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なつのひかり

先日、とある機関へ出向き、10代の頃に起きた出来事について打ち明けた。出来事というのは数年に渡った性被害で、事故に巻き込まれたような始まりで、そこから洗脳されたように継続した。自分に何が起こっているのかわからない、という混沌とした恐怖を抜け、ほどなくしてあきらめるというところへ行き着いた。あきらめてしまい、わたしは逃げる、抵抗するなどの選択肢を自ら捨て、まるでそこに居場所を見つけたかのように安住してしまったのかもしれない。

話を聞いてくださった方とは信頼関係を構築しつつあるのだと思う。少なくともわたしはそのように感じている。そしてできれば今後も関わりを持ちたいと思っているのでこのように書く。
相手がどのように感じているかはわからない。でも、いまは相手の頭の中をできるだけ覗きこまないようにする。これは最近わたしがこころがけていることだ。

しんどそうだね? 
声を掛けられてから、しばらく言葉が出なかった。頭の中では様々な思いがよぎっているのに。言葉にならない気持ちを抱えたままにするのは気持ちよくはないけれど、でも、それらを何かとりあえずの言葉に置き換えてしまうことはしたくなかった。それはわたしにとって気持ち悪いことだからだ。
感情や思考が螺旋階段みたいなところをぐるぐる登ったり降りたりしている、とわたしは言った。そうやって何度も昇降して発酵しているみたいだ、とも。
ハッコウって、光るってこと?
あ、いえ、発酵です。食べ物とかの。
発光か。漢字変換の確認のやり取りをして、その変換の可能性に少し驚いた。螺旋階段を何度も昇降したものが、そのうちぴかぴかと光りだす。昇降がエネルギーを生みだして光をつくるのかもしれない。ぴかぴかとかじゃなく、もっと淡くしずかな光かもしれない。その光は何を照らすのだろう?
沈黙になりながらも、わたしはその光について考えたのだった。何も深い意味はない言葉(変換)だったのだと思うけれど、どうしてだかわたしには印象的だった。

それからしばらくしても、今日の目的は何ですか、あなたは何をしに来たのですかと問われるんじゃないか、と思うほどに言葉が出なかった。思考にぴったりの単語が結びつかない。悲しい顔をして誰かの助けを待つのではなくて、自分から助けを求められる人になりたいと思っているのに。こころのなかは悔しくて、焦って、視線が泳いだ。

あなたが話してくれることに、わたしはわくわくしてるよ。わくわくっていうのは楽しい話とか内容に対してではなくて、話してくれるということに対してね。
途中、わたしにそう言ってくださった。そして少し間があいた後、その方はご自身が経験されたことを話してくださった。遠慮がちに紡がれる言葉をつないで、わたしはその人に降りかかった事故のような体験を想像する。それこそ楽しい話ではなかったので聞いていて自分が苦しくなるのではないかと危惧しながら、それでもなお聞かずにはおれず、他人の穴を覗きこむような聞き方はしたくないと思いながら、しかしある種の興味を持たずにはいられないのだった。
それはいつのこと? 何年前? 時刻は? 季節は? 辺りの風景は? 暗くてこわかった? それともあかるくてみじめだった? 相手に対して何を思う? どうやっていま、それを振り返っている? なぜ、いまわたしに話している?
次々と頭の中に疑問符のついた感情が並ぶ。ただそれらを漏らさないように相手に悟られないように、無言でうなずきながら、わたしは相手の話を聞く。情景が少しずつ明かされていく。
わたしの話聞いててしんどくない?
心配して声を掛けてくださり、わたしは首を横に振る。
いろいろなひとにいろいろなことがあるんだな、とか、たぶんそんなことを考えていた。出来事をどのように受け止めるかも様々だし、様々であっていいということ。
わたしの出向いたような場で、相手に「自分のこと」を聞かされるのはつらいと感じる人も中にはいるのではないかと思う。良いことなのか、正しいことなのかはわからない。聞きながらそんなことを思いながら、でもわたしは話してくださり嬉しいと感じた。わたしは相手にとってtheyではなくweであるということ、one of themではなくone of usであるということを感じたのだと思う。

相手が話してくれたから、というわけではないけれど、でももしかするとそのような流れのエネルギーが漂い、それからわたしは自分のことを話した。その日のわたしにとって、人の話を聞くよりも自分のことを話すほうがよっぽど消耗することだった。しろい机や、壁に掲示してあるポスターや、目の前のものを確かに見つめているのに、瞳には何も映っていないような錯覚に陥った。涙は出なくて、声も体も乾いて湿度が低かった。
胎児のように丸まって座った姿勢から、ふと胃の中のものが込み上げてきて中座した。お手洗いで出会った人に顔色を心配されたのか声を掛けられ、大丈夫ですと手を洗い口をゆすぎ、部屋に戻った。
話したことでそのように反応する自分の体に対して、とてもとても、とても悔しかった。

帰路の一時間と少しの時間、悔しさを抱えながら、自分の外側を風景が流れていくのを眺めた。その日は真夏の暑さが残る日で、しろっぽくて眩しくて街が鮮やかに見えた。行き交う人たちを眺めているとなぜだか少し安心した。サラリーマン風の男性や、制服姿の子どもたちや、大学生くらいの女の子たちや。いろいろな人がいろいろなところへ向かって歩いている。
目の前にたくさんの人の日常があり、わたしはそれらの一端を見つめていた。瞳にとまって見つめては、流れて過去になる。ひどくくたびれながら、目の前に広がる世界が代えがたい大切なもののような、あるいはどうでもいいもののような気がしてくるのだった。
 


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