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恋が落ちてくる

心がずっと哭いている、気がする。

わたしの肉付きのいい太ももを、男が左手で押し上げた。
薬指の指輪の感触を感じる。
わたしは罪悪感も背徳感も感じることはなく、ラブホテル特有のよくわからないBGMが垂れ流された薄暗い部屋で、可愛らしい壁紙をぼおっと眺めていた。
なるべく当たり障りないような声を出して、ほどよく積極的に、相手に喜んでもらえるような女を演じる。
名前、なんだっけこの人。ひろきだったかひろしだったか、忘れちゃったけど。

「春香ちゃん、LINEしてないの?」
わたしは出会い系で知り合った男に本名を教えていない。4月生まれだから、なんとなく春香という偽名を使っている。この名前は、大学に向かうバスの中で考えた。
ウォーターサーバーから水を二つ持ってきた男は、パンツ一丁でわたしのまえに立っている。
ダウンライトに照らされて、汗ばんだ男の額がキラキラ反射していた。
「いえ、LINEはちょっと、すみません」
「そっか〜、残念だ」
男はあっさりと諦めるとガサガサとカバンの中を漁り出した。
「はい、これ、二万円だよね?」
男は裸の一万円札ニ枚をわたしの前に突き出した。
「はい、ありがとうございます」
わたしは両手でそれを受け取り、財布にしまう。
この財布は、先月家族みんなでアウトレットに行った時にお父さんが買ってくれた。
だから男からお金を受け取って財布を開いた時、お父さんの顔が一瞬浮かんで、少し心がチクチクした。

男はわたしを最寄り駅まで送ると
「じゃあね」
と一言、ブォンとエンジンをふかして帰っていった。
わたしは、会って寝た男に「またね」とは言われたことがない。わたしも言ったことはない。
理由は、一回限りの関係だからだ。
でも、悲しくもないし、虚しくもない。
むしろ、お金がつるんだ行為に情が入ることのほうが悲しいし、虚しいと思う。
わたしにとってセックスは、性欲を満たすものでも愛情を確認するものでもないからだ。

帰り道、太ももの裏に残る指輪の感触を思い出していた。
わたしから触れることはなかったけれど、あの男にはきっと妻子がいる。
20そこらのわたしとセックスをしといて、どんな顔で妻と子供に会うのだろう。
わたしの胸を触った手で箸を持って、妻のご飯を「今日も美味しいね」なんて食べるのだろうか。
こういう男と寝るたびに、一途で綺麗な愛情なんて幻想だと気付かされてきた。
だから、わたしは絶対に人を好きにならない。

あと、ずっと前から思っていたことがある。
人を好きになることを恋に落ちるなんていうけれど、それは違うんじゃないか。
恋に落ちていくんじゃなくて、恋が落ちてくるんだと思う。
高い高い空から大きなハートが落ちてきて脳天を突き刺す、体が潰される。
抜け出したいのに抜け出せない、身動きが取れないけど、なんかもうこのままでもいいかななんて身を任せてしまうのが恋じゃないか。
恋に落ちるんじゃない、恋が落ちてきてわたしたちは押し潰されているだけだ。
きっと、そうだ。
だから、わたしは恋をしない。

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