史上最大の節分

「フハハハハ!よく辿り着いた。だが遅かったな。もう誰にも止められんのだ!」
 高笑いの合間に小さく咳込んだプロフェッサーの口から濃い色の血痰が飛び出し、それを拭おうと屈んだ拍子に今度は激しく咳込みながら床に倒れた彼が二度と起き上がることは無かった。

 方角の算出を任されたAIが参照する学習データにはプロフェッサーが巧妙に偽装した偽情報が仕込まれていた。
 今年の恵方と鬼門が入れ替わっていることに気付いた人々が上げた声の拡散速度はプロフェッサーの想定範囲を超えず、数百万の人々が鬼門に向かって無言で丸かぶりした太巻き寿司一本一本を依り代として知らずに執り行われた鬼寄せの儀式により召還された幾百万の鬼が一つになり、本邦史上最大の鬼「オニラ」が誕生した

 二〇二×年二月三日一九時四四分
 大阪湾から夢洲に上陸したオニラは通天閣を見下ろす巨躯を闇夜に透かしながら東北東へ歩み始めた。
 地形も障害も無視した直線の新路上には首都東京 皇居があった。
 永田町総理官邸に集められた緊急対策会議上でオニラの首都侵入阻止の方策が検討された。
 東京都内に到達するまでに三時間、
 東京五社の五芒星形状により張られた結界の遅延効果が推測一時間、
 オニラの活動限界は節分の日付が変る翌午前零時。
 一切の物理的干渉を無効化するオニラに対して最低十六分の時間稼ぎが求められていた。
 フィールドワーク先の樺太からヘリで呼ばれたプロフェッサーの元助手が発した提案は一見子供じみていた。
 豆を投げる。
 如何に巨大なオニラとて鬼である以上鬼やらいの儀式を起源とする節分豆まきの効力からは逃れられない。
 問題はその質量。オニラの推定体積十万立方メートルに対し豆一粒の干渉による拘束時間は期待値で0000000.1秒。目標最低拘束時間十六分、およそ一千秒を達成するためには百億粒、すなわち三万トンの豆を要する。
 時間は切迫していた。
 衛生上の問題という建前で助手が提案したプラスチック廃材に祝詞を刻印する疑似豆案は環境への配慮と言うより大きな建前により却下された。
 日本全国からオニラの進路上に急ピッチで豆が集められた。計算の誤差を考慮した豆の目標総量は四万トンとされ、これは農林水産省の大豆備蓄量を大幅に超えていた。
 民間企業のみならず一般家庭にも大豆の供出が求められた。ヤオマメ作戦と呼称される短期集中動員計画に基づきあらゆる媒体で拡散された呼びかけに応じ全国から提供された約一万二千トンのうちおよそ二十四%の落花生、ピスタチオ、アーモンド、グリンピース、チョコボール、BB弾等不純物を除く有効投豆率七十六%約九千トンと、米国から急遽空輸された二千トンを合わせ総量四万と五百トンの豆が辛うじて確保された。遺伝子組み換え大豆混入に問題が無いことは事前の実験により確認された。
 本州を縦断するオニラに対し愛知県、静岡県、神奈川県に設けられた第一、第二、第三防衛ラインにそれぞれ一万トン、二万トン、一万五百トンの豆が配備され自衛隊中部方面隊を中心に結成され配置につく豆まき隊に支給された。
 二一時〇五分、第一防衛ラインを通過するオニラに最初の豆が放たれた。
 接触の精神汚染リスクにより人が近づけないオニラへの豆まきは重機による投擲、高圧コンプレッサーによる放射、空からの散布により行われた。
 真冬の夜空を切り裂いて放物線を描き或いは雹の如く降り注ぐ無数の豆がオニラの薄赤い霊体を通過し、地面路面に跳ね転がった。
 オニラに減速する気配はない。だが対策会議は豆の効果を認めた。
 大阪湾から時速30㎞で移動を開始したオニラは徐々に加速し、何もしなければ第三防衛ライン通過時点で時速250㎞、東京到達時点で時速310㎞になると予想された。この加速を減少させ、第三防衛ライン通過時点で140㎞未満に減速させていれば皇居到達前に日付が変わりオニラは自然消滅する。
 第一防衛ラインは豆まき量と加速抑止効果ともに目標を達しつつオニラの通過を見送った。直ちに大量散布された豆の回収作業が開始されたが、綿密な散布計画に比して杜撰な回収計画により人員と機材が不足、豆に足を取られて転倒衝突する事故も相次ぎ回収は難航した。
 二一時四九分、第二防衛ラインに接近したオニラの速度は時速80㎞を越えていた。
 闇夜の向こうから入道雲と見まごう威容の巨人が音もなく突風の如く迫って来る姿に豆まき隊員は恐怖を禁じ得なかった。
 豆まきが開始された。オニラの速度と加速度を計算した偏差投擲、偏差放射、先読み散布により進路上の空中に放擲された大量の豆粒をオニラは全身で飲み込み吐き出した。二万トンの豆が僅か二分の間に投げ終えられ東海道の大地にばら撒かれた。
 加速抑止効果を計算する対策会議に緊張が走った。
 オニラが想定を超えて加速している。
 目測を誤りオニラに当たることなく落下した豆が許容範囲より遥かに多かった。
 その場で行われた再計算によると第三防衛ラインの一万五百トン全てが正確に命中しなければオニラの東京到達は阻止できない。
 第一防衛ラインで回収した豆を空輸し第三防衛ラインで再使用する「二度撒き」作戦が急遽決定されたが効果は未知数だった。
 オニラの進路上に加えて神奈川と東京全域に避難勧告が発令された。
 会議室の重苦しい沈黙を破って元助手が発言した。
我々は大きな勘違いをしていた」
 第一、第二防衛ラインの抑止効果を計算し直した結果によれば、オニラの身体を外れた「投げ損ない」のうち、建物の屋上などに落下し直後にオニラが通過した分の豆は抑止効果が働いていた。
 豆は投げなくていい。制止している豆にオニラが自らぶつかるだけでも同じ効果が見込める。
 急遽変更された計画に基づき第三防衛ラインで突貫の作業が開始された。
 オニラの進路上に位置する箱根の山々に無数の櫓が接地され豆が置かれた。
 二度撒きの豆と追加で確保した豆を含む一万一千九十トンの豆が迫りくるオニラの前に投げ出された。
 三十分という記録的短時間の作業が終りかけた時、目前に迫るオニラの時速は135㎞に達していた。
 一陣の風の如く、というにはあまりに巨大なオニラの赤い影が箱根の山を切り裂くように走り抜けた。
 退避の間に合わなかったヘリ数機が操縦不能になり一機が墜落、三機が不時着した。乗員は救出され命に別状はなかったが精神汚染の有無はすぐには分からなかった。
 オニラの第三防衛ライン到達時間は想定誤差マイナス四分二十二秒、通過速度136㎞。追加の豆が功を奏しオニラの加速を最小限に留めることに成功したが、想定より早い通過を加味するとなお予断を許さなかった。
 二三時〇三分、オニラは東京都世田谷区に上陸した。住民が避難し無人の街となった東京二十三区を疾駆するオニラの影が急激な減速を始めた。東京五社結界の遅延効果が発動している。だが結界を構成する日枝神社、そこから徒歩圏内にある総理官邸緊急対策会議室にもオニラの姿は間近に迫っていた。
 二三時四二分、時速5㎞まで減速したオニラは日枝神社を越えた。
 対策会議と首相閣僚らがヘリポートから急ぎヘリに乗り込む最中もオニラはまだ前進を続けていた。真っ赤な太い足が目の前に迫っている。離陸が間に合わないかもしれない。
 その時、オニラの動きが完全に止った。
 オニラの巨体から距離を取ったヘリの中で対策会議は固唾を飲んで見守る。
 時計の針の一秒一秒が恐ろしく長く感じられた。
 二〇二×年二月四日〇〇時〇〇分
 節分が終わり、節分の鬼として召喚されたオニラは霞が消えるように消滅した。
 ヤオマメ作戦は目標を達成し史上最大の鬼を祓うことに成功した。
 避難勧告は全て解除された。
 明かりが灯って行く東京市街の上空で、対策会議の一同が快哉を叫ぶ中、元助手だけが沈鬱な表情を崩さなかった。
 ばら撒かれた四万一千九十トンの豆の回収作業は夜を徹して続けられたものの余りの大量さに遅延を重ね、翌日から民間ボランティアを投入してなお終わる気配を魅せなかった。
 二月一〇日時点で二万五千トン、三月一日時点で三万八千百トンが回収されたが、残り三千トンの大半が回収不能及び行方不明となった。
 回収された豆の全面廃棄を主張する元助手の主張はフードロスの観点から却下され、二万トンはバイオマス燃料に、食用可能と判断された一万五千トンのうち一万トンは家畜の飼料に、再三に渡る慎重な試験を重ね安全が確認された五千トンは加工食品の材料としてそれぞれ再利用が決定された。

 鬼の身体を通過した豆を食べたものは精神に変調をきたし狂暴化するという噂がまことしやかに囁かれ始めたのは間もなくのことだった。直ちに否定され多くの反証が提示されたが、同時期に発生した複数件の刑事犯罪が鬼との接触で「穢れた豆」の影響を疑われ、関係者への風評被害と嫌がらせ、大豆製品への不買運動が続出した。
 更に米国から緊急輸入した二千トンの法外な対価を巡り国会が紛糾、内閣が解散総選挙に至る「鬼解散」事件に至った。

 回収されなかった三千トン、約一万粒の「穢れた豆」のうち何割が芽吹き、そこから生えたものが何をもたらすのか、それを知るプロフェッサーは既にこの世にいない。

【この作品は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件・施設・地名とは一切関係ありません】

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