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ちからのないときにこそ得られるもの

この前読んだ話だ。

あるひとが、昼食にお蕎麦を食べようといつもの店に車を走らせていた。
そのお店は駐車場が狭いのだが、その日はいつもに増して混んでいる。停められないことはなさそうだが、なんとなく気後れして別の店に行くことにした。
「ああ、弱ってるなあ」
そう思いながら街中を走っていると、いままで気づかなかった蕎麦屋ののぼりが目に入った。
吸い寄せられるようにして初めてのその店に入り、なんとなく注文して食べると、なんとも好みの細麺。味もおいしく感動した。
うれしくなって、誰かを誘ってまた来ようと思い、その店を出た。
(おわり)


このエピソードで、書いている本人も後で述べているのだが、話の肝は「弱っていること」なのだそうだ。
いつもの調子なら、もう少し元気なら、駐車場に空きを見つけていつもの店に入ったのだろう。だか、その日はたくさんの車に気圧されて、入るのをやめたのだ。そのおかげで初めての店を見つけることができ、おいしいお蕎麦に出会う。
これは「はからい」なのだと。

こうやって見ると、つくづく、世界のエネルギーの総和はどうにかして良いように保たれるようできているのだなと思う。見えないところで取り計らわれて、小さいものから大きいものまでのいろいろな身近なものやことやひとが、収まるべきところへ動いているのだと。動いているあいだ、どうしてもその違和感にひかりが当たって、ズレや狂いが気になってしまうけれど。振り返ってみると、あれは必要なズレだったのだと、すとんと腑に落ちるときとそうでないときとあるけれど。


ちょっと調子よく過ごしていたのに、不意に不穏になってしまう。「不思議の国のアリス」で、アリスが穴に落ちていくみたいに。ちょっと覗いてみたその先が、暗くて長い。
落ちるのはすぐなのに、もとの場所へ戻るのはとてつもなく時間がかかることもある。今回はどうなんだろう。何度も通ったことのある道だ。その経験だけがいまの自分に頼りになるもの。
ちからのないいまだから、得られるものがあるかもしれない。振り返って、そうやって思えたらいい。


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