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“ あの頃 ”のない人間


2023/12/19

晩にドラマのカルテットを観ていた。

登場人物では高橋一生が演じているヴィオラ奏者の“家森”という男がいる。

6000万の宝くじに当たっていたけれど引き換え期限が過ぎて引き換えできず、ヤケクソになって飲み歩いていたところ飼っていたハムスターが亡くなって泣いてる女性を慰めていたら結婚して子供もできていた男なのだが、その家森が病院に入院していた時に妻は会いにきてくれず、息子だけが足を運んで「早く大人になりたい」と呟き父である家森は“あの頃”に戻りたいと思っていたという内容のエピソードがある。

家森の妻(元妻)は冬でもサンダルを履くし、スマホの画面はいつも割れている。ケーキの入った箱を渡すと持ち手を気にしないで縦に持つ。

話が通じる順で言えば、猫、カブトムシ、妻(元妻)。

そんな母を持つ息子なのだからそう思っても頷ける。しかしそんな一見はちゃめちゃな妻でも母ではあった。
家森にも原因はあったため、そう思う。

早く大人になりたい息子と、“あの頃”に戻りたい父であるが、単純に対比と捉えれば“あの頃”とは息子の年齢小学2〜4年生ぐらい。

私はそんな“あの頃”に戻りたいと思ったことなど一度もなかった。戻りたいと思えるほど、成人してからのいわゆる“大人”である期間が短いのもあるだろうし社会経験の未熟さ、その他諸々もあるとして、だとしても今の今まで一度も思ったことがない。

あの頃と言えるほどの記憶がないのが1番の原因でもあるし、あったとしても戻りたいと思えるほどのキラキラしたものなんて私は持ち合わせていない。

人見知りと、話すことが面倒なのと、他人からの無言の人のレッテルで、そのくらいの時期では、学校にいる中でそもそも一日の中で一言話すか話さなかの人間だったのもある。

だから低学年の記憶はないといっていい。
全くない、本当に。
クラスに誰がいたか、何を話したか、低学年の期間何をしていたか、そもそもその期間自我はあったのか疑うほど本当に空白なのだった。
それでは高学年はというと、おかしなことに少しあるのだ。そもそもあんまりいい思い出はないため、記憶から消えてる部分もあり、同級生から聞く話では覚えている話と覚えてない話がありそれでも覚えてない話の方が多い。覚えているクラスメイトがいれば名前はわからないし、そもそもそんな人いただろうかという具合で。

だからあの頃といえる、あの頃が存在しない私は子供の頃に戻りたい大人には共感さえ出来ないし、そもそも同じ土俵にすら立てることはない。

その低学年くらいの子供の時に、キラキラとした思い出があるのは本当に羨ましい。
そう言った思い出が一つあれば、なんとなく人生は豊かになりそうだし、その思い出がある中で生きていけるのは本当に単純に羨ましいのだ。

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