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便器の子

このnoteを日記などと看板を掲げつつしばらく一文字も書いていなかったが、特に誰も見ていないと思うので咎められる謂れはない。提出期限のない日記なんて最高ではないか。私は小学生の頃、夏休みの日記などというものは8/31の夜にまとめてインチキを書き並べたものだ。そんな大嘘日記なんかより、こつこつと三日三晩寝かせた極上のネタを提供したいものである。


看護学校に入って3年目、散々苦しめられた忌々しき看護実習も後半戦へと突入した。普段は附属の病院で実習を行うのだが、科目によっては他の病院でお世話になる、ということもある。附属の病院はありがたいことに新築のため、看護師が怖いということ以外には環境のストレスがほとんど無いのだが、よその病院ではそうもいかない。ダンゴムシが出現したり、エアコンから水が漏れて頭に落ちてきたり、草のツルが室内にまで伸びていたり、小便臭かったり、運が悪いと記録を書く場所がなかったり、うんざりしながら実習をすることになる。
そんな外部実習の代表格である訪問看護の実習では、お宅にお邪魔する時以外は常にステーション内で待機していることになる。大体訪問する頻度は1日1~2件、1回30~90分であるため、その時間以外はずっと、他校の実習生達と気まずい時間を共に過ごすことになるのである。訪問の看護師さん達も大体同じくらいの時間にほぼ全員が出かけてしまうので、ステーション内にはエアコンが発する微かな音と蝉の声、トイレの音姫、シャーペンを走らせる音だけが響き渡る。

そんな中、快便女王の名を轟かせる私の大腸が元気に活動し始めるのだ。し始めてしまう、という表現のほうがおそらく正しい。待機場所とトイレまでの距離、わずか歩いて6歩ほど。つまり、待機室やナースステーションでの話し声も、トイレを流す音もヘタしたら排泄音も丸聞こえというわけだ。外部実習での環境ストレスに『静か過ぎる』というのも1つ加えるべきだと思った。
こんなことを考えながらひんやりとした便座に座っていたが、一向に出るものが出ない。便座が冷たいのが原因とも考えたが、明らかにブツが硬いのである。私が独自に編み出したイキみかたをしても到底太刀打ちできない。ちなみに私が編み出したこのイキみかた、前にかがんで肛門を『ひっくりかえす』のだが、これは一歩間違えると普通に放屁して押し出し要員としてのガスを無駄に排出し、ただ周辺を臭くさせ、排泄音を響かせ、6歩先で待機している他校の学生と気まずい時間を共有するだけで終了するため、迂闊に外でこの奥義を繰り出すことができない。
しかし今の私には限界だった。今排便のタイミングを逃したら、おそらく次は訪問の車の中で大腸が暴れだすだろう。自分の身体は自分がよくわかっているし、自他共に認める心配性のためそういう予測だけは瞬時にできる。

いっそ摘便でもするか。一応私だって腐っても看護学生であり、実習前に摘便の演習をしているため手技はマスターしているのだ。しかし潤滑剤がない。小指くらいならトイレットペーパーを巻きつければ入るんじゃないだろうかと思い、準備し始めたところでハッと我に返った。
私は何をやっているんだ。こんなところでセルフ摘便などして腸管穿孔を起こしたらと考えたらゾッとした。『アイツ自分で摘便しようとして失敗したらしいぞ』なんて学校中で噂にでもなったら、志半ばで泣く泣く退学届を出し、トボトボと学校を後にする情けない姿が容易に想像できる。ウンコのせいで退学なんて絶対に嫌だ。やめよう。正々堂々、正規ルートで出そう。
別に糞とかけているわけではないが「フンッ」「フンッ」と限りなく小さな声で自分を鼓舞しながら怒責し、ぐりぐりと腹部マッサージを繰り返す。別にウンコとかけているわけではないがウンともスンとも言わない。今日はいつもより便も固い上に肛門も狭い気がする。交通の便が悪いとはまさにこの事だな、とつまらないシャレを思いつくくらいの余裕はあった。
勝てる。この余裕なら勝てるぞとラストスパートをかける。うんちなんかに負けている場合じゃないんだよ私は。絶対にお前らを下水の濁流へと流してやるからな。もうこの際血管がブチ切れても構わないと思った。セルフ摘便に失敗して救急搬送されるより100倍マシだ。絶対に負けるものか。



しばらく便器に浮かぶウンコから目が離せなかった。良い戦いだったよ。この快便女王の私を手こずらせるとはなかなかの実力の持ち主だね。そんな言葉を投げかけたかったが、ドアを開けた6歩先の真面目な学生たちに聞かれたらもう明日から私の席は無いものと思われるため、グッと押し殺して下水の濁流へと見送った。



その後訪問先で出会った利用者さんは、便秘で苦しんでいた。看護師による摘便でスッキリ排泄できたとき、「ありがとう、ありがとうね」と嬉し涙を流す利用者さんを見て、私は初めて『患者の気持ち』というものを理解できた気がする。

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