2月5日:都市に青

僕の中で中央線はサブカルの街。
中野、高円寺、吉祥寺。

特に吉祥寺は憧れの街だった。
なぜだか分からない。
今となっては密接になった吉祥寺も、まだ憧れの気持ちで遊びに行ったりしてる。初めてライブをしたり、好きなご飯屋さん、好きなブランド、好きな服屋があったり。理想は現実になっても、輝いている。

初めて吉祥寺に来たのは、高校一年生の時、友達とラーメンを食べに行った。えん寺ってお店。一緒に行った友達が吉祥寺の近くに住んでいるから、美味しいラーメン屋さんがあると聞いて、食べに行った。それが初上陸。
そこからの記憶は曖昧。挽肉と米というお店に何回か行ったくらいで。その次は盛大に振られたあと、付き合ってデートの費用にするはずのお金を吉祥寺の服屋に溶かした。当時の僕は服に疎くて、何となくのかっこよさで古着屋巡りをしてた。下北沢も高円寺も。古着のイメージのある駅は少し遠かったから、吉祥寺にした。その時にその子のことを思いながら、たくさんの音楽を聞いた。そんなことをしてると、なぜか、何となく、その子との思い出がある街のような気がした。

ここまで僕の吉祥寺のルーツを解いたが、一向に気配が掴めない。

きっと仮説を作るとすれば。
「らしさ」に囚われてるのかもしれない。

「中学生らしさ」「高校生らしさ」「大学生らしさ」

吉祥寺は「大学生らしさ」だと思う。

ある意味の青春コンプレックスのようなもの。
充実した学生生活ではあったが、恋愛面とでも言うべきか、その時その時にしか味わえないものを忘れてきている。「高校生らしいデート」で原宿へ行って彼女とプリクラを撮ったり、渋谷スカイでインスタの写真を撮ったり、味わえてない。でも、今も現実に原宿も渋谷スカイもある。その乖離とでも言うべきものから生まれるこの劣情とも取れる思い。まさに青春コンプレックス。
それを避けるために大学生のうちから「大学生らしい吉祥寺」に通っているのかもしれない。

僕にとって「らしさ」は憧れだ。
普通じゃつまらないとは思うけど、普通にも憧れる。そう言う人間だ。枠からわざとはみ出て、外れた場所から、枠の中を睨む、望む。でも、枠を嫌悪している。大衆的なカルチャーを避け、みんなが好かなそうなサブカルチャーを追い求める。僕の葛藤、そのふたつを両立してくれるものこそが吉祥寺だと思うんだ。「古着屋」などのサブカルを担う吉祥寺、「大学生らしさ」のオシャレを担う吉祥寺。僕にとっての落ち着く場所なのかもしれない。

憧れの象徴=吉祥寺、高円寺

高円寺は1度しか行ったことがない。それも曖昧で楽しくなかった。古着屋巡りをしたがあまりピンと来なかった。当時は古着屋という言葉に課せられて、古着屋巡りをしたが、今では好きなジャンルではないことに気がついた。

そんな高円寺はずっと憧れの象徴として、僕の中に飼おうと思う。

andymori「待ち合わせは高円寺」
PEOPLE1「さよならは高円寺にて」

好きなアーティストが高円寺を歌ってる。
楽しくもなかった街だけど、好きなアーティストが歌ってる街なら、特別に思える。


ずっと、意味や目的を探してる。

「なぜ、僕はバンドをやるのか」
「そのバンドで何がしたいのか」

決意したはいいものの、漠然としたかっこよさへの憧れとか、何となくで始まったもののような気がする。自分の音楽をやりたいと思いながら、どうせ出来ないような気もしてる。もしかしたら、決意した瞬間にでも、曲を作り始めてればなにか変わってたかもしれない。当時は受験期で音楽とかギターとか、そんなものにタスクを裂けるほどに、余裕はなかった。そうしたまま、現在になってようやく作れる環境になったのに、自分の好かない音楽が生まれることを知って逃げるように避けている。

なにかが欠けてる。別に欠けてても問題のないものかもしれなかった。でも、今の自分を奮い立たせるには、意味や目的が必要に感じる。