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鼻のけもの バナナサンデー第9話

店主はテーブルの椅子に深く腰かけ、扇風機の風にあたっている。
シャワーを浴びた短髪に水滴が残っていた。鼻のけものはミントの匂いのする店主の肩にじっとうずくまった。
ミントはシャンプーの匂いだろう。
じっとりした店主の身体に同化するように全身の感覚を研ぎ澄ませた。
すると遠くの方から微かに映像が見えてきた。
店主の記憶だ。
お風呂のじわっとする湯気。
笑い声。
おもちゃの黄色いあひる。
甘いフルーツの香りのするシャンプー。
「肩まで浸かって10数えるよ。いーち、にぃー、さん、し…」
今よりだいぶ若い店主が湯ぶねに浸かりながら数を数えている。
入浴剤を入れた湯はきれいなエメラルドグリーンだ。
「お父さーん。またくらげやって!」
小さな男の子が、くりくりした目を向けてくる。父を見つめる信頼しきった顔。
なんて無邪気な顔。
湯気で頬が赤く色づいている。
「よーし。ほらほら、くらげさんが出てくる出てくる…」
店主のは湯の中でタオルに空気を入れて丸める。するとくらげみたいな丸が浮かぶ。
「わあー」
男の子はタオルのくらげをぎゅっとつかんだ。空気がぶくぶくっとはじけた。
「わはは、おならだ。くらげおなら!」
「ああー誰だおならしたのは」
「くらげ!」
男の子は楽しそうにきゃっきゃと笑った。
………つらい。
突然、お風呂の思い出の後に地獄のどん底のようなつらさがやってきた。
鼻のけものは自分が地獄の底に引きずり込まれていくような気がした。
(いやだ!いやだ!真っ暗だ!真っ暗闇だ!)
鼻のけものは慌てた。
突然の絶望を全身に浴びてしまった。
鼻のけものがあわあわと身震いしていると、店主はビールを一気にあおり煙草をたぐり寄せた。
一本抜いて火をつける。
ひと息吸い込み胸いっぱいの絶望を追い出す。
左手で吸い殻でいっぱいの灰皿を引き寄せる。
「ああ…」
店主の声は濁っていた。
扇風機の風が空気をかき回す音だけがしていた。
もう子供の楽しそうな笑い声はこの家にはないのだ。

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