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親父と林檎12

あの時、親父は泣いてる俺の顔を撫で回した。まだ若い親父の顔。
まだ目に光があった親父の顔。
どうして人は変わってしまうんだろう。
どうして人は孤独に耐えられないのだろう。
親父は俺の横で林檎を器用に剝いていった。
くるくると皮をひとつなぎに剝いて、たちまち林檎の肌が丸出しになっていった。
「すげー…母ちゃんはそんなに上手に剥けないよ」
俺は摺り林檎を器一杯食べ、子供用の甘い風邪シロップを飲んでゆったりと布団に寝ていた。そばに親父がいる。今日はどこにも行かずにそばにいてくれる。それが嬉しかった。親父が一緒にいてくれて嬉しい。そんな感情が俺にはあった。信じられないが、ガキの頃の俺はまさしく親父の存在が嬉しかったのだ。
俺は何ともいえない感情に襲われた。
思い出しながら俺はその場にうずくまってわんわん泣きたくなった。
親父などとっくに心の中から棄てたと思ってた。だが親父を棄てる事などできず、俺は生き続け、親父は死んだ。
散らかった畳敷きの居間で、薄暗い電灯の下で煎餅布団に寝てる俺と、横で林檎の皮を剥く親父。その光景が舞台のように闇に浮かんだ。俺の意識の中でガキの俺と親父は会話をかわした。紛れもなく親子の時間を過ごした。
親父は林檎を四つ切にして種部分を削ぎ取り、また二分割にした。
「父ちゃんの母ちゃんも風邪の時、摺り林檎を作ってくれたんだ」
親父は林檎を剥き終わると食いながら言った。しゃりしゃりと目を細めて林檎を咀嚼する親父はどこか遠くを見ていた。
「父ちゃんの母ちゃん?」
「ああ、聡には父方の婆ちゃんというんだ」
俺は婆ちゃんというと母の母である婆ちゃんしかいないものと思っていた。父の言葉がよくわからなかった。
「婆ちゃんは、いるよ?」
親父は俺の顔を見下ろした。
林檎を飲み下し目をまんまるくしてから薄く笑った。
「聡には爺ちゃんもいるんだ。本当は。
父ちゃんの親が聡の爺ちゃん婆ちゃんなんだよ」
親父はゆっくり喋った。
「聡は爺ちゃん婆ちゃんに会うことあるかな?聡には伯父さんもいるんだ。父ちゃんの兄さんだ」
親父が親族の話をなぜガキの俺にしたのか。
林檎が郷愁を呼び起こしたのだろうか。
親父は自分の親と縁を切って母と結婚したのだ。自分の姓を捨て、婿養子になった。
俺は父方の親戚が存在することすら知らなかった。
親父の家族。その人達は今も生きているのか。親父が死んだことを知らずに。
母はその人達の事を知っているのだろうか。
俺は母の考えていることがさっぱりわからないが、電話の件もあるし、一度母と話してみるかという気になった。とにかくこのままではいけない。
俺は母に電話をする気にやっとなった。

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