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論文の査読ってとっても難しいんですよ

 学会に長くいると(何本か論文書いてると)「論文の査読」をお願いされることがあります。学会というのは研究者の町内会みたいなもので、それなりに論文を書いた実績があると、こんどは他の人の論文をチェックする役割をいただいたりします。これが難しく。内容や質に問題があるものは指摘して直してもらわないといけないし、場合によってはリジェクトといって「掲載しません」と言わないといけない。ただあんまりきついことを言うと二度と投稿してもらえないかもしれないし、偉そうですが後進の指導を考えると、採択できるようにするために「なるほど、そう直せばいいのか」と相手に分かるようにやさしく書かないといけない。落とすのは簡単ですが、育てるには優しさと厳しさ、両方が必要ではないかと思うわけです。そして優しさ多め。偉そうですが長期的な発展を考えると「育てる」要素が重要だと思っています。というのも私が加盟している学会の多くが「もともと研究者であり続けた人が研究のみについて語る集まり」というよりも、研究経験が少ない実践家も混ざっている集まりだけに。

 ワタシは基本的に「直してくれたら載せる」という立場でやっているのですが(逆に査読者から「直そうが直すまいが載せない」みたいなすごい意地悪をされたことも何度かあります)、こういう立場は研究者内では必ずしも多くはないかもしれないと勝手に思っています。実は心理学系の業界では「(質を維持するために)査読で落とす」のが恰好いいというか、みんなが落とすものだから「落として当たり前」みたいなのが常識になっていて、心理系学会が何十とあって総会員数は数万人といるはずなのに、それら全て足しても査読論文が1年でせいぜい100本を越える程度しかないという状況になっています(少ない学会だと年に少ないほうの1桁、多い学会でもせいぜい20本。年に1本あるかないかの学会も)。特に統計関係が厳しいという印象ですが、最近は事例研究でも複数事例を求められます。従来からよく使われる特定の統計処理、あるいは新しい処理でも有名なものしか採択されなかったりする。質的研究はかなり厳しい。査読者も知識やスキルを更新していく必要があります。

 そういう経験があるのでワタシは「こういう問題意識はいい」「こういうふうに直してくれたら、載せる方向で進めたい」みたいに査読で伝えるわけですが、そもそも前提から学術的でない(例えば先行研究を調べていない、問題や背景や明らかにすべきことが明確でない、手続きが不適切など)ことも少なからずあり、「こう直してくれたら載せられるかもしれない」とは具体的に伝えますが、特にもともと研究者じゃなかった人が相手の場合は、そのままかなりの確率で査読辞退となったりもします。学会によっては論文作成の研修をやったりしていますが、論文作成者の努力や勉強とともに、査読者の教育も必要だとは思っています。バランスが難しいんですよ。一方で実践家が研究者を「専門バカ」と小ばかにする雰囲気も一部にはありますし。

 うーん、今回は査読者の偏屈の問題と、学術的ルールをあまり学ばないで論文投稿をしようとする実践家の問題(うーん、ワタシはどっちにも絡んでいるなあ)という話なのですが、お互いがお互いの立場をしっかり話すべきです、伝えるべきです。学会ですので実践家の論理だけではおかしくなるし、統計屋の論理だけでも進歩がないかもしれない。バランスが大切だと思います。特定の層の人が「自分たちの居心地を良くする」と、学会として新しいアイデアが出なくなるのではないか、と心配しています。お互いにお互いのことをリスペクトすべきです。日本の心理学の統計主義はかなり「進化の袋小路」に入っている気がします。枝葉末節も大切だけど、王道理論や邪道理論があってもいい。新しい理論や技法が出なくなってきたとしたら、それは学会が硬直しているせいかもしれません。



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