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相談をされたら、自分が見えた話

「会社やめたいんですけど」
会社の後輩に相談を持ち掛けられた。
入社して一年目、仔犬みたいに人懐こくて(ぶんぶん振っているしっぽが見えるよう)、「ありがとうございます」と「ごめんなさい」が素直に言える子。そして何より「接客が好きです!」とわたしの目を見て言える子なのだった。そんな彼女の相談だった。


わたしは昨年末まで彼女の教育を担当した。
店舗に配属前、わたしたちは結構厳しい研修を受ける。他の会社を知らないので何ともいえないのだけれど、比較してもそれなりに大変なのではないだろうかと思う。研修の段階で辞めてしまう子もいる。十年、二十年と先輩の話を聞くと、今でならひとこと「パワハラ」と括れるような内容だったりして、パワーワードが飛び交う彼女らの思い出話に入社してそれなりに経ったわたしですらやや驚いてしまう(と同時に時代なんだなあと思う)。
指摘が厳しくて研修中に泣いてしまう子もたくさんいた。わたしも帰り、ひとりになってから泣いた。その場では悔しくて泣けなかった。
今年度の研修がどのようなレベルの厳しさだったのかは知らないが、ともかく彼女はそれらを前向きに捉えて経験し、丁寧な楷書で報告書を書き、わたしに見せてくれた。確認のサインをするたびに「わああ、うれしいです! ありがとうございます」と半ば大げさに言うのだった。


「一年は続けようと思ってたんですけど、やっぱり無理です」
長い睫毛の隙間からぽろぽろ涙のしずくをこぼして、彼女はそう言った。お客様から、こちらの(些細な)確認ミスのご指摘を頂戴したのをきっかけに、いわゆる「メンタルがやられて」しまい、心身の歯車が回りにくくなり立ち行かなくなってしまったようだった。励ますのも違う、いいよいいよ大丈夫だよとやたらに援護するのも違う。どのように声を掛けたらいいのかわからず、しばらく見守るという、要するにわたしからは何もしないという期間を設けた。下手な言葉で彼女が傷つくのが彼女にとってつらいことであると同時に(あるいはそれ以上に)わたしにとってつらく、怖く、不利益みたいな気持ちになった。


「やっぱり無理です」の言葉を聞いてから、これはわたしが遅かったかと後悔の気持ちがいっぱいに広がったのだった。それから、どこか挽回するような決意も込めて、わたしは彼女の話を聞くようにした。うまく言葉にならないときはカラオケに行ったし、ふさいだ気持ちと空腹をごちゃまぜにしないように、肉を食べケーキを食べコーヒーを飲み、帰りには無印に寄って彼女の好きなバウムクーヘンを大人買いした。夜中に電話していたら深夜のテンションになって、彼女の恋バナばかり聞いたり、うっかりわたしも自分のことを相談しそうになったりした。
そうやって夜中に笑い転げても、でも昼間のLINEの文面は日当たりの悪い部屋みたいな薄い影が見える気がした。


いくらわたしがなんとかしようとしても、限界はある。それはいまの彼女の悩みに限らないことだし、十分にわかっているつもりだった。限界を超えてでもなんとかしようというのは、わたしが相手に侵入してしまう行為だ。わたしにできることと彼女にできることを混同させてはいけない。頭でそう考えながら、でもどこか歯がゆい気持ちが拭えなかった。

彼女はこの件に関して、わたし以外にも相談をしていた。立ち行かなくなったとき、そうやってまわりにきちんと相談できる子なのだった。わたしはそんな彼女を素晴らしいと思う。仕事を辞めたいと涙が溢れるほどつらくても、「つらいときや困ったときに、わたしはまわりに相談できる、相談して良い」という、健康な人間の持つ基本的な軸みたいなものが揺らがないでいることが尊いと思う。


彼女を見つめていて、ある時、問題なのはわたしじゃないか、と顧みた瞬間があった。
彼女をどうにかしないと、と躍起になっていたわたしの行動は、さて本当に彼女のためだったのか、それともわたしのどこかにある埋めたい何かを満足させるためだったのか。
彼女にわたし以外にも頼れる誰かがいることを、濁りのない喜びと安心感を持って受け止めることができたのか。


どっちのためだって良いじゃない、彼女が喜んでくれたら。少しでもこころが晴れるのだったら。
わたしが欲しいのはこの言葉かな。わたしはそうやって背中をさすって欲しいのかもしれない。
でも、相談してくれて嬉しかったよ。いま言える本音は、情けないけどこの程度なのだった。

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