深海歴史認識異聞

 香取航空基地所属海軍少尉太田鍬次郎様
 昭和202月、
 あなたは硫黄島を占領する米国軍艦船を撃沈するため特別攻撃隊として出撃なさり、名誉の戦死を遂げられました。

 私達みなが今、平和で豊かな時代に生きているのはあなたの尊い犠牲のお陰です。
 この崇高な献身と奉仕の精神を私達は未来へ受け継いでゆかねばなりま…

 はっ くだんね
 馬鹿で身勝手な政治家と軍隊が始めた勝ち目のない戦争の尻ぬぐいのために死んで来いと命令されてなすすべなく死んだのが尊い犠牲だ?献身と奉仕?
 無駄死にだよ無駄死に。
 受け継ぎたい奴は自殺でもするか?

 おいやめろ!
 事実としてあの日彼が死んでくれなかったら我々は今ここにいないんだぞ!
 我々鯨骨生物群集が深海に沈んだ鯨の骨を食べ尽くして
 餓死を待つばかりだった時、
 たまたま飛行機と一緒に沈んで来た彼の骨を食べて
 命拾いしたのを忘れたのか?

 あーはいはい何回も聞きました!それ偶然じゃん
 そいつ俺らに食べられるために死んだわけじゃねーし
 そいついなかったら死んだかも分かんねーじゃん

 貴様!我々鯨骨生物群集の礎となった恩人を侮辱するのか!

 怒り狂うコンゴウアナゴとやさぐれるヌタウナギの論争を
 仲裁するオンデンザメは困り果てた
 マリアナ海溝の底に点在する鯨の頭骨や背骨に集い、
 そこを数十年の住処とし糧とする
 我々鯨骨生物群集は他に行く場所が無い者たちの集まりだ
 魚たちの口論に対し、同じ鯨骨に住まう
 ホネクイムシ達は先祖代々の家訓からコンゴウアナゴを支持し、
 コシオリエビは実感がわかないという理由でヌタウナギにつき
 ナメクジウオはぬるぬるとどっちつかずで
 貝類達はひたすら口を閉ざし
 誤解されたくないからとゴカイも追従した
 通りすがりのコトクラゲは
 よく分からないと言いながら漂って行った
 代々顔を突き合わせて生きている者同士、
 ことを荒立てたくないのは皆同じだ

 闇の向こうに小さな光が揺らめいている
 他の鯨骨に集うコミュニティの明かりだろうか
 あちらはいつから始まっていつまで持つのだろう

 太田少尉の骨で九死に一生を得た生物達が
 新たに沈んだクジラの死骸の上に
 このコミュニティを築いてから七十有余年
 あの恐怖と飢餓を生き延びた記憶を直接持つ者は
 オンデンザメただ一匹となった
 この記憶を語り継いで行くには些か歳を取り過ぎたかもしれない
 急に疲れを感じたオンデンザメは後日ある噂を耳にした
 ここより遥か深い海の底に
 竜とよばれる未知の生物が沈んでいる
 その骨は不思議なことに食べても尽きることが無く
 そこでは皆争いとも飢えの恐怖とも無縁の暮らしをしているという
 
 次の大潮の後オンデンザメはコミュニティから姿を消した
 それ以来、鯨骨生物群集で
 太田鍬次郎の思い出が語られることはなかった

 そこから2万キロ離れたブラジル、サンパウロに住む
 太田鍬次郎の曾孫、フェリペ太田グアルディオラ氏は
 日本からの取材に対し、
「日本でどう語られているかについて私からは何も言えませんが、生前の祖母はお酒を飲んだ時などに父さんにもう一度会いたい言ってと泣いていました」
 と答えたという

【この作品は全てフィクションです】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?