼は、自らが何者で何をすべきかを思い知っていた。それは最後の章である22章「トインビー22」で示唆されており、ネアンデルタール人に生まれ変わって人類を平和的な存在へと導く、というものであった。本作は、「すべての人間は兄弟だ!」というミュール=アラール=ネアンデルタール人のセリフで幕を閉じている。

3. トインビーの歴史哲学

では、「トインビー22」とは何なのだろうか、その命名に何が込められているのだろうか。そこには歴史学者・トインビーの歴史観が埋め込まれていると考えられる。本節では、彼の歴史観がどのようなものかを見たのちに、それがいかにして『パラドックス・メン』の中に埋め込まれているかを見る。

アーノルド・トインビーはイギリスの歴史家であり、著書『歴史の研究』で知られる。その中で彼は、歴史を「文明」(ある特定の地域・時代の人間社会、国家より大きく全世界より小さい)の集まりとして考える。彼によれば世界にはこれまで21(数え方によって異なるが)の文明が存在しており、それぞれの文明は「発生」「成長」「衰退」の過程を、同じような形で辿るという。このような歴史観は、「歴史は繰り返す」という循環史観に彩られている。

こうしたトインビーの歴史観を最も特徴づけるのが、「挑戦と応戦」であろう。文明は、別の文明との接触や自然環境の変化などによって「挑戦」を受け危機に直面する。そこにおいて文明は、「創造的少数者」が「応戦」すなわち新たな転換を行うことによって危機を克服する。こうして、「創造的少数者」の手によって文明が成長するのである。

文明が成長ではなく解体の方へ向かうのは、文明が「挑戦」に対して「応戦」をしない時である。社会の「創造的少数者」がその創造力を失って「支配的少数者」へと堕し、自らの地位を力によって保持しようとする時、「プロレタリアート」(「内的プロレタリアート」と「外的プロレタリアート」に分けられる)の離反や、被支配的な地位への反逆を引き起こすという。

しかしトインビーは、文明の解体は何ももたらさないとは限らないと言う。解体の過程に入った文明は、「死滅」を回避することはできないが、「死の中の生」として生きながらえることはできる。そこにおいて文明は「目的および価値をば超感覚的な「神の国」へと転移」し「変貌」することによって「変貌」を遂げることが可能になるという。変貌によって死滅を回避することはできないが、「新しい文明の出現と発展をもたらす種子の役目を演ずる」ことはできるであろう、と言うのだ。

こうしたイメージが、『パラドックス・メン』にも持ち込まれていると考えられる。西洋世界を支配するアメリカ帝国(トインビーの類型で21番目の文明に当たるとされている)の宰相・ヘイズ=ゴーントの強権的な政治体制は、まさに「支配的少数者」の立場であり、「内的プロレタリアート」たる〈秘密結社〉の反政府的活動や「外的プロレタリアート」たる東方連邦の宣戦布告を招き、アメリカ帝国を滅亡(=「解体」)へと導いた。

しかしアメリカ帝国には、超人的な能力を持つ「アラール」がいた。アメリカ帝国が死の間際に太陽へと(間接的に)送り出した彼は、ソラリオンの中で自らの使命を悟り、トインビー22=先史時代のネアンデルタール人となった。そこにおいて彼は「すべての人間は兄弟だ!」と叫び、人間の協調性ーすべての人類の文明の基礎となるものーを生み出した。こう考えてみれば、『パラドックス・メン』はそのままトインビーの文明モデルをたどっていると言えるであろう。

4. 「死と再生」・循環のモチーフ

トインビーの歴史哲学や、それを受けた『パラドックス・メン』におけるこうしたモチーフは、「死と再生」及び循環というモチーフであると考えられるであろう。生命が一生を終える時に新たな生命の萌芽をもたらし、また生命の始まりに戻って繰り返す、といった具合だ。

ここで留意しておきたいのは、ここでの「循環」は前のものと全く同一のものではないという点である。構造的には同じような生が紡がれる中でも、その中で変異が見られる。全く同じ歴史を辿った文明が存在しないということや、アラールがアラールとして、あるいはミュールがミュールとして生まれ変わるわけではないということがそれを示している。その意味で、この循環は二次元的な「円環」の運動ではなく三次元的な「螺旋」の運動と言って良いものであろう。

こうした意匠は、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』、あるいはwi(l)d-screen baroqueの主題と深く呼応する。卒業を目前に控えた舞台少女たちは、聖翔での生活に満足して次の舞台に対する熱意を失いつつあった。迫り来る「卒業」という名の「挑戦」に、自らの創造性をもって「応戦」することができていなかった。そうなった以上「死」に向かうのは必然である。こうして自らの「死」に直面した彼女らは、wi(l)d-screen baroqueの中で過去を燃やし尽くして燃料=糧とすることで、「再生産」をの末に新たに生まれ変わることができたのである。これは、太陽の重力に引き延ばされながら燃え尽きたのちにネアンデルタール人として生まれ変わったアラールの姿と重なるものであろう。

また、『パラドックス・メン』の中に描かれる細やかなモチーフも、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』と重なるところがある。例えば、アラールは三度ほど別の人物の「ふりをする=演じる」ことがある。そこには「生きるために演じる」というイメージが投映されているかもしれない。また、ソラリオンや宰相宮廷やシェイ邸などにおいて、アラールはたびたび「落下」する。特に、焼却炉へとパーティーから抜け出したアラールが「焼却炉」へと「身を投げ」て落下するシーンは重なりを感じざるを得ない。他にも、レイピアによる決闘やケイリスとの印象的な別れなど、共通するモチーフは枚挙に暇がない。

5. wi(l)d-screen baroqueとは何だったのか

以上のように見ると、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』におけるwi(l)d-screen baroqueは、かなりの部分をワイドスクリーン・バロック(あるいは『パラドックス・メン』)から受け継いでいると言える。従来言われていたようなド派手な演出、奇想天外な物語の筋書きだけではなく、そこで描かれている世界像が丸ごと引用されていたのだ。常識によって「世界」とみなされている領域よりさらに広い領域を舞台として、「死と再生」のダイナミズムによる循環という主題が、新たな文脈の中で「再演」されていたのだ。

最後に、「ワイド」であると同時に「ワイルド」でもあるということの意味について考えたい。「ワイドスクリーン・バロック」と言う用語は、「科学=理性」に彩られたSF(サイエンス・フィクション)という文芸ジャンルの中で生まれたものであった。一方で、ワイルド=野生という概念は、長らく「理性」と対立させられ劣位の側に置かれてきた「自然」の側に属する概念である。それを踏まえるとwi(l)d-screen barqueは、「死と再生」・循環という主題を扱うと同時に、人間の「動物性」を、「本能」を、「野生」を扱う作品でもあったのではないかと感じられる。舞台少女から「理性」を引き剥がし、「本能」のおもむくままに次の舞台へと向かわせるものだったのではないかと感じられる。

6. おわりに

本稿では、SFジャンルの一つ「ワイドスクリーン・バロック」の元祖:『パラドックス・メン』を読むことで、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』におけるwi(l)d-screen baroqueとは何だったのかに対する考察を与えた。wi(l)d-screen baroqueという、確かに重要ではあるがぼんやりとしていた概念に、少しでも輪郭を与えることができていたら幸いである。

ここまで議論によって両者の連続性を指摘してきたが、「つながっている」という実感は両者を直に「体験」して初めてわかるものではないかと思う。是非本を手に取って、何が「ワイドスクリーン・バロック」なのか、そしてそれはwi(l)d-screen baroqueとどうつながっているのかを、身体で「解って」ほしいと思う。


(本稿について感想や意見等ありましたら、ぜひ著者(@nebou_June)にお聞かせください。)

<参考文献>
・チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』中村融訳、竹書房、2019年
・B・W・オールディス『十億年の宴』浅倉久志ら訳、東京創元社、1980年
・樺山紘一責任編集『歴史学の方法』弘文堂、1998年
・P・A・ソローキン「トインビーの歴史哲学」山口光朔訳、『トインビー研究』所収

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